果て無き闇
大門の疑念は膨らみ、そして……。
大門は勢いよくドアを蹴飛ばすようにして開けた。
そして、先ほどまでドア付近で考えていた、脅すためだけに銃を使うことだとか、銃は最後の手段であり迂闊に使ってはならないことだとかを完全に忘れていた。脳内が白熱して、何も考えられないほどになった思考は、最初に銃を構えることを大門の身体に強制した。次に、緊張で渇ききって灼熱した喉からは、この世ならざる決死の叫びを搾り出すことを強制した。
そして指は、重く黒い鉄の塊の、命を奪うために存在する引き金を引くことを大門に強制した――ならば、大門はここで破滅していただろう。
彼はそこで正気に返った。なぜならば、やっと気がついたからである。
そこにはもう誰もいなかったのだ。
ただ、何も無いコンクリートがむき出しになった無機質な廊下には大門の放った怒声のような物が、むなしく反響しただけであった。
大門はやっとのことで、自分がとんでもないことをしようとしていたことを悟った。あわてて銃をしまおうとしたが、指がグリップに絡みついて離れなかった。まるで武器を手放すことを、大門の身体が恐れているように。いや、それよりも武器がまるで魔性の怪物いのように、大門に離れることを許さないといったほうがいいのかもしれない。
大門は手を振るって銃を落とそうとしたが、結局離れなかった。
それよりも、廃ビルに面した道路を行く通行人のひとりが、大門のほうを見ていた。恐らくは、大門が先ほど発した怒声を聞き届けたのだろう。
まるで怪物を見つけたような表情だった。だが、その表情の中に、人を嘲るような笑みが隠れているのを大門は見逃さなかった。その通行人は恐れながらも、大門が自分より劣るイカレタ人間であることを笑いたいのだろう。
大門は身体に熱が篭るのを感じた。皮膚の奥底に火が急に灯って、全身を焼いてしまうような羞恥の炎が瞬時に燃え上がる。
「何見てやがる、テメェ!」
思わずその通行人に向かって叫ぶ。通行人は驚いたようなそぶりを見せた後、あっちこっちと自分の周りを見て、それから、また大門のほうを向いてから気まずそうに俯き、自然にジョギングをしているかのように装って走っていった。
大門は叫んでから、自分の短慮さを呪った。これでは余計に変な人間だと思われてしまう。
これ以上目立っては困るからハルカが来ることを嫌っていたのに、これではまるで意味がない。
大門は部屋に戻ろうとした。だが、なんとなく先ほどの通行人が気になって、大門は通行人が走って行ったほうを見た。通行人はまだこちらが気になるようで、立ち止まって少しこちらを窺っているところだった。大門が見ていることに気がつき、急いでジョギングを続行した。
そのジョギングしている通行人の横に誰かが立っていた。
大門は目を見開いた。それと同時に先ほどまで石化したように固まっていた手が開き、銃がコンクリートの床に落ちた。
見間違いじゃない。
そこにいたのはハルカだった。
大門が思っていたような警察の服は着ていなかった。いつものように白いワンピースを着た、無防備な少女がそこにいた。
ハルカはじっと大門のほうを見ていた。あまりにも純粋無垢な、雛鳥のようなその眼差しに大門もその姿から眼が離せなかった。まるで縫い付けられたように、ハルカは道の端に立ち、片手で服の端を掴んでいる。
大門はその様子を見ていて、またも恐怖が身体の中で渦巻いてきたのを感じた。じっと、監視されている恐怖だ。
一体何のために自分を監視しているのか。今から走って行って問いただそうか、と考えたが、ハルカの様子を見て僅かに迷った。
それはハルカの眼が少し翳ったような気がしたからだ。
