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Ⅰ 地獄の始まり

「我々は戦う、家郷のため、信義のため、そして祖国防衛のために」

「まだ撃つな! 引き寄せろ!」

 中隊長のライホ中尉が叫んだ。私は吹雪の中から迫り来るソヴィエト兵の大軍を前に、塹壕の中に蹲り、奥歯の震えを抑えるのに精一杯だった。頭上には数多の敵弾が飛び交い、とても頭を出せる気配ではない。

 それは、野戦榴弾砲の一斉射撃から始まった。戦争が始まったのだ。

 砲弾は私が身を潜める塹壕付近にも着弾する。その度に私は爆音に耳を痛め、ハンマーで殴られたような痛みを全身に味わい、そして死の恐怖が頭をよぎった。一体何がどうなっているのか? 全くわからない。爆煙で視界を完全に奪われてしまった。

「こちら、第三中隊――。ロシア軍の侵入を確認――」

「衛生兵! こっちだ! 重傷者!」

「俺の腕がないッ! 畜生ッ!」

「なんて数だ……一体、何人いやがるんだ?」

「こんなに多くのロシア兵――どうすればいい……?」

 砲弾の雨の次にやってきたのは地を埋め尽くす大軍だった。友軍の兵士たちもあまりの光景に焦りを隠せない。あきらかに射程外だというのに発砲してしまう兵士も少なくなかった。無理もない。実戦経験のある兵士など全くといっていいほどいなかったのだから。

「誰だ! 発砲したやつは! 伏せちまうぞ!」

 数少ない実戦経験者、クルキ曹長が怒鳴った。

「そこのおまえ! 何をしている! 銃を持って戦え! 祖国を守る気がないのかッ!」

 隣でラティ・サラロンタ軽機関銃を構えるイソリンネ軍曹に怒鳴られる。そんなことを言われたところ、私は恐怖で動けそうもなかった。戦場に立ったのは初めてであったし、そもそも軍人ですらなかったのだから。祖国フィンランドが独立を勝ち得てまだ四半世紀も経っていない。愛国心は持っているつもりだが、そのことと体の震えと何の因果があろうか。

 一九三九年一一月三〇日。ソ連の突然の侵入で始まったこの戦争にただの学生であった私も駆り出されることになった。我らが祖国フィンランド(スオミ)は人口三百七十万の小国であり、兵役に耐えうる男子はすべて動員されたのだ。人口一億七千万を数える大国ソ連との戦争は悪夢でしかない。噂ではソ連は百万の兵力を動員したらしい。我が軍は全軍でも三十万にも満たない。私がいるこの狭いカレリア戦線だけでも二十万のソ連兵が進撃してきている。

「撃てェ!」

 再びライホ中尉が叫ぶ。全隊が射撃を開始した。我が軍の銃声と敵兵の断末魔の叫びとの合唱が戦場に響き渡る。機関銃の掃射に薙ぎ倒され、ソヴィエト兵の肉体が引き千切られていく。督戦隊――逃亡兵や進軍を拒む兵士を後方より射殺する為の部隊――。彼らに監督されているソ連兵に退却することは許されなかった。前進か死か。彼らに与えられた選択はそれだけであった。カーキ色の軍服を着ていたソヴィエト兵は雪原の上では目立ちすぎていた。それに、多くのソヴィエト兵は遮蔽物に全く隠れようともせず、てんでバラバラに銃剣突撃を繰り返すだけだった。

 彼らは雪、泥、湿地に足をとられ満足に走ることもできぬまま雪を鮮血で染めていった。ある者は腕を失い、ある者は目を潰され、ある者は脳髄をぶちまけ、また、ある者は臓物を腹からぶら下げていた。死に切れない兵士たちは空を見つめながらもがいていた。共産主義者に神はいない。彼らが救われることはない。

 戦車は満足に動けず立ち往生。対戦車壕に落ちる車輌も続出した。ソヴィエト軍の戦車隊のほとんどはT26軽戦車を装備していた。最大装甲厚は25ミリ。フィンランド軍の対戦車銃でも十分撃破可能だった。また、ソ連軍は203、152、122ミリの大口径砲を含む砲迫二千門を引っ張ってきたが、陣地に篭るフィンランド兵に対しては砲の効果も高いとはいえなかった。

 ソヴィエト軍の戦いぶりは、さながら出来の悪いオーケストラのようであった。

 現在の気温は例年より高く、地面は凍らず、泥濘と化していた。このことはソヴィエト軍にとって大きな誤算だったようである。また、ソヴィエト軍はスターリンによる大粛清を経て、優秀な将官を多数失っていた。現在のソヴィエト軍の将官は素人ばかりだった。

 弾丸の雨が小雨になったことを確認し、私は状況を確認してみようと、恐る恐る塹壕から頭を出してみた。ソヴィエト兵のほとんどは我が軍の陣地に近づくこともできずに斃れていた。

