第八十六話 夜明けの鳴動
四体の悪魔はドラグロのゴツゴツとした黒い肌の上を興味深そうに歩いていた。とりわけヴェッチェはとても興味深そうにかつ愛おしそうにその肌を眺めては、時折しゃがんで顔を地に近づけてはじっくりと観察をしており、ヴェッチェがしゃがんだ姿を始めてみたヘクゼダスは、しゃがむためにたわんだ彼女のスカート上の足の内側には何もないことを知り、巨人よりも彼女の体の構造に一人驚いていた。
ヴェッチェは本当は一部を持って帰って研究をしたくてたまらなかったのだが、巨人から体の一部を採っていくことは許されていないのを知っていたので、目の前に欲しいものがありながら手に取ってはいけないというジレンマに、ここに来ることを頼んだことを後悔していた。
「ぜひとも他の巨人にも乗ってみたいものですが、あまり時間もありませんからねえ。いずれお暇をいただいて一人で来るとしますか……」
彼女はこれ以上ないくらいに名残惜しそうに真顔でため息をつくと、まっすぐ立ち上がって今度は頭の方へと早足で向かっていった。あの足で高速で移動しているのは実に奇妙でコミカルな動きにドン引きするヘクゼダス、が、微妙に前傾姿勢でちょっとしたマラソン選手並みの速度で彼女が動いているのは、同時に面白くもあったが、決して一ミリも笑ってしまわないように彼は自分の腹に尾の先を強めに何度も当てて笑いを堪えていた。
「ヘクゼダスも行こうよ!」
と、キエリエスが彼女の後を追うように飛んでいくので彼も走って追いかける。この地面はところどころ鋭い部分があり、人間の状態で裸足で走っていれば確実に足がボロボロになっていただろう、悪魔の硬い足になっていてよかったとこの時ばかりは悪魔に転生したことを感謝していた。
ふと、彼はギダリアド族の方を見て彼らがあまりグムデアテルから離れようとしないことが気になっていた。先ほどのれらが述べていた通りあまり彼らとしては巨人の上に上るのは好きではないためかもしれない。だが、それとはまた違った雰囲気を彼らは感じているように見えた。降りるまでは見せなかった顔をして。
「やっぱりなんか起きそうだな……」
不安に駆られつつも、とりあえずはキエリエスについていく。いざとなったらどうにかなるだろうという場当たり的な思考故の判断だった、もし彼が己の不安に従順であれば、この直後に起きる事故を未然に回避できていたかもしれない。
「うっわあ……」
ヘクゼダスは、巨人の顔を見て引きつる。間近で見る巨人の顔は実に不気味なもので、不規則に点在する三つの赤い眼の輝きがよりその恐ろしさを増して見えた。まだ眼まで百メートルはあるだろうが、大きさは彼の体と同等かそれ以上の直径があるように思われる。怪しく光を灯しているそれは、一体どこを見つめているのだろうか。この巨人は二千年もの間、何をこの場所から見続けているのだろうか。
風が吹き抜ける、このゲームのようなイラストのような偉大なる景色に彼は柄でもないことを頭に走れらせていた。この広すぎる世界で自分は何をなさねばならないのだろうか、制約の多いサイカロスとしての人生において自分があこがれた転生ラノベ主人公のような華々しくも雄々しい冒険を送るためには。このままでは何百年と続くかわからない一生を、沢山の悪魔の僕として生き続けねばならないが、かといってそう簡単に下克上を果たせそうなほど柔な相手には到底思えない。
ハーレムでもなければチート能力もなく、かといって知識無双できるほどの知識もないしその上思っていたよりも常識の異なったこの世界において現代日本でえられる知識がどれほど役に立つのかすらわからないのだ。安易に異世界転生なぞ考えるものじゃないなと、今更になってしみじみと後悔を覚えていたのであった。
「まあ……」
彼は今まで会ってきた仲間のことを思い浮かべていた。
「…………」
彼が何かを短く呟いたが、それは風切り音によってかき消されてしまった。そうでなくとも、誰も耳を貸してなどいなかったのだが。
彼は再び足を前に進めて先行する二人に近づいていくと、ヴェッチェが巨人の顔の真横に立って側頭部に手を当てていた。質感でも感じているのだろうかと考えたのだが、この直後に彼女の取った行動に彼はまたしても彼女の予想外の能力に目を疑うこととなった。
彼女は手を離すと真横になった。どういう意味かと問われてもそのままその通りの意味なのだから仕方がない、ただもっと分かりやすく説明すると、彼女は地面と平行になりながら巨人の聳え立つ頭を登っていたのだ。手はまっすぐと体の横に添えたままで登頂に使うことは無くただ直立の状態でまっすぐ空を見上げながら足の力だけで登っていた。足先は地面を歩く時と変わらぬ様子でワシャワシャと動いておりその動きが特段、否、まったく変わったという様子は見られなかった。
ヘクゼダスが茫然と見上げている一方でヴェッチェは頭の中間地点ほどまでたどり着くとそこで足を止め、代わりに体ごと顔を巨人の顔と同じ方向へと向けた。
「フラー様~」
頭の周りを飛び回ってきたキエリエスが、羽を羽ばたかせることもなく緩やかな線を描いて彼女の元へと飛翔する。キエリエスはヴェッチェの隣までたどり着くと二人は何やら顔を近づけて話し合っていた。時折笑い声がヴェッチェからも聞こえることから恐らく世間話でもしているのだろう。下にいるヘクゼダスにはその内容は聞こえなかったものの、ああいった女性同士の何気ない会話という光景も悪魔と人間では変わらないのだなと彼は懐かしく思い出していた。
「おーい!お三方ー!」
遠くからロバトの呼ぶ声が聞こえる。彼はグムデアテルの操縦席の窓からこちらに向かって大手を振ってヘクゼダス達に呼びかけていた。
「なんだろ」
「そろそろ時間ですよー!!」
(もう……)
この景色が見られなくなるのは名残惜しいという気持ちと、この歪な雰囲気を持った巨人から一刻も早く離れたいという思いが複雑に彼の心の中で拮抗していたが、彼は仕方がないと自分を納得させると、ゆっくりとした駆け足で船の元へと戻っていく。ヴェッチェとキエリエスも話を切り上げてさっさと頭を降りると彼に追いつくくらいの速度で船へと戻っていく。
どうやらあの得も言われぬ不安感は杞憂だったようだ。このまま船でギダリアドの村まで戻り、返礼品を皆で持って城へと戻るのだろう。そんな彼の不安からの解放という安堵が、フラグを見事に回収してしまった。別に彼が何か至らぬことをしでかしたというわけではない。本当に偶然に、彼らは不運に遭遇してしまったのである。
「ん?」
ヴェッチェは何か大きな力をすぐ近くに感じ足を止め足元を見降ろした。
「フラー様?」
突然ヴェッチェが足を止めたものだから、キエリエスは急ブレーキをかけて不思議そうに彼女の方を振り返るが、ヴェッチェの神妙な顔にすぐに何か良からぬ出来事が近づいていることを悟り、追い抜いていたヘクゼダスと、船の方に急ぐように伝えた。
「ヘクゼダス急いで!!ギダリアド族も船を飛ばしてください!」
突然温厚そうな彼女が声を会上げたので何事かと彼らは疑問に思ったが、ギダリアド族の一番年長の男性とトットットはすぐに彼女が言わんとしていることを理解すると、すぐさまロバトに船を離陸させるように指示した。
「ど、どうしたんだよ!」
事態を理解できないロバトは落ち着かない様子で尋ねると、年長の男は血相を変えて彼にこういった。
「ドラグロが動き出す!!」