何かを得られなかったかのような、寂しげな表情を、いつも笑顔でいる少女がしたような気がして、大門は思いとどまった。
だが、そうして迷っているうちにハルカは踵を返して歩き出してしまった。
大門はそれを見て、急いで部屋に戻った。そして、何を思ったか適当にソファにおいてあった上着を取り、仕事用のスーツの上に羽織る。コンクリートの床に落ちている銃をどうするべきか迷ったが、置いていく勇気も無く、銃を適当にポケットに忍ばせ、鍵も閉めずにそのまま部屋を出た。
廃ビルの階段を駆け降り、ハルカが歩いていったほうの道を確認する。できるだけ、靴音があまり反響しないように、しかし適度な速度でハルカの曲がった路地まで走った。
路地で立ち止まり、先を窺う。
いた。
今日は何とかハルカを見失わずに済んだようだ。ハルカはとぼとぼと歩いている。その歩みに元気がないのは、やはり当てが外れたからか。
だが、とぼとぼと歩いてくれるのは尾行する分には好都合だ。
ハルカが何者なのかを突き止めるためには、尾行するしかない。尾行した結果、何も怪しいところがなければそれにこしたことはないし、前と変わらないのならそれでも構わない、と思っていた。
ハルカを安心できる顧客として認識するためにこれは絶対必要なことなのだ。だが、そう思う反面、大門には、あんな少女が何かの企みをもって自分に会っているなんてことを考えることがひどく馬鹿馬鹿しく、現実を逸脱しているようにも思えていた。
心の中でもうひとりの論理的に考える自分が言う。
「彼女はそんなことをする娘じゃない」と。
だが、大門はその論理的な考えをこの時だけは採択できなかった。あの夜の、ハルカの眼が、監視するあの赤い眼が大門の記憶に刷り込まれていたからだ。たった一つの記憶が、幾つもの疑念に変わり、無垢な少女は記憶の中で悪魔のごとき姿へとなっていく。
その想像を終わらせるにははっきりさせるしかない。それが唯一、自身が救われる道だ。
そう思っていると、ハルカが次の角を、依然、とぼとぼとした足取りで左に曲がった。
大門は足音を気にしながら、ハルカの後を付いていった。
刻限は近づいていた。
秋瀬はそのための準備をしていた。今回の討伐に必要となるものを大型のギターケースに詰めているのだ。これはここで育った孤児のひとりが、秋瀬にもギターを勧めようと置いていったものだ。そのギターは今、秋瀬の部屋の隅においてある。一度弾いてみようかと思ったこともあったが、どうやら秋瀬には音楽のセンスは無いらしく、危うく騒音騒ぎに発展するところだった。それからはほとんど触っていない。
秋瀬は荷物を詰めながら、ギターケースをこんなことにしか使えない自分に嫌気が差していた。これをくれた少年は音楽の好きな子供だった。いま、彼はどこかの家に養子に迎えられている。ギターケースの感触を指に感じながら秋瀬は彼が養子に行った日のことを思い出す。
彼が養子に行ったのは去年の春のことだった。
満開の桜が教会までの坂道を彩り、彼の門出を祝福しているようなよく晴れた日だった。彼を迎えた夫婦はとても優しげな印象だったことを覚えている。彼らはいたく少年を気に入り、すぐにでも養子にしたいと言い出したのは一昨年の冬だった。彼らは信心深い夫婦であり、何度も教会に足を運ぶうちに少年と出会い彼に惚れ込んだのだという。
だが、少年は迷っていた。きっと今までの場所から離れることや、まったく知らない人間に囲まれての生活に不安を感じていたのだろう。彼は彼なりに考えていた。幼さが残る顔立ちの子だったが、自分の人生の選択を迫られた少年は最早子供の心のままではいられない。強制的な自立が待っている。秋瀬も、全てを失いそして選択した人間だからそれはよく分かった。