 しかし、戦闘は終わらない。ソヴィエト兵の第二波が彼らの戦友たちを踏みつけながら迫ってきている。彼らの咆哮と圧倒的な物量が私の震えを止まらせることを許さなかったが、私は必死に銃口を敵に向け照準を定めた。いつまでもうずくまっているわけにはいかない。戦わなければ祖国は再び地図から消える。ロシア人の支配が始まる。それは耐えられないことだ。

「敵の弾なぞ当たりはしないさ。心配するな、マンスィッカ二等兵」

 そう言うとクルキ曹長は私の肩を軽く叩いた。彼は独立戦争からのベテランである。そんな彼の言葉で私はいくらか気が楽になった。

「敵、距離300!」

 観測兵が叫ぶ。

「まだだ! まだ撃つな!」

「距離150!」

「よし! いいぞ! 撃てェェ!」

 再びカーキ色の軍服の波に鉛の雨が降りそそぐ。綺麗に最前列の兵士たちから雪上に臥していく。私は立っているのがやっとの状態であったが、がむしゃらに銃を撃ち続けた。ソヴィエト兵の多さは、照準をつける必要性を消失させた。私の弾丸は命中しているのか? 確認のしようがない。眼前の光景はまさに地獄といった感じだ。彼らの苦痛の叫びが私の耳を襲う。

 我が軍は寡兵であり、武装も貧弱であったが、全兵士は己の出せる能力を最大限に発揮し、強力な弾幕を張った。敵兵は次々に斃れていった。

 彼らの死に何の意味があるのだろうか。何の意味もないのだろう。

畜生(パスカ)。まるで消耗品だな」

 私は思わず呟いた。彼らは憎き侵略者だが、同情は禁じえなかった。

 大部分のソ連兵は先程と同様に掃討されたが、一部の運のいい兵士は火線をくぐり抜け塹壕線に侵入してきた。

「白兵戦用意! 躊躇うな! 殺らなければ殺られるぞ!」

 中隊長が指揮する。各々の兵士がスコップや銃床で塹壕に飛び込んできたソヴィエト兵に殴りかかる。接近戦では連射の効く短機関銃が大いに威力を発揮した。国産のスオミ機関短銃はなかなかの良銃である。連射時にも高い命中率を示した。

 白兵戦はその激しさを増し、塹壕内が赤く染まっていく。両軍兵士の叫び声が木霊する。

 私の目前にも銃剣を構えたソヴィエト兵が迫る。どうなるのか? どうすればいい? 頭が混乱する。私は恐怖でズボンを濡らしてしまった。体の震えも止まらない。胸も苦しい。もう駄目か。私はここで死ぬのだろうか?

 ソヴィエト兵が私を刺突せんとした、そのとき、骨の砕ける嫌な音とともにソヴィエト兵の顔が歪み、絶命した。後頭部を強打されたようだった。その兵士はその場にうつ伏せに倒れこみ、もう二度と起き上がってはこなかった。

「ミッコ! 無事か?」

 血塗れのスコップを片手に手を差し伸べるこの男はヴァルデ・ルキネン。少年の頃からの友人で、同じ部隊に配属されたのだ。

「ヴァルデか……、ああ、助かったよ……。もう駄目かと思った」

「戦争は始まったばかりだぜ。まだ死ぬには早すぎる。塹壕に侵入してきた露助(リュッシャ)どもは掃討されたようだ。それにしても奴らは戦争のやり方を知らないのだろうか?」

 人を殺したばかりだというのにヴァルデの顔は随分と落ち着いていた。多くの敵兵を血祭りに上げたようだ。彼は昔から射撃が得意な男だった。確か彼の父親は優秀な猟師だった。彼も幼い頃より猟に参加してきたらしい。

「また来るぞ、配置につけ!」

 中隊長の叫び。まだやる気か? 敵は我々に休む暇を与えるつもりはないらしい。第三波は今までと比べ数倍の数に見えた。なんということだ。今度こそ駄目か?

畜生(パスカ)! 一体、いつまで続くのだ?」

 今までの戦闘で雪原は軍服のカーキ色と血の赤色に染まり、もはや白く見えるところは僅かだった。先程の白兵戦で我が軍も無傷ではない。兵力は僅かであるが減少していた。もともと圧倒的寡兵であるのに!

