第八十五話 黒きドラグロ
「そこの角の方とセイケビエントの方、ロバトとはもう面識が?」
「え、ああ。さっき港で」
紛れもなく港で出会った青年はロバトその人である。あの時はただの港湾労働者だとばかり思っていたが飛行船のパイロットをやっているような人物だとは夢にも思わなかった。ヘクゼダスはヴェッチェが座ったのを確認すると自分もその後ろにどっかと腰を下ろすとその隣にキエリエスが座りカジキ頭はヴェッチェの隣に陣取った。
「ロバトは代々グムデアテルの舵取りを営んでいる家の次男でしてね、兄のベッガもよいグムデアテル職人でして彼の父も祖父もそういうグムデアテルに関わって生きてきた一族なんです」
「へえー」
うまいたとえ話の思い浮かばなかったヘクゼダスは、農家みたいだな、と一番それっぽいと思った例と重ね合わせて頷いていた。ロバトは頭を下げて礼をすると、早速船首へと向かい、操縦に取り掛かった。彼が立った場所が恐らく操縦席なのだろう、床からは三本の長い棒が突き出ており席廻りにも同じように短い棒がいくつも操縦者に向かって伸びている。それを彼は何のためらいも迷いもなく決められた手順通りに操作をしていくと、小さいもののグムデアテル全体を包むようなまるで川のせせらぎの如き清らかな音が耳に入ってきたのでヘクゼダスは何事かとあたりを見回す。慌てているのは彼だけで、他の者たちは皆落ち着いているどころか、ヴェッチェは目を瞑っておりどことなく心地よさそうに耳を傾けている。キエリエスも特に驚くことは無いという表情で、寧ろそわそわしているヘクゼダスのほうが気になって彼を見上げてきた。
「どしたの」
「あっ、いやな、なんでも……」
随分と山口功らしさは抜けてきたものの、まだ女性に不意に話しかけられると弱いようだ。などと彼がせわしなくしているうちに、船は離岸し空中を飛んでいた。窓際に座っていた彼は、小さな窓から外を覗き込むと眼下に広がる谷底が、より一層遠く小さくなっていく様子を眺めて恐怖を覚えていた。高度に位置しているはずの村ですら小さくなっていくのは、それよりも巨大な巨人の上に出るためである。
「フォルタニッツァの大きさはさまざまです。村のある柱よりも低い個体もいれば、柱の二倍もあるものまでおりますので」
「今回はどれくらいのものに連れていっていただけるのですか」
「今回は今近くにいて尚且つその中でも一番背の高いドラグロという黒曜石で主に構成されたとても迫力のあるフォルタニッツァに向かっております」
「素晴らしい」
黒曜石で出来た巨人とはまた中二臭い奴だな、と思っているのは彼くらいであろうか。黒曜石でできているということは、つまりその体は真っ黒く、そしてツヤのある表面をした巨人ということになるだろう。とてもオタク心に語り掛けてくる存在に彼は内心心をひかれつつ外の景色を楽しんでいた。
「うわ高いねぇ」
キエリエスも外を見てみたくなったのか、彼の頭に顎を乗せる形で彼女は外を覗き込んだ。この時のヘクゼダスは緊張と興奮とで三つの心臓の高鳴りは最高速度をマークしており最早外の景色など一ミリも目に入っていなかった。おまけに後頭部に柔らかなものが当たっているではないか。これは確実にアレであると確信した彼は、当たっているということを言わずに一言も口を利かずにその柔らかな感触を大いに味わっていた。
スケベな元人間の悪魔が同僚の悪魔の柔らかさを後頭部で味わうのに意識を奪われているうちに、船は巨人ドラグロの頭上まで到達してしまっていた。彼が正気に戻ったのは、キエリエスが巨人に気づいて反対側へと移ってしまったためだった。
後頭部に残る感触に名残惜しさを思いつつ彼も反対側へと移って窓から巨人を見下ろす。その姿に、ヘクゼダスは背筋を凍らせていた。
「なんて……禍々しいんだ」
