第五十九話 森の欠片
「何が……」
サイカに触れたヘクゼダスが茫然とした表情でそう言った。仲間たちは何故彼が全身血濡れなのかを問いたかったが、それどころではなさそうな彼を見て言葉をとりあえず押しとどめておいた。
「これは……」
透き通ったガラスのような膜で覆われて動かないサイカは、顔を引きつらせ苦悶の表情を浮かべたまま固まってしまっていた。一体誰がこんなことをしたのかと、ヘクゼダスは頭に血を昇らせた。
「これは……さっき空を飛ぶ人間が撒いた粉でこうなってしまったんだ。呪術の類ではない。こんなもの誰も見たことがないから困っていたんだ」
最初に口を開いたのはコッフェルニアであった。彼もまた他の悪魔同様に首を捻って打つ手なしといったところのようだった。数百年この世界で悪魔をやっている彼らにわからないのだから、つい最近こっちに来た新参者がわかるわけがない。ため息を深く吐くと、彼女の傍に腰かけて黙り込んだ。
「ねえ、お前血塗れだけれど……」
そう声をかけてきたのはサイカによく似た黄色いドルゴームであった。サイカよりも体の凹凸が大きく実にスタイルのいい悪魔であることから、ついこの間サイカが言っていたことを思い出した。
「えー、キ……キウ」
「キウヴォッカルだよ。知っててくれたの?うーれし」
そう微笑むと、彼女はサイカの頭を撫でながら戦いについてを語ってくれた。
「まあ勇者と騎士とヴァルフェグ……あと弓を使うちっこいのがいた気がするね。まあ私らは見ればわかる通り結構やられたんだけどそれでも追い詰めたんだよ。だけどねえ、突然、ほんと突然変な人間の男が現れてサイカに締め付けてた騎士ごと粉をかけたんだ。そしたら何故かサイカだけこうなってしまってね……」
いちいち仕草が悩まし気なのは置いといて、その続きをコッフェルニアが話してくれた。
「倒すことはできなかった。まんまと逃げられてしまったよ」
「そうか」
犯人がこの場にいないのでは、適切な処置もわからない。それに彼女が生きているのかすら……
「で、なんで血濡れなんだ」
と、ガイウスト。そうだった、とヘクゼダスはことのあらましについて噛みながらも説明した。すると聞いていた一同は皆表情も豊かに驚いたり頷いたりしてくれたものだから、ヘクゼダスは少しいい気になった。こうして他人の注目を浴びて驚いてくれるのは実に気分がいいものだ。こう言った気分になったのはいったいいつぶりだろうか。
いつだ……
「もしかすると、人間たちが騒いでいたのはお前があいつらの仲間を殺したからじゃあないのか?」
「え?マジ?」
「ああ」
だとすると、だとすると、だ。自分は血筋を持つ強力な勇者の一人を倒したということになるのだろうか。それも単独で。
「驚いたぜ。お前がそこまでやるとはな」
ガイウストは、目を瞑ってうんうんと頷いており、その口元はどこか笑っているように見えた。それに気づいたキウヴォッカルが、彼の元にすり寄って口元に指をあててぐりぐりと茶化し始めた。
「あなた珍しいわねそんな顔」
「やめろお前は馴れ馴れしいんだいっつも!」
そうやって唸るガイウストだが、彼女は決して離れることも止めるようなそぶりも見せず相変わらずちょっかいを出し続けていた。ガイウストは実に不愉快そうではあったが、それでも跳ね除けたりしないのは何か弱みでも握られているのだろうかと思わずにはいられなかった。
「俺たちはどうするんだ」
ヘクゼダスの問いに、コッフェルニアが答える。
「今は待機だろうな、隊長も死んでしまった。とにかく指示を待つしかない」
(隊長っていたのか)
と今更ながらに思うヘクゼダスであった。まあ死んでしまったものを気にしても仕方がないだろう。ヘクゼダスは手ごろな切り株を見つけてどっかりと腰を下ろすと、槍を地面に転がして森を眺めた。敵がいつ来るかわからないこの状況でこうして見知らぬ森のど真ん中にいるというものは、どうにも心が落ち着かなかった。これは恐らく恐怖によるものだろう。上を見上げても十メートル以上も伸びて空を覆いつくさんばかりの鬱蒼と茂る木々自体に恐怖を感じる上に、その木々の葉で下に差し込む光は多くはない。森という存在自体が恐怖を孕んでいるというのもあった。
「キエリエスは無事だろうか……」
彼はそんな感情を頭から追い出そうと、あのナイスバディなサキュバス娘のことを思い浮かべていた。