第三十一話 無意識下の常識
席に着いた二人は、最初にサイカが手に取った一番最初の書物を置いてページを開いた。歴史の話の時も思っていたが、本に書かれている文字は日本語でも英語でも、アラビア語ですらない。見たことのない不思議な文字ではあるが、ヘクゼダスは奇妙な感覚を味わっていた。
「読める……」
そう、読めるのだ。ほぼ初見でなおかつ地球上のどこの文字でもない、習ったわけでもないこの言語を彼は何の引っ掛かりもなく読めた。
「そりゃ読めるさ。ギロイッチュはサイカロスなら皆読めて当然」
すっかり機嫌を取り戻していた彼女は何言ってるんだと言いたげにそう言った。ギロイッチュという響きはともかく、一体いつ自分が読めるようになっていたのかさっぱりわからなかった。
「どうして読めるんだ。学校でも習わないのに」
そういうと彼女はクッフッフと口元を隠して笑う。こういうところは人間みたいでなんだかアニメを見ているような気分に襲われた。
「人間の時の君は読めなかっただろうけど、体を作り替えられたときに読めるようにされたんだよ、皇帝陛下によってね。だって言葉がわからなきゃ二進も三進もいかない、だろう?」
「ええ!体だけ作り替えられたんじゃないのかよ」
「ええ」
そこで彼は気づいた。そういえばこうして自然に悪魔たちと話しているが、言葉が通じているほうがおかしいのだ。異世界の、それも悪魔が日本語を話しているほうがむしろあり得ないというもの。そう思うと今まで見てきたアニメや漫画で日本人と外国人が普通に会話をしていたのはどう考えても変なものである。そういえば、それを考慮してか都合よく日本語を知っている外国人の設定もたまに見たような。
「そんなことより読め」
「あっはい」
ページをざっと眺めてめくる。ふと思う、とうことは自分は今日本語じゃなくて悪魔語を話しているということなのだろうか。だとするともう日本語は喋れないのだろうか。そんな不安が不意に心の片隅に湧いた。どんどん自分というものが、自分の気づかぬうちに無くなってしまっているのかもしれない。これも自分が望んだことであるというのに。なんだか虚しさやらホームシックのようなものが胸をきゅっと締め付けた。
「ヘクゼダス」
「えっ」
サイカの声に現実に引き戻された。しまった、つい耽って本を読む集中を欠いてしまっていたようだ。
「あ、いや、そのなんでも……ない」
「集中を欠いてるな」
「……すまない……」
また殺されそうになるのかとびくびくしていたが、尻尾が体を締め付けるような感覚は無かった。それどころか彼女は怒ってなどはいなかった。
「途方もない分量なのはわかる。だけど君には人間の時よりもはるかに長い猶予が与えられている。例え十年や二十年たったとしてもそれは人間にとっての一瞬。一分一秒程度にしかならない。これから長い時をかけて修練を積めばいいじゃない」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それどういう意味」
彼女の口から出た言葉があまりにも自然な流れであったため危うく聞き流すところだったが、どういう意味なのか。
「君もサイカロスの同胞として人間やらなんやらよりも何百何千倍もの寿命を得た、という意味なんだけれど。忘れた?フラー様が何千年も生きてらっしゃるということ」
「そういえば」
いや、そんなことはどうでもいい。つまり自分は人間のような百年弱の寿命ではなくそれこそ人類の歴史並みの寿命を得たということなのか。一体全体あと何千年生きられるのだろうか。不安と好奇心から彼は尋ねた。
「さあ、それは種によるとしか言えない。あとは戦死事故死もあるから皆長生きというわけじゃあないけどね。何人か歳を教えてあげようか。人間の感覚でそれが年寄りなのか若いのかわからないけど」
知りたいようで知りたくないような気持ちが渦巻いていたが、好奇心が勝ってしまった。
「私は九百八十八歳。まだ若輩者だけど。ガイウストは六百になったばかりだったかな。キエリエスだっけか、彼女は四十二歳。赤ん坊のようなものかな」
「そう、か……」
一緒にいた二人が思いのほか長生きだったことに驚いたが、もっと彼にショックを与えたのはキエリエスの四十二というやけにリアルな数字であった。せめて二百とかなら悪魔ということで受け入れられただろうが、人間でも普通にごまんといるような年齢を出されると、やけに現実的で少しショックを受けた。
「さて、そんなことはさておき始めようか。生憎私は君と行動を共にする以外の命令は無いものでね」
促されるままに読書を再開したが心に生傷を負った彼の心は複雑であった。
「因みにフラー様の歳は知らない」
「いいよ、別に」