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第百二十一話 刹那

 まだうずくまっているヘクゼダスをしり目に、ヴェッチェはイェルヴェルーニウのほうへと向き直ると一つの提案をした。

「イェルヴェルーニウでしたね。あなたに一つ、提案があります。飲むか飲まないかはあなた次第ですが、どちらを取ろうとも殺しはしませんよ」

 イェルヴェルーニウが黙って頷くと、ヴェッチェは口だけを微笑ませてその提案とやらを伝えた。

「我々とともに来ますか?サイカロスについての研究をさせてあげますよ、サイカロスに囲まれてね」

 その言葉にイェルヴェルーニウは大きな衝撃を受け、思わず手にしていたザブーラウ(※1)の乾燥粉末の入った木箱を取り落としてしまう程であった。彼は手を震わせあからさまに動揺している様を呈しつつしゃがんで落とした箱を拾おうとするが、上手く手が定まらない。

(サイカロスの拠点で研究をできる?それは、それは……なんという)

 こんな機会、数百年生きたとしても一回もありはしないだろう。サイカロス研究者としてはあまりにも、これ以上ない魅力的な提案であった。きっと、いや必ず他のサイカロス研究者がこれを聞けば全財産をはたいてもこの権利を欲しがるであろう。サイカロス以外は殆ど襲い掛かって命を奪おうとしてくる危険な存在であるサイカロスに囲まれていながらもその命を脅かされることなく。

 思わず受けようと答えようとしたところでハッと口をつぐんだ。サイカロスがそんなことを交換条件もなしに提案してくるだろうか。あまりの衝撃についうっかりそんな初歩的なことすら忘れていた自分を恥じつつ

彼は頭の中で考えを巡らせ続けた。

 そんな彼を見てヴェッチェは彼が何を迷っているのか察すると、彼の迷いを晴らすような答えを口にした。

「何も取りやしませんよ。ただの気まぐれです、あなたのような面白いもの見過ごせはしませんからねエ」

 それを聞くや、彼は顔を抑えてクックと笑い出した。流石、サイカロスといった答えだ。そのあまりにも気まぐれで気分屋な言葉にはまるで嘘偽りも、裏腹も感じ取れない。きっとこの強力なサイカロスが言っていることは本当なのだろう。だとしたら、答えは当然肯定しかあるまい。

 だが、彼の脳裏にはあろうことかジェイラスたちの顔が浮かんできたのだ。ともにいたのはほんの僅かな時間に過ぎない、なのに、彼らのことがどうしても頭に刻まれてはなれないのだ。こんなこと自分らしくない、しかし、その自分らしくなさが今の自分には確かに存在しているのだ。

「なるほど……」

 また、これもヴェッチェにはお見通しであったようで、彼女はイェルヴェルーニウについて来るよう告げるとヘクゼダスを置いて外へと向かった。外に出たヴェッチェはジェイラスたちの無造作に重ねられた前まで行くと、再びイェルヴェルーニウの方へと向き直り、言った。

「彼らが気がかりだと。ええ、ええ、わかっていますよ。大丈夫殺しやしません、実は私としてもこの者たちを生かしておきたくなったのです。どうしてでしょうねえ、ですが、そう思ってしまったのだから仕方がありません。一人、いや、二人死んでいるようですが全員元に戻しておきます。なあに、サイカロスの体に比べれば旧世界人の体や命の修復など軽いものです」

 そう話している彼女の背後では、確かに四人の体がゆったりと持ち上げられると彼らの傷はあっという間に癒され、見開かれていたメナースとユーリィの目に光が戻り始め、命の復活が行われたようだ。

「上級のサイカロスということか……」

 こんな軽々と複数の魔法を同時並行かつ無詠唱で使用できるなど、そこらのサイカロスでは出来まい。それに、その佇まいと余裕が上の者であるという気品さをもうかがわせるようであった。彼の発言に少し気を良くしたヴェッチェは上の目だけ微笑ませると軽く手を叩いて、

「ええ、あなたは見る目がありますねえ。気に入りましたよ、望むだけ生かして差し上げましょう」

 望むだけ、その言葉に引っかかったイェルヴェルーニウはその子細を尋ねようとしたのだが、丁度ジェイラスたちが目覚めたため遮られることとなってしまった。それと時を同じくしてようやく立ち直ったヘクゼダスがおぼつかない足取りで小屋からヌルリと顔を出す。

「……あ、れ?俺……確か」

 一番に目覚めたジェイラスは、曖昧な記憶を必死に整理しながら直前の記憶を思い出そうと頭を抱えていた。その背後で目を覚ましたメナースは恐る恐る自分の胸に手をやって穴が空いていないことを確認し、ノルは恐怖に一筋の涙を流しつつもユーリィを揺すって気がつかせていた。

「起きた……」

 彼の大きな腕の中で目覚めたユーリィは、目覚めると同時に初めて味わった死の感覚をその手にまだ名残を感じるらしく、目を右往左往させて震えていた。

「さて、全員目覚めましたね……ヘクゼダス行きますよ、ロバトも来なさい」

 彼女に呼ばれ、まだ木陰に隠れていたロバトはそそくさとジェイラスたちの横を通り抜けてヴェッチェの隣に立った。彼は一度だけジェイラスたちに目を向けるとすぐにヴェッチェの方を向いて気になっていることを尋ねる。

