堂島正太郎の朝
文句のつけどころのない晴れ空。
「行ってきます」
堂島正太郎は、他に誰もいない部屋に向けて言って、家を出た。
出た、と言ってもそこはまだマンションの中。正太郎はいつものようにエレベーターで1階へ向かう。
正太郎の両親は共働きしていることもあって、そこそこ高級なマンションに住んでいた。
夜遅くまで帰ってこないか、何日も家を空けることが多いのだが……。
1階へ降りマンションを出ると、いつものように弥生を迎えに行く。
この習慣は小学校の頃からずっとだった。その頃から弥生はねぼすけだった。当時の弥生曰く、
「あんたが迎えに来ないなら、いつ起きればいいのよ!」
だそうだ。無論、反論する。
「迎えに来た時点で起きてないとなると、遅刻するんじゃないか?」
「あんたみたいな口うるさいのでも来ないと起きれる気がしないのよ」
「いや……だから、起こしてる間に遅刻しちゃうでしょ?」
「だったら家を早く出てくればいいじゃない」
となる。断ってもいいような内容なのだが、当時すでに、親は正太郎を一人しておいても大丈夫だと思っていたようで、その頃から両親は本格的に共に仕事に本腰を入れるようになっていた。
そんなこともあって、朝は簡単に朝食を済ませ、新聞を読み、身支度をしてしまえばあとは話す相手もいなかったので、暇だったのだ。
だから正太郎は小学校のそのやり取り以来、朝ちょっとだけ早く出発して弥生の迎えに行くのが日課になっていた。
大して歩く距離もないところに弥生の家はあった。
ピンポーン。と高めのベルの音が鳴り、しばらくして、笑顔だが申し訳なさそうな顔をした弥生の母が姿を表す。
「今日もダメそうですか?」
「そうなの、ごめんね~」
この日課を続けて何年かした頃、正太郎は母親の表情を見るだけで分かるようになった。
ちなみに昨年、中学3年の時、弥生がこのタイミングで起きてきた回数は23回。学校の出席日数は分からないが、この回数を差し引けばおのずと弥生の遅刻回数も分かるということになる。そんなことはさておき……。
分かりました、と言って家を後にする正太郎。
これを始めて最初の頃は部屋まで行って、たたき起こすようなこともしていた。が、いつの日だったか、
「たたき起こすのだけは勘弁してくれない? 心臓に悪い気がするからさ」
と言われたのを機にするのをやめることになった。まったくもって自分勝手な女である。
といっても、この年にもなって人の部屋に入ってたたき起こすなどしたくもないが……。
「おー正太郎君。今日もまゆえちゃんのお迎えかのう。偉いのう」
この時間帯に割とよく出没する、この周辺に住むおじいさんだ。今日は可燃ごみの袋を持っている。
「相変わらず寝てましたが……。あと、名前間違ってます。やよいです」
「そーだった、そーだった」
過去に何度も訂正しているのだが、一向に覚えてくれそうにはない。ちなみに正太郎の方はというと、昔おじいさんが飼っていた犬の名前が一緒だったらしく、それで覚えてくれているようだ。
「じゃあ、俺これから学校行きますのでこれで……」
「そーか、そーか」
軽い会釈をして、正太郎は学校へと歩き出す。ちなみにおじいさんの犬の話は長い。
「ちょっと待ってよぉ~」
と、間髪入れずに聞こえる騒がしい声。
タッタッタと走って近づいてくる。
振り向くまでもない。これは間違いなく、
「早かったな、弥生」
「もう……、正太郎が置いてくから走ってきちゃったじゃない!」
正太郎の隣まで来て走るのを止めると、今度は「汗が~」と呻いている。
「どのみちお前は走る運命にあるみたいだからな。仕方ないんじゃないか?」
「その言い方はひどいと思うな! だいたい、正太郎がたたき起こしてくれれば万事解決なのにさ!」
「たたき起こせばいいのか? では、ついでに無性に笑いたくなった時のために、お前の寝顔を写メに撮っておくが、文句は言うなよ?」
「人が嫌がることをポンポン思いつくわよね……」
「お前は自分が言ったこともすぐに忘れるよな」
「え……? なんのこと?」
「さあな」
こんなやり取りをかれこれ小学校の頃からしているわけだが、正直、正太郎はすごい心地が良かった。だから朝一緒に行けるかどうかも分からないけど、この時間を大切にしたいからいつも弥生を迎えに行く。本人には絶対に言いたくないが。
「ねえ、正太郎。私寝癖大丈夫かな?」
「いつもどおりだから、大丈夫だ」
「え、それってどゆこと!?」
「学校いくぞ」
「ちょっとまってよ~!」
今日、今年初めて正太郎は弥生と学校に行った。