第五十六話 骨と力と
「どうする俺……」
考えている暇はない、否与えてはくれない。その場その場で動きながら次の手を打つという反射を要求される戦いだった。ヘクゼダスはひとまず真横にあった自分の倍ほどある高さの若木を両手で握りしめると、全身に力を籠め思いっきり引き抜いた。
「ふんぐぬぬぬうう!!」
根の引きちぎられる音とともに木は引き抜かれ、土が散乱する。
「ハン、悪魔だねえ!」
ヘクゼダスの予想とは裏腹に、驚くどころか鼻で笑ってきた獣人に逆に驚かされる。
「丸太もとい木だけど……」
手元にある木に対し、彼は引き抜く直前からあることを思っていた。
(大丈夫かこれ)
彼が握りしめている木は、まっすぐではなく捩じれ湾曲していた。そう、ここはモリトゥンの森全ての木々は不可思議に曲がっている奇妙な土地。この若木も例にもれずシャムシールどころではない弧を描いてひん曲がっているのだ。おまけに根元は普通の色なのに真ん中あたりから鮮やかな黄色に染まっている。思えばこの森を外から眺めている時からいかれた森だとは思っていたが、実際に意識して見てみると、その気味悪さは一層なものとなる。
とにかく、
「オラー!」
木を振りかざして今度はヘクゼダスが襲い掛かるが、獣人は軽やかにジャンプすると、振るった木の上に着地し、そのままもう一度跳躍して今度は何とヘクゼダスの頭の上に立って見せたのだ。獣人の体重が首にかかり、折れるかと思った彼は慌てて転がって振り落とした。
「鈍いったらありゃしない。雑魚も雑魚を引き当てたみたいねえ、勘違いして損した」
やれやれとため息をつく獣人、それに苛立ちもう一度木を振り回して攻撃するものの、何度やっても軽々としなやかに攻撃はすべからく回避されてしまった。そのしなやかさは流石猫型獣人といったところか。
(というか、こっちにも猫っているんだな)
異世界といえど、生き物に共通点があることに気づいた。皆おぞましい見た目をしているが、動物の体を組み合わせたいわゆるキメラタイプの悪魔たちも元の世界にいた動物のパーツを使っていることが異世界人である彼には一目でわかった。いったい何故……
「ぼーっとしてるとこっちからやらせてもらうよ!!」
戦いの最中だったことを思い出すが、もう遅い。獣人の放った蹴りが胸にクリティカルヒットし、ヘクゼダスはまたもや何メートルも吹っ飛ばされてしまった。
「おあああ!!痛い、あばら折れたよこれ絶対!痛いいいーー!!」
やかましい悪魔である。丈夫な体なので全くもってヒビすら入っていないのだが大げさに反応する彼を見て通用したと思ったのか彼女は追撃を加える。
「ふん!」
今度はあのメイスが足目がけて振り下ろされた。あたれば今度こそは本当に折れるだろう一撃だったが、メイスの一撃に比べると痛みはまだマシということに気づいたヘクゼダスが素早く転がって回避したので食らわずには済んだようだ。
「畜生クソ猫めマフラーにしてやる!死ね!」
思い切って今度は木を投げつけてみた。予想通り投擲はよけられてしまったが、その隙に彼は獣人の目の前まで接近していたのだ。
「んなっ!」
古典的な手にやられたとショックを受ける獣人、ヘクゼダスは獣人の首根っこを右手で握りしめ持ち上げた。
「馬鹿め」
笑いが漏れ出す。強敵と思っていた奴も、今こうして自分の手にかかろうとしているのだから。あとは殺すだけ。ヘクゼダスは左の拳を力いっぱい握りしめると、引いて突き出した。悪魔の本気で突き出された拳には、さしもの歴戦の戦士も敵わず腹から侵入した腕は背中から背骨ごと貫いて突き出していた。血と内臓とが腕に引っかかり腕から滴らせている……はずだった。だが実際に起こっていたのは、獣人がヘクゼダスの首に脚を回しきつく締めあげ、両手を顎と頭に掛けていた。
「ば?」
くぐもる声。今の一瞬に何が起こったのか脳が処理しきれていなかった。確かについ一瞬前までは敵は右手に首を掴まれぶら下がっていた。しかし今獣人は自分の首に絡みつき首を絞めへし折ろうとしている。
「ほんと三下、ゴミ、あんなんでやられるわけないじゃん。遊んでたんだけど、やられた振りしてやってたの…!」
の、で更に首を締め上げる。呼吸が困難になってくる。このままでは窒息が速いか折られるのが速いかだ。獣人はテンプレのような嘲笑い方でヘクゼダスを罵倒すると、顔を近づけ別れを告げる。
「じゃね、暇つぶしにはなったからあ」
「ふ……」
「あ?」
怒りがこみ上げる。それは命を弄ぶなだとか、そういう正義感ではない。女に馬鹿にされたという嫉妬と、陰キャキモオタの、まあよくわからない怒りによる純粋さの欠片もないものであった。ある意味純粋な。
「あ゛あ゛あ!!!」
ヘクゼダスは脚で体に押し付けられている腕を無我夢中で押し上げると、そのまま獣人の腕を掴み力いっぱい引っ張った。獣人の獣の如き叫びが森に轟く。
「ハアー……ハアー……」
頭のてっぺんからつま先まで血にまみれたヘクゼダスが両手に持っているのは、腕であった。それは先ほどまで獣人の両肩から生えていた、ふさふさの毛並みの揃ったしなやかで強靭な腕であった。
「俺をバカにしやがって……許さん……」
ヴェッチェならいい、サイカでも許す……キエリエスならちょっと興奮する。何故なら自分より圧倒的に強いから。そして、彼らは仲間であるから。しかし敵である奴にこうしてコケにされるのは気が済まなかった。引き抜いた腕を地面に乱雑に投げ捨てると、両腕を失ってのたうち回っている獣人に歩み寄り血と涙と鼻水とに濡れる頭を掴んで持ち上げた。
「…………お前が選ばれし勇者だとかそんなこと知らない……俺は悪魔として上り詰める。だからお前のような雑魚に苦戦するわけにはいかないんだ……ゴミ」
最早声にもならない呻き声をあげている獣人を、その頭を片手で握りつぶした。まさにリンゴのようにとはよく言ったもので、どす黒い果汁を存分に滴らせて土を潤す。割れて砕けた頭蓋骨と脳味噌とが、彼の指の隙間から覗いている。握った手を開くとまだ痙攣している体が落ちた。ヘクゼダスは手に塗れた血と脳とをジッと見つめていたかと思うと、驚くべきことに彼はその手を舐めたのだ。自分でも何故こんなことをしているのかはわからない。しかし誰かが囁いているのだ、自分の中にいる誰かが。
「マズイな、猫ってのは……」
血の混ざった唾を吐き捨てると、返り血もそのままに歩き出した。次の勇者を血祭りに上げるために……
それでいい、ヘクゼダス・アグログアールよ。貴様はいずれ……