秋瀬は少年に、養子に行けと勧めることは結局しなかった。ただ秋瀬は考えあぐねていたある日の彼の背中に、今日はギターを弾かないのか、と言っただけだった。少年はそれに対して、そんなことをしている場合じゃない、と答えた。秋瀬はそれを聞いて不思議そうに呟いた。
「養子に行くことより、ギターのほうが劣る問題なのか?」
少年は頷く。秋瀬はかぶりを振った。
「そんなこと無いだろ。養子のことを考えたって楽しくは無いかもしれないが、ギターを弾いているときは楽しいんだろ。だったら、楽しいほうが劣る問題な分けないじゃないか」
少年は秋瀬のほうを向き、それでも皆の場所で弾かなきゃ楽しくない、と言った。きっとこのときはまだ、養子に行きたくない意思のほうが強かったのだろう。
秋瀬はそれに何の気も無しに返した。
「場所は問題じゃないだろ。聞く人だってそうだ。誰に聞かせたいかじゃない、何を聴かせたいかだろう。お前がギターを持って弾いて歌うことができるなら、どこだって関係ないじゃないか。そこに確かな意思があるなら、聴かせたいことだって誰にだって伝わるよ」
少年はそんな秋瀬の話を聞いていたのかいなかったのかは分からない。ただ、その一週間後、彼は養子に行くことを決めた。
それが少年の転機になったかどうかなど知らない。秋瀬は単純に少年が自分の楽しめることを精一杯やれる環境を与えてやりたかっただけだった。
――少しきざだったかも知れないが。
今になってからそう思い、秋瀬は笑った。ちょうど準備も整い、ファスナーを閉めて重量級のギターケースを背負おうと手を伸ばす。
「秋瀬……」
その時唐突に後ろから声が聞こえて、秋瀬は振り向いた。そこには子供達が、心配そうにこちらを見て立っていた。その中にレナもいた。先ほどの声はレナのものだったのだろう。
「神父さま。いまから出かけるの?」
不安そうな顔をして、その中のひとりの少年が聞いた。秋瀬は彼の顔を見て、養子に出て行った日の少年の顔を思い出す。彼もこんな風に不安な顔をしていた。秋瀬はその時、彼のまだあどけない小さな身体を抱きしめたことを思い出した。
秋瀬は立ち上がり、子供達の前まで来て、そして心配そうにこちらを見る少年を抱きしめた。
そうすると彼も不安を抑えきれなくなったのか、ぐっと力を入れて秋瀬の身体に体重をかけるように抱きついた。
――失いたくは無い。
そう強く心に感じた。この子達にとってこの場所は大切な場所なのだ。いつか離れていってしまうかもしれない彼らのためにも、きちんとした場所を保っていてやりたい。そしてこの場所で得たことを胸に、それぞれの人生を生きて欲しい。そのためには自分は死ぬわけにはいかない。
今回の討伐はそこまで難度の高いものではない。しかし、生還の確率などはいつだって分からないものだ。
秋瀬は少年から身体を離した。その時、レナが傍らに寄ってきた。熊のぬいぐるみを強く抱えて、心配そうにこちらを見ている。
「あの……」
何か言いたそうに口を開くが、言葉が出ないのだろう。こんなときに言う台詞をまだ知らないのだ。
秋瀬はレナの頭に手を置いた。そして優しく撫でながら、穏やかな口調で言った。
「大丈夫。少し出かけてくるだけだ。すぐに帰るよ」
秋瀬は戻って、ギターケースを担ぐ。ケースの重みが、養子に行った少年の意思となってここに留まることを秋瀬に要求するかのように肩にずしりときた。
秋瀬はそれに負けないようにしっかりと担ぎなおし、部屋を出ようとする。子供達は秋瀬の道を開け、そしてその背中を見送る。