ドラグロは、体表の九割以上が黒く、表面には他の巨人のように植物はまったく生えておらず、小さな頭の中心には三か所不規則に位置とられた丸い眼が輝いていた。
「ああ、胸躍るとはこのことを言うのでしょうか」
気づかぬうちに立って窓の外の巨人をうっとりと見つめていたヴェッチェの心には、あれは美しく素敵なものに見えているようだ。ギダリアド族はというと、彼らはいたって平静に構えておりどうやらあの巨人に恐怖を覚えているのはここではヘクゼダスだけのようである。
「大丈夫……なのか?」
こういう感覚のギャップを感じた時は、とりあえずまず「ここは異世界」と考えるようにしていた。そうすれば受け入れ難い現実も、納得できるような気がしてくるのだ、完全にプラシーボ効果でしかないのはわかっていたが、何もせず直面して受け入れられず混乱するよりはいくらかマシだろうという考えに行きついた結果の判断であった。ここでも彼は同様に異世界であることを再認識しつつ、改めてドラグロを見た。
「やっぱヤベエわあれ」
二度見ても同じことであった。とにかく慣れるしかないだろう。
船はやがて旋回を止め、ドラグロの頭の横に向かって滑るように降りていく。グングンと巨人が近づいていき、遂にグムデアテルが巨人の表面に着陸した。地面に触れた際にも小さな振動しかなかったのは、流石若くして一流と評されるだけのことはある。
もう一度短くせせらぎの音がして船は停止した。男が出入り口のロックを外すと扉を開け乗客たちは巨人の上へと降り立った。
「ああ、長年の夢の一つが叶いましたよ……」
ヘクゼダスの背後でヴェッチェが消え入りそうな声でそう呟いたものだから思わず振り返ると彼女はやはりというか、そんな声を出してもなお表情に喜も楽も読み取れずいつも通り口だけが感情を表していた。
「すごく黒いよねー。真っ黒」
と、キエリエスがしゃがんで表面をさすりながらつぶやいた。
「真っ黒だな、ほんと」
彼も同じようにしゃがんで巨人の表面を確かめてみるが、昔触ったことのある黒曜石の感触そのままの手触りに、どうして異世界にも拘わらずあちらの世界と同じ物質があるのだろうかという疑問があった。
「フラー様」
聞きなれぬ声が、背後でヴェッチェの名を呼んだ。
「トットット。どうしました」
ヴェッチェが反応していること、そしてその変な名前からヘクゼダスはその声の主を予測したものの、その顔でその名前なのかという現実が受け入れられず、彼はゆっくりと振り返った。
「一つ気づいたことがあるのですが」
丁寧な物腰でそうヴェッチェに話しかけているのは、今まで一度も声を発していなかったカジキ頭の悪魔であった。どうして今の今まで口をきいていなかったのかはさておき、彼或いは彼女もしくはそのどちらでもない悪魔の気づいたこととはいったい何であろうか。キエリエスが向こうのほうに駆けていくのをしり目に彼らはトットットの話を聞く。
「このドラグロとかいう巨人、他のと異なって動きませんね」
「そうですねえ」
言われてみれば、この巨人一歩も動いていない。振動も上下への揺れも何一つ起きておらずこの巨人はずっと直立不動のまま動く気配がなかったのだ。
「巨人が常に動いているという決まりはないでしょう。もしかすると、この巨人はあまり動かないものなのかもしれませんね」
「ああ、そういう可能性も十分にありますね」
などと悪魔内で考察をしていると、ギダリアド族がこの巨人についてあることを教えてくれた。
「このドラグロ、一族が二千年前に発見してから一度も動いてはおりません。今の一度も」
「い、一度も!」
「そういうことがあるのですねえ」
と、ヴェッチェがしみじみとそう呟いているのに対し、ヘクゼダスは得も言われぬ不安に駆られていた。
どうにも嫌な予感がしてならなかったのだ、確実にフラグが立っている、と。




