表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

Ⅱ 鋼鉄の怪物

「中尉殿! 傷は大丈夫でありますか?」

 衛生兵がライホ中尉に問いかけた。

「私は大丈夫だ。それよりも他の重傷者の手当てを急いでくれ」

了解(キュッラ)!」

 我々は次の遅滞陣地になんとか到着した。カレリア地峡には何重にも遅滞陣地が敷かれ、これらは敵を疲弊させる。そして、疲弊した敵を主陣地帯で迎え撃つ。主陣地帯は三本。すべて抜かれたら終わりである。国境から陣地帯の間にあるすべての村は焼かれ、すべての井戸は埋められた。

 この陣地を守備していた友軍に出迎えられる。友軍兵士に「戦友(トヴェリ)!」と声を掛けられたときの気持ちは忘れられない。彼らを命の恩人のように感じてしまったほどだ。

 ああ……やっと休むことができる。一睡もせずに森の中を歩き続け、私も他の戦友たちも疲れ切っていた。無論、与えられた時間は僅かであるのだが、それでも我々はいま、この貴重な時間を味わうことにした。

 再集結したライホ中隊は半数近くの兵を失っていた。激しい戦闘と惨めな後退を経て、多くの兵は汚れ、疲れきっていた。我々はこの新しい陣地で他の部隊と合流し、また同じ地獄をくぐらなければならない。

 これで勝てるのだろうか? 現に我々は後退した。そして敵の物量は圧倒的だ。まあいい。こんなことは私が考えなくてはならないことではない。命令に従っていればいいのだ。断固戦い抜く、それだけだ。

 それから数日間、私たちは陣地に篭り、迫り来るソヴィエト軍と戦い、そして後退。これを繰り返した。この戦術を繰り返すたびに友軍兵力は着実に減っていき、見覚えのある顔たちを見ることができなくなっていった。私はまだ死神に気に入られることはなかったが、ただ運がよかっただけにすぎない。私の名前がいつ戦死者名簿に加わっても何の不思議もない。

 死ぬ恐怖にもいくらか慣れた。殺す恐怖にもいくらか慣れた。

 十二月六日。ついにソヴィエト軍は第一の主陣地帯「マンネルへイムライン」に砲撃を加えた。ここからが戦争本番といっていい。

 奴らは随分と贅沢に砲を撃つものだ。敵の砲撃が止むことはほとんどなかった。例外といえば奴らの愉快な宣伝放送のときだけだった。彼らは我々に対し共産主義の素晴らしさを訴え、降伏を勧めてきた。私たちはこの時間が大好きだった。砲弾の雨が止むので、用を足すのに丁度よかった。それにしても敵の砲兵が羨ましくて仕方がない。我が軍の砲は数えるほどしかなく、砲弾も不足気味で節約しながら戦わなければならないというのに。

 空は相変わらずソ連空軍機でいっぱいだ。このような絶望的な状況下にもかかわらず我が空軍はかなり勇戦していて、現に撃墜比率では圧倒している。オランダより輸入したフォッカーD21を装備している第二十四飛行隊の活躍は私の耳にも届いた。しかし、それも結局は局地的な勝利でしかない。現に私自身は友軍機をほとんど見たことがない。圧倒的な物量が空の支配者を決めてしまっていた。ソヴィエト軍は八百機の航空機をこの戦いに投入していた。我が軍の戦力となる航空機は三十機ほどだけだ。あとの機体は旧式機ばかり。

 マンネルへイム線は主陣地線とはいっても簡単な塹壕がほとんどであった。コンクリートで固められた掩蔽壕(トーチカ)もあったが、多数あるわけではない。しかしながら、この陣地線は地形を巧みに利用し構築されており、防御力は馬鹿にならない。これをもってしてソヴィエト軍を迎え撃たなければならないのである。

 砲撃が止んだ。そして歩兵の攻撃が始まった。ソヴィエト軍の戦い方はこれまでと何の変わりもない。ただ大兵力を突撃させるだけ。進歩のない連中である。敵歩兵は機銃掃射でバタバタと倒れていく。戦術的な意味合いは全くない無駄な死。

 しかし、今回は今までとは違った。強大な怪物が現れたのである。

「敵戦車接近! 対戦車戦闘用意!」

 ライホ中尉が叫んだ。私はその戦車を見て動揺した。なんだ、あれは? 見たことのない戦車だ。今まで撃破してきたT26軽戦車の二倍以上はある。そして、その巨大な戦車は砲塔を三つも持っていた。怪物は後ろに歩兵を引き連れ、先程の突撃で壊滅したソヴィエト兵たちを轢き潰しながらゆっくりと、そして着実に陣地線に迫った。

 我が軍の機銃弾、対戦車銃弾は悉く弾き返されてしまった。ついに突破されてしまうのだろうか。我が軍は砲自体不足していたし、我が隊には対戦車砲は一門もなかったのだ。どうすればいいのか? 肉迫攻撃をするしかない。肉迫して火焔瓶(モロトフカクテル)や爆薬で仕留めなくてはならない。我が軍は対戦車火器が不足していた。やれるのか? やらなければならない。今こそ勇気を示すとき。

 一番初めに塹壕より跳び出したのはヴァルデであった。

「ミッコ! 援護を頼む! あいつは俺が殺る!」

「わかった! 気をつけろ! 何をしてくるかわからないぞ!」

 ヴァルデが収束爆薬(カサパノス)を抱え敵戦車に接近する。私は他の戦友とともに彼を援護する。ヴァルデを死なせてなるものか……!