ロランが合流し、秋瀬の下へ駆け寄る。ロランは秋瀬のようにケースを担いでいると言うことは無く、大分軽装だった。
秋瀬は教会の扉から出る直前、玄関先までついてきた子供達のほうを向いて、笑顔で言った。
「――行って来ます」
それは養子に行った少年が目に涙を溜めながら言った言葉と同じだった。
大門はハルカとほとんど付かず離れずで歩いていた。
そのおかげでハルカを見逃すことは無かったが、別の心配としてこのままハルカの後を付けていって正解なのだろうか、という疑問があった。なぜならば、ハルカはほとんど直感的としか思えない歩き方をしていたのだ。
普通、人間というものは準備の動作という物がある。右に曲がろうとしたならば、首が僅かに右を向き、左に曲がろうものなら左に向く。そういうものだ。
しかし、ハルカの動きにはそれが無い。まるで与えられた道を機械的に進んでいるだけのようだ。迷いが無いのは、帰り道に慣れているからだろうと、前は思っていたが、観察すればするほど不自然な点が見つかる。
例えば、ハルカは人とぶつかっても意に介さない。これは前に尾行したときは、そういう人間もいると思って気にしなかったが、明らかに真正面から来ている人間を、まったく避ける動作も無いとはどういうことだろう。真正面から人が来れば誰であれ、僅かに避ける動作をするものではないのだろうか。しかし、ハルカは避けるどころか、まるで前から人が来ること自体見えていないような感じで平気で誰が来ようが自転車が来ようが車が来ようがまったく避けない。人ならばまだしも車もである。結局は前から来たほうがハルカに気づくか、ハルカが避けないことに腹を立て、汚い言葉で罵倒しながら通り過ぎていくのだが、その言葉にすらまったく関心を見せない。その姿には一本のレールしか与えられていない電車を思わせる。
一体、どうなっているのか、と大門は畏怖にも似た感情でハルカを見つめていた。ここまで能面を貫き通せる人間がいるものなのか。いや、能面というにはあまりにも不可解すぎる。彼女はまるで世界そのものから切り離された場所にいるかのようだった。
ハルカが左に曲がる。それに少し遅れながら、しかし背中を見失わないように大門が続く。
ふと周囲の様子を見ると、出かけたときにはまだ陽は出ていたのだが、最早街には夜の帳が下りていた。
暗闇があたりを覆っていくにつれ、おかしいと大門は密かに感じていた。
前回付けた時にはこんなにも時間はかからなかった。せいぜい片道一時間といったところだろう。それがもう二時間以上経っている。こんなに時間が経過するまでつけるほうもつけるほうだが、歩くほうも歩くほうである。普通は帰路に二時間もかかってまで危険な商売をしている人間の元へと足しげく通ったりはしない。
大門は南西の方角を見た。視界の先には墓石ことこの街の象徴たる電波塔が立っている。その塔が、大門の家からいつも見ている風景よりも小さく見えた。つまり自分達はこの街の中心部から段々と離れているということだ。しかし、中心部から離れるには県道をただ真っ直ぐに走れば、三十分足らずでこの街から完全に離れることができる。それを徒歩とはいえ二時間もかけて、まだ街の中だということは。
「……ぐるぐる回っているのか?」
大門は小声で呟いた。確かに、中心から円を描くように住宅地ばかりを選んで縫うように進んでいけば、そうなるのかもしれない。
しかしそれでは決定的におかしな点が露出する。ハルカはどこに向かっているというのだ。自宅に帰宅せず、街をぐるぐると回って、何が楽しいのか。
それとも、と大門は考える。
もしかしたら尾行がばれているのか?