「どうやって帰るんですか」

 彼の問いはもっともだ。今までこの島から出る手段を持たずに長いこと歩き回ってきたのだ。つまりヴェッチェ転移術などの類は使えないということなのだろう。だというのに、どうやってこの島から脱出するというのだろうか。

「おっと、忘れていました私としたことが」

 ヴェッチェはそう言うと手を軽く振るう。すると彼らから少し離れたところに百舌鳥の早煮えのような状態に去れていれるレッヴァリッキドが地面から串ごと引き抜かれるとふわふわと宙を浮いてヴェッチェの隣に突き刺さった。それをみたジェイラスたちは目を剥いて言葉を失う。

「そろそろ来る頃ですよ」

「な、何がですか」

 ヘクゼダスは周囲を見回しながらまた敵でも来るのではないかと不安げな様子であったが、空からも森からも何者かが現れる様子もない。が、身構えていたヘクゼダスがそれを解くと同時に彼の隣に一体の悪魔が急に姿を現したため、ヴェッチェとイェルヴェルーニウ以外は驚いて叫び声を上げた。現れたのは人間サイズの蜘蛛のような姿をした悪魔であったが、足は十本で頭には目玉がまばらにいくつもついているばかりで顎すらも見当たらなかった。

「エジュヴァルゲル ギト レグッヴァジャリジュダァ キ レグフーパル フィルフィリアン」

 天使の言の葉ですら翻訳の出来ない謎言語が、どこからともなく発せられたが、確かにその主はこの悪魔なのだろう。突如として現れた気味の悪い姿の悪魔に怯えるジェイラスたちとは対照的に、久々に聞き取ることのできない悪魔語を聞いた懐かしさに浸るヘクゼダス。ヴェッチェはその悪魔と何やら言葉を交わすとジェイラスの方を見ていった。

「あなた方を特別に町まで転送して差し上げましょう。特別ですよ」

 そう一方的に告げた彼女に対し、ジェイラスはまだ体力の回復しきっていない体を押してどうにか言葉を絞り出す。

「ま、待ってくれ……ヘクゼダスは」

「このボンクラに何か用が?」

「そっ……いつも連れてっち、まうのか……?」

 当然でしょう、と言いたげにヴェッチェは彼を見下す。

「……そうか、そう……だよな」

 そうだ、ヘクゼダスは悪魔、ならば悪魔の元へ戻るのは至極当然のこと。やはり、自分の考えはあまりにも浅はかすぎたのだ。そんな浅はかな考えが仲間を酷く傷つけた。

「ではよいですね……ヴァルガンザータ」

 異形のサイカロス、ヴァルガンザータはその十本の足をピクリとも動かさず地面をスライドしながらジェイラスたちに近づくと、転送呪術を起動し始めた。だが、ユーリィが声を上げる。

「待って!」

「はあ、なんですか。殺しますよ」

 ヴェッチェの心底鬱陶しそうな冷たい表情にユーリィはおびえながらもこちらに来ないイェルヴェルーニウの名を呼んだ。

「イェルヴェルーニウ?どうして……こっち来ないと……」

 仲間なのだから、一緒に帰らなければいけない。術の範囲から離れてしまっていては、取り残されてしまう。だが、イェルヴェルーニウは決して動こうとはしなかった。それどころか背中を向けたのだ。

 説明をしようとしない彼の代わりにヴェッチェがその訳を話した。

「この者は、我々と共に行くのです。このような面白いもの、見逃せませんからねエ」

「えっ」

 彼らは絶句した。ともに来てくれるという契約だったのに、それを裏切るというのだろうか。それは、イェルヴェルーニウ自身が否定した。

「そうだ……お前たちとの契約は飽くまでサイカロスの研究をさせてくれるという内容……だがこのサイカロスは私にサイカロスの中で研究をすることを許してくれた」

「じゃ、じゃあ来ないのか?」

 ジェイラスは消え入るような声で尋ねると、彼は無言をもって肯定した。失望するジェイラスたちを気づかうでもなく、淡々と事務的にヴァルガンザータは彼らを一秒の内に大陸の港湾都市セケヴェンザイへと飛ばした。後には四体の悪魔と、二人の旧世界人だけが取り残された。

「彼らが立ち上がるかは、彼ら次第でしょうねえ」

 ヴェッチェは雲が出始めた空を見上げながらつぶやく。血統者達ほどではないにしろそれなりに腕の立つ彼らなら、ここでくじけない限りきっとより力をつけるはずだ。その時は、できうる限りの手段で彼らを絶望させて殺してやろう。ヴェッチェは静かに微笑んだ。

 ヴァルガンザータが全員を転送術の範囲内に収めると次の瞬間には彼らはスキウラ大陸のギダリアド族の住まう村にいた。



 こうしてあっけなく、ヘクゼダスと冒険者ジェイラスたちの出会いと戦いは終わりをつげ、またいつもの日常が戻った。まるで、何事もなかったかのように……

※1 ザブーラウ:湿地帯にのみ自生する蔦植物。全体に粘液を纏っているが決して服だけを溶かすような成分などない。その粘液を乾かすと白い粉末になり貴重な強壮剤となる。

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