「ルキネンを死なせるな! 全中隊、彼を援護せよ!」

 ライホ中尉が全隊に活を入れる。

「まったく……若いやつは恐れってものを知らん」

 クルキ曹長は口では皮肉めいたことを言っていたが、表情は感心しているようであった。

 敵軍より鹵獲したマキシム重機関銃が火を噴く。猛烈な火線が戦車周辺のソヴィエト兵を駆逐する。彼は敵重戦車に接近する。敵戦車の動きは鈍い。接近するヴァルデに対し、砲撃を加えることも、後退することも、旋回することさえもしなかった。この季候下では仕方がないことだが、搭乗員の腕もお粗末なものだった。

 ヴァルデは敵重戦車の下に爆薬を投げ込んだ。彼はすぐに近くの壕の中に潜り込む。数秒後、大爆発。しかし、戦車はまだ止まらない。なんて奴だ! やはり、今までの戦車より重装甲のようである。その重戦車は機銃が搭載されている副砲塔を旋回させヴァルデに射撃を加える。が、彼は死角の壕に潜み攻撃を回避した。歩兵の援護のない戦車は丸裸も同然だ。さらに泥濘に履帯が埋まり自由を奪われていた。

 今度は火焔瓶(モロトフカクテル)を投擲する。それは戦車上部で炸裂し、敵重戦車はついに炎上した。搭載砲弾に引火したらしい。爆発で主砲塔が空高く吹き飛んだ。辺りに火薬の臭いが立ち込める。やった……我々はあの化け物を撃破したのだ! 万歳(ヒューバ)

 しかし、喜んでいる暇など我々にはなかった。敵重戦車は一輌だけではない。軽く見回しただけでも十輌以上の重戦車が迫ってくる。私は友軍の戦車を今のところ見たことはない。

「奴らは一体、何輌の戦車を持ってるんだ?」

「一杯さ。さあ、奴らを狩りに行くぞ」

 クルキ曹長は答えた。陣地線に迫る敵戦車の群れに友軍兵士は次々と肉迫攻撃を仕掛ける。ライホ中尉自ら先頭で戦っている。怖がっているときではない。数日間にわたった激戦は、私を含め中隊全員を本物の兵士にしていた。誰の顔からも迷いの表情は消えていた。

 相変わらずソヴィエト軍は連携が取れていない。ソヴィエト軍の随伴歩兵は機銃掃射と迫撃砲により蹴散らされる。彼らは生贄のようなものだ。屠殺場に連れて行かれる可愛そうな羊たち。

 歩兵の援護を喪失させたからといって、対戦車戦が危険なことに変わりはない。今、我々が相手にしている重戦車T28は76.2ミリの主砲と機銃の副砲二基を装備している。強力な火線が我々を襲う。主砲から放たれた榴弾に吹き飛ばされる者もいれば、機銃の射線に撫でられ半身を失う者もいた。

 戦車を狩るには兵士同士の協力が必要不可欠である。戦車に直接攻撃を掛ける兵と、それを後方より援護する兵。接近する兵士も二人一組かそれ以上が望ましい。実際に対戦車兵器を投擲する兵と、それらの兵器を運搬、準備する兵だ。

 我々も次の戦車へ向かう。予め掘られていた塹壕の中を、頭を低くして移動する。敵戦車からは完全に死角であり、直接射撃されることはない。 

 まずはスオミ機関短銃を連射し、敵随伴歩兵を掃討。敵戦車が頭上を通り過ぎるのを確認すると、我々は塹壕より飛び出し、死角の後方より敵戦車に接近。そしてヴァルデが先程と同じように収束爆薬(カサパノス)を投げつける。

 爆発は敵戦車の履帯を引き千切り、行動の自由を奪う。すると戦車上部のハッチが開き、中から乗員たちが飛び出してきた。

「逃がすものか! 間抜けめ!」

 私はすぐさま短機関銃で奴らを雪上に射ち落とす。残った戦車たちは旋回し、撤退を始めた。突破を無理と判断したらしい。

 勝った、のか? その瞬間、緊張が解け、安堵の感が行き渡る。戦友たちと目が合った。思わず頬が緩み、笑い合う。戦場に響き渡るは砲火の音ではなく、ただ万歳(ヒューバ)という戦友たちの歓呼の叫び。

 この戦闘で我々は重戦車を含む敵戦車数十輌を撃破し、陣地線突破を阻止することに成功した。我が軍の圧勝である。陣地線の前はソヴィエト兵の死体と戦車の残骸で溢れ返った。

 他にも残されたものがある。敵兵の装備に弾薬。我が軍の銃弾と敵軍のそれは同じ規格であり、敵から鹵獲した装備はそのまま使うことができる。さらに放置された比較的軽い損傷で済んでいる戦車がある。これらの車輌はそのまま我が軍に組み込まれる。戦闘を繰り返せば繰り返すほどに、我が軍は増強されていった。

 敵の攻撃は毎日のように行われた。連隊規模の歩兵の波が何度も我々の陣地に押し寄せる。そして何の効果も挙げられぬまま、死体の山を築いていった。兵力だけではない。火砲、戦車、航空機、あらゆる装備においてソヴィエト軍は我々に勝っていたのに、攻撃は成功しなかった。ソヴィエト軍の勢いは少しずつ衰えていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