しかし、そう考えてからすぐに思い直す。いや、尾行がばれているのならばここまで自分を泳がせる理由が分からない、と。
洞窟のような暗闇に沈む街をずんずんとハルカは進んでいく。大門はただ見失わないようにそれを追いかける。
電柱の下でハルカの動向を窺う。今、ハルカは四辻に差し掛かろうとしている。これで何度目だ、と思ったが考えるだけ疲れるので止めにした。
電柱の上では、作りだされた人口の光に羽虫が群がっていた。どうやら電光の部分が露出しているらしく、時折バチッ、という鋭い音を響かせては、ひとつふたつと死骸が目の前の地面に墜ちていく。墜ちていく虫達をみて大門は、彼らは本当に満足して光に群がって死んでいくのだろうかと、たわいないことを考えた。光にすがってまで何かを求めるのなら生き続ければいいのに、と暇なせいで本当にたわいないことを繰り返す。
ハルカはまた左に曲がった。
大門はそれに追いすがる。もちろん、早すぎず、遅すぎずの速度で、だ。
その時である。
大門はそこで慌てて身を隠した。もしかしたら少し行動に移すのが遅かったかもしれないが、それでも大門は即座に気づき、曲がり角の灰色の塀に背中をぶつけるようにして預け、ほんの少しの、視界を確保するだけの最小限の位置まで顔を出して前方の様子を窺う。
気のせいではなかった。ハルカが後ろを向いていたのだ。
ハルカはじっと、いままで見向きもしなかった後方を急に気にし始めた。時折首を伸ばすような動作をしてまで、後ろに警戒している。
何か見られたくない物があるのか、それともやはり気づかれたか? と思い、大門はさらに塀に近寄り、息を殺した。鼓動が破裂寸前なまでに拡張され、肺は膨張したまま動きを止めたように呼吸が続かない。これではすぐにばれる、と思ったが、幸いにもハルカはこちらに近づいてこなかった。どうやら視線を感じただけのようだ。
そのまま何の余韻も残さず、同じ調子で歩き出した。
大門はそれに安堵すると同時に、先ほどの行動が何か意味があるのではないのかと勘繰ったのが無駄だったと知り、愕然とした。
何か意味があるのなら、この尾行はここまでで終わりだったというのに、まだ続くのだろうか。いい加減うんざりしてきた。
「……今日はここまでで帰るか」
収穫は得られなかったが、ハルカが何か隠しているらしいことは事実だ。前回の尾行時の居候しているらしい家のことも気になる。これからも探りを入れていけばいずれぼろが出るだろう。
そう思い、踵を返し帰路につこうとした。その時だ。
目の前の闇の中に、少し異色な物が混じっていた。いや、正確に言うならばそれの大部分の色は闇色で異なる色というわけではない。それでも肌色らしき部位がある辺り、それは異色といってもいいだろう。
大門はそれを見て、少しだけの間何があるのか分からなかった。大門はハルカをずっと尾行していたせいか、この二時間あまり、目の前に佇むものと同じものを見なさ過ぎた。
異色のものはこちらへと歩を進めているようだ。カツ、カツ、と硬い靴音が響き渡る。ようやく目が慣れてきたのか、おぼろげながら輪郭が見えてきた。それにつれて正体も明らかになる。
目の前にいたのは人間だった。
ただ、最初にその人間の大部分を闇と同じように認識したのは、彼があまりにも周囲の風景と同化しやすい色の服を着ていたからだろう。彼は真っ黒な、まるで神父が着るような服を着ていたからだ。そのくせ髪の毛は金髪でやけに目立つ。段々近づくにつれて、先ほどまで大門が隠れていた電柱の明かりに照らされていく。そういえば、と大門は今日、月が出ていないことに気がつく。見ると、夕方までは晴れていたのだが今や暗くても分かるほどに雲が立ち込めた曇天だ。どうりで今宵は闇が深いはずだ、という見当違いな思考が掠める。
その闇の中にぽっかりと開いた光の輪の中に、男の姿が浮かび上がった。
「当たるも、八卦。当たらぬも八卦、でしたっけ?」
その時、唐突に目の前の金髪の黒服が何かを言い出した。少し拙いような言葉遣いだったが、それでも完全な日本語だった。
電柱の明かりに照らされて、はっきりした姿の金髪黒服の男はまだ年若い印象だった。眼鏡をかけた顔が少し童顔に見え、さらに身体つきも結構華奢な印象だ。
