第十六話 番狂わせ
刃は振り下ろされることはなかった。それどころか勇者の方がもだえ苦しんでいるではないか。霞む目を凝らし、勇者を見上げると、彼は剣を振り上げた状態のまま頭に赤黒い粘液をまとって身をよじっていた。
「まさか……ヴィ、ヴィシュ…マス」
その通り、ヴィシュマスの体の一部が、剣が振り下ろされる寸前で勇者にとびかかり、顔を覆ってしまっていた。勇者の呼吸は遮られまた頭全体がとめどない苦痛に襲われていた。それもそのはず。魔法合金製の鎧でさえ浸蝕する強酸性の液体である。それを生身に直接あびたのだから、選ばれし勇者とはいえ体は人間であるため見る見るうちに溶かされていっているのだ。その苦痛、想像するに忍びない。その上口を完全に覆われているため声すら出せず、耳も同様、眼も一瞬のうちに溶かされてしまっていた。
勇者の体が徐々に全体を覆われていく。次第に動きを止め倒れこんだ勇者だったものは、いつしか痙攣するのみであった。
「え、えぐいぜえ……ハア、ハア……」
痛みに顔をしかめながら声を絞り出す。そこからの意識は途切れてしまった。だが途切れる寸前、聞き覚えのある声が微かにした気がした。
「ま…たく…け…い……ね……」
ヘクゼダスが再び目を覚ましたのはそれから二日後のことであった。全身にあたたかな感触を感じた彼は、ゆっくりと瞼を開けた。目はまだよく見えないが、世界は緑色に染まっていた。耳に入るのはやけにうるさい気泡のような音。それに浮遊感もあった。
「おやおや、お目覚めかね」
しゃがれた声がどこからか聞こえるが、どうにも遠い。例えるなら何かを隔てているような。彼は人間だったころの、子供のころのプールで潜っているときに外から友達が呼んでいる時を思い出していた。あれは確か五年生の時……
(プール!?)
覚醒した彼はようやく自分の現在の状況に気づいた。まさに今自分は空気中ではなく水中にいたのだ。手足をばたつかせもがくが、やけに体中にまとわりつく緑色の液体をうまく掻くことができない。その上体のいたるところに細い管が差し込まれており、もがくたびに手足に絡みついた。目覚めた途端に溺死なんて、と無我夢中でもがいた。
「ほい」
先ほどの声の主が気の抜けたようなこえでそういうと、勢いよく彼は前に引っ張られ、硬い床に叩きつけられた。
「あいだっ!ゴホッオホエエ……エッ!」
口の中に入り込んでいた液体を吐き出す。
「ハアー……ハーッ……」
全身に力が入らない。かろうじて四つん這いになって呼吸を整えながら、自分が今いるところを確認しようと、顔を上げた。すると目の前にあったのは、巨大なカマキリの頭であった。
「ぎゃあ!化け物!」
跳びあがったヘクゼダスはそのまま後ろの壁に激突する。
「失敬な。化け物とは人間のことだろう。ああ、君は元人間だったな」
先ほどのしゃがれた声とはまた違う声で、カマキリは顔をしかめた。恐らく。
「ビエットス。まだこいつはこっちに慣れてない。そりゃ驚くってものだろうさ」
今度の声はしゃがれていた。ヘクゼダスは左を見ると目が四つある馬頭の、体がリザードマンのような鱗で覆われた悪魔がいた。カマキリの方も体はカマキリではなくクリスタルのような透明度を誇る上半身にタコのような足をなん十本も持っているというちぐはぐな体をしていた。
「あ、ああ……そうか。俺悪魔になったんだよな……」
ようやく自分が悪魔に転生したことを思い出した。それで確か勇者たちと戦って……
「なあ“あくま”ってなんだ」
「戦いは!?どうなったんだ?勝ったのか?」
ビエットスと呼ばれた悪魔の問いを無視し尋ねた。
「ん、ああクウェリントンたちと一緒に行ったやつな。勝ったといやあ勝ったし負けてはいないんだがね」
煮え切らない答えをする馬頭の悪魔にいら立ちを覚えながら語気荒々しく問いただす。
「落ち着け。君はようやく回復したところだよ。そうだね、君は致命傷を負って倒れた。ヴィシュマスは勇者を食らった後爆裂魔法を受けてひどく損傷を受けたな。生きてるがね。クウェリントンは死んだよ」
「そ、そう……すか」
足腰から力が抜けた彼は、床にへたりこんだ。馬頭は続ける。
「危機一髪だったよ?ヴェッチェさんが助けに来なけりゃ今頃君は死んでたナア」
「え?」
耳を疑った。あのヴェッチェが助けに来た?
「あ、あのヴェッチェが助けに来たっていうんですか!」
「ああ、彼女が想定していたよりもあのパーティは強力だったらしくてね。彼女結構どんな仕事でも責任をしっかり背負うタイプだから、自分のミスで失敗を起こすことを良しとしなかったんだろうさ」
ビエットスが魔法で床に広がった液体を消しながら言った。