 隣で軽機関銃を撃っていたイソリンネ軍曹は首から上を失くしていた。

 撲殺されたソヴィエト兵の飛び出した眼球が私を見つめている。

 死の大軍が三度、目の前に迫りつつある。まさに恐怖だ。ソヴィエト兵の咆哮が戦場全体に響き渡る。

「ミッコ。怖いかよ?」

「ああ……怖いさ。とても……」

「俺もさ。死ぬなよ」

 今度の突撃はどう考えても撃退は無理そうだった。一個中隊で一個連隊を相手にしているのだ! 戦闘が始まってから私はずっと死の恐怖に支配されてきた。こんなにも長く支配されたのは初めてだった。頭がおかしくなりそうだ。もしかしたら今、精神を支配しているのは恐怖とは別の何かかもしれない。

 今までと同じようにソヴィエト兵は次々と斃れていくのに、一向に数が減らない。重傷を負い、助けを求める彼らの戦友たちを踏みつけながらソヴィエト兵は次々と突撃してくる。多数のソヴィエト兵が塹壕に飛び込んできた。

 私は無心に手榴弾を投げつけ、短機関銃を乱射し、目の前の敵兵を突いた。不思議なことに体の震えはしなくなっていた。何故だろうか? 頭は恐怖でいっぱいだというのに! 剣先はソヴィエト兵の首に突き刺さり、血が吹き出す。私は銃剣をひねり、敵兵の苦痛を倍増させる。私の軍服は返り血で赤く汚れてしまった。

 私は次の敵兵を刺突する。ソヴィエト兵は死に、また別の兵士が新しい死を貰うために私の前に現れる。それにしてもソヴィエト兵は随分軽装だった。薄い外套一枚しか着ていない。これではまともに戦えるはずがない。

 ソヴィエト兵は次々と流れ込み、何度繰り返しても戦闘は終わる気配はない。私の白い軍服は真っ赤に染まり、塹壕内はソヴィエト兵の死体で埋まっていく。致命的な傷を負っていないのが不思議なくらいであった。

「後退! 後退せよ!」

 中隊長の指令だ。やっとこの地獄から逃れられる。もともとこの陣地は遅滞戦術の為のものだ。死守する意味は皆無。しかし、どうやって? 背中を見せれば、それは即ち死ではないのか?

「ミッコ! 逃げるぞ。急げ!」

 ヴァルデが叫んだ。私の頭は不安でいっぱいだった。敵の大軍に背中を見せてもいいものか? ともかく我が中隊は後退した。私は必死に自分に敵弾が命中しないことを祈った。敵は雪中行軍に慣れていない。我々ならば逃げ切れるはずだ。次々と運の悪い戦友たちが凶弾に斃れていった。退却時ほど危険なときはない。敵の迫撃砲弾が至近距離で炸裂する。戦友のひとりは全身に破片を受け即死した。四散した戦友の肉体の一部が私の顔にも飛んできた。頬に当たり、へばり付いたその肉片はまだ温かく、血の臭いを含んでいる。

「くそったれ!」

 私の頭は恐怖と憤怒の入り混ざった説明し難い感情で破裂しそうだった。戦友を目前で殺されているのに何もできない。それどころか、次は自分がああなるかもしれないという恐怖にも襲われる。

 空はソ連空軍機で埋め尽くされていた。奴らはフィンランド兵を見つけると執拗に地上掃射を繰り返した。何人もの戦友が穴だらけにされていく。敵機のエンジン音が近づくたび、恐怖で心臓が締め付けられる。奴らは贅沢に機銃弾の雨と爆弾を我々にプレゼントしてきた。

 この空は我々の空のはずだ。我が空軍は何処にいるのだろう?

 私は敵の砲火の下を必死に森を目指し走った。ソヴィエト兵はフィンランドの森に慣れていない。森に入ってしまえば奴らは追撃してこないだろう。森の中には道らしい道はなかったが、我々フィンランド人にとっては何の問題もない。幼い頃より森とともに暮らしてきたからだ。森での歩き方なら熟知している。私は湖沼の点在する森の中を突き進んだ。逃げ切ることに成功した戦友たちと合流しつつ、後方の友軍陣地を目指しひたすら進んだ。

 ミッコは撤退の最中、戦友たちの群れの中からヴァルデの姿を見つけた。

「ヴァルデ! 僕だ! ミッコだ! 大丈夫だったか?」

「ああ、なんとかな……。砲弾の破片を背中に食らったがこれくらいなんともないさ。畜生、奴らめ……この借りは必ず返してやる」

「ヴァルデ、本当に大丈夫か? 肩を貸すよ」

 運の良いことにヴァルデも無事であった。彼は背中に傷を負っていたが致命傷ではない。私も他の兵士たちも何らかの傷は負っていた。無傷の者は皆無だったと言っていい。ライホ中尉は左手の指を二本失っていた。重傷者は中隊全員で協力し運搬した。彼らを見捨てることなど絶対にできない。

 我々は疲れ切っていたが、士気は衰えていない。敵軍の空爆の音と砲撃音が森の外では鳴りっぱなしだ。今でも他の地区では友軍が激しい攻撃に曝されているのだろう。急がなければ! そして一刻も早く再び戦線に立たなければ!

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