ただはららかに涙を含み
授業が終わり、いつもなら楽しみにしている部活に向かうのだが、行く必要がなくなったのでその時間をどうすればいいのか分からずにいた。
家へ帰る、という考えはなく教室から外をぼんやりと眺めていた。
空は雲ひとつなく青がずっと向こうまで広がっている。太陽は、今の私には眩しすぎた。
「世界って広すぎるくない?」 なんてクサイセリフをつぶやいてみる。
視線をずっと下におろすとグラウンドがあって、私が所属している陸上部だとかサッカー部だとか野球部だとかが元気よく走り回っていた。
私も数日前までは元気だったのにな、ともう何年も昔のことのように懐かしんだ。
昨日、怪我をした。
私は陸上部でハードル走の選手でエースだった。
大会も間近で皆に期待されていたし、私自身はじめての大きな大会だったので気合いを入れて練習をしていた。
それが昨日、一瞬にしてすべてが無駄になり、終わった。
勢いがありすぎた上昇する気持ちは突然行き場を無くし下降することなく彷徨っている。
自分の手元に視線を移すと、右腕に分厚く巻かれた真っ白な包帯が目に沁みた。
腕をなぞるように左手で撫でた。
「鈴木?」
「あー、佐藤先輩や」
教室を通りかかったのは佐藤先輩だった。
"先輩"と言っても私と直接関係のある先輩ではなく、幼なじみの悠斗の部活の先輩だ。
ある日、悠斗と話をしているときに偶然佐藤先輩が通りかかり、そこで初めて存在を知った。
それからというもの出会う度にちょっかいを掛けられ今では悪友のような関係になってしまった。(迷惑でしかないけど。)
「骨折したんやって?」
先輩は嬉しそうに自分の腕を指しながら意地悪く笑った。そして私の正面に座り「意外にやわやな」と更に意地悪なことを言う。
先輩は、とどまることを知らない。人の痛いところにとことん付けこんで、非なんてちっともないのに「ごめんなさい」と言うまでとことんいじめ抜く。
ある意味すごい人だ。
男子バスケ部では悠斗が主に標的になっているようで、いつも私に愚痴を漏らしていた。だけど憎めない人なんだ、と困ったように悠斗は笑うのだ。
その笑顔が、大好きだった。17年のあいだ私がワガママを言うと向けていてくれていた笑顔。
それが今では私じゃない誰かに向けるのだと思うと少し、寂しくなる。
「悠斗のせい?」
「……何がですか?」
「怪我の原因に決まってるやん」
噂があったのはひと月程前のことだろうか。隣のクラスの女の子とつき合っているという噂が流れたのは。
だけど私はデマだと信じなかった。
だって私が知っている悠斗はモテないし自信がなくって頼り甲斐もないし、それに、それに……とびきり優しい男の子だった。
私は信じていたんだ。
信じていた? いや、違う違う。ただ思いこんでいただけ。
小さなころから私と悠斗は隠し事なく一緒に過ごしてきた。だから恋人ができたら私に教えてくれる、なんて勝手な思いこみ。
今になって思うんだ。そんな延長線上にずっといたのは私だけだって。
そして昨日、ハードル走の練習中にその噂は本当のものになってしまった。
悠斗とその噂になっていた女の子が一緒に帰っている姿を見てしまったのだ。
本当は、噂が気になって気になって隣のクラスに教科書を借りに行くふりをして、彼女を確認したことがある。
「なんや、たいしたことないやん」「とびきりの美人なんかと思った」と、ほっとしたのを覚えている。
―――バカみたいだ。
そんなふたりの姿に気を取られて転んでしまった。
突然辺りが真っ黒になった。色を取り戻したときには腕に激痛が走っていた。痛かった。とても。
涙を零して叫んでも悠斗は一度も振り向かなかった。
小さなころ、私が転ぶと心配そうな表情をして駆け付けてくれて一緒に泣いたこともあった。
それなのに。それなのに今は私じゃないの女の子と肩を並べ楽しそうに話をして、私の怪我に気づきもしない。
その隣にいる彼女が転ぶと慌てて駆け寄り心配をするのだろうかとか、転ぶ前に支えるのだろうかとか想像したら更に涙が零れた。
「違います」
「嘘やな。俺見てたもん。」
「…………」
「悠斗に振り向いてほしくてわざと転んだんやろ」
「なっ……そんなことするはずない!」
先輩は鋭くて直球で大嫌い。ずっと私の気持ちに気づいていたんだ。この人は。
左手で顔を覆った。
涙が零れそう。だけど先輩に涙は見られたくなかった。きっとまた意地悪を言う。
「悠斗のことが好きなんや」とか「泣きむし!」だとか。どれも当たっていて今の私には強く否定することなんてできない。
悠斗はずっと私のものだった。17年間ずっと私の傍にいてくれた。これからもずっと私のものだと思ってた。
なのに。それなのに。
「アホやな」
先輩のその言葉は私に言っているのか、それとも悠斗に言っているのかは分からない。
だけどそう言って私の頭に手を置いた。
ぐしゃぐしゃに掻きまわされるのかと思ったが、ゆっくりと髪を撫でた。
先輩らしくない行動に驚いたが、それがとても優しくて温かくて、涙は溢れつづけた。
「……アホなんです」
完結です。
お読み下さりありがとうございました。