「大当たりでしたね」
温和な笑顔を浮かべながら、彼は大門に近づいてきた。カツ、カツ、という音とともに近づいてくる男を、大門はどうすればいいのか分からない。とりあえず、道の端に避ければいいのかと思ったが、それを行動に移す前に男は立ち止まった。
「秋瀬さん。ここでやりましょう。幸い人目も無い」
男は大門の背後へ向けて声を発した。
「そうだな」
その言葉に返すように背後から低い声が聞こえた。大門は思わず振り向いた。
最初、大門はそこにハルカがいることを確認した。先ほどまで前だけを見て歩いていたのに、今は立ち止まって大門のほうを向いていた。大門は一瞬、先ほどの声の主はまさかハルカなのかと感じた。
だがすぐに違うということが分かる。大門はハルカの後ろの闇の中にもうひとつ、気配があることに気づいた。
そこにもうひとり、男が立っていた。前の金髪黒服と同じ服装だが、金髪ではない。老人のような灰色の髪で、少し癖がある髪質なのかところどころ髪がはねていた。他にも、その男が金髪の男と違うことが分かる点があった。
眼だ。金髪のほうはどこか余裕のありそうな眼で、こちらに対する敵意は感じない。しかし、ハルカの後ろにいる男の眼は、明らかにこちらに対する敵意に満ちていた。髪と同じ色の、灰色の眼。それはまるで汚らしいものでも見るように、憎悪に歪んでいる。敵意なんてものではない。あれは、殺意だ。
大門はその男から一歩後ずさろうとする。だが、どこに退路があるというのか。前も後ろも塞がれていることに、今更大門は気づいた。あるいは、これこそが男達の目論見だったのだろうか。
どちらに走っても、薄く笑う金髪の男か、ハルカとこちらに殺意をむき出しにする灰色の髪の男か、どちらの横を通り過ぎなければならない。
ハルカは後ろの灰色の髪の男に気づいていないのか、こちらに身体を向けたまま微動だにしない。大門は何とかハルカの表情を読み取ろうとしたが、俯いているのか、貌が見えない。
カツ、カツと、無機質な音が静寂の夜に沈んだ住宅街に響き渡る。月ひとつ無い夜は、眠っているというよりも死んでいるような印象に近い。夜は死んだまま蘇生せずこのまま朝が来ないイメージに大門は侵される。というよりも、この状況から、次の日の朝が来るというイメージが湧かない。
灰色の髪の男がハルカに近づく。ハルカは怯える様子など見せない。
「諜報員の情報が生きましたね。こんなに早く見つけることができるなんて」
金髪が靴音を響かせながら、言った。大門はそこで言葉の意味を探ろうとする。
――諜報員……。何かを調べていたのか?
そこまで考えて、まさか、と思い立った。ハルカの貌は依然として見えない。だが大門は、その俯いた顔に張り付いている表情を、想像の中の悪魔と成り果てた少女と重ねて読み取った。
――嗤っているのか。
ハルカは僅かに肩を震わせていた。そして嗤っているに違いない、という考えが大門の頭を占めた。
大門は一瞬にして考えを巡らせ、そしてひとつの結論に行き着いた。
「やっぱり、監視していたのか……」
大門は全てを悟った。やはり、ハルカは自分のことを監視していたのだと。そして今回の尾行で、家に戻らなかったのは人通りの無い通りへと、大門を確実に誘い込むためだったということだ。
わざわざ逃げられないように、仲間まで呼んで。
「――畜生」
大門は奥歯を強く噛んで、忌々しげに呟いた。やられた。まんまと嵌められてしまったというわけだ。
灰色の髪の男はハルカの後ろに立ったまま動こうとはしない。だが、その眼はじっと大門の動向を窺っている。
その眼に射竦められている間に、金髪の男が大門へと近づいてくる。もはや、その距離は二メートルもない。
――確保される。そう確信した瞬間、大門は考えるよりも早く行動していた。すかさずポケットへと手を伸ばす。コートに隠れてはいるが、半分以上ポケットからはみ出した銃を掴もうと、そのグリップを掴んで引き出そうとする。とにかく前か後ろ、どちらかの退路を確保しなければ道は無い。ならば数の少ないほうだ、と大門は引き抜くと同時に、引き金へと指をかける。自分でも驚くほどの滑らかな動作に、思わずこれは夢か、と現実を見失いそうになる。だが、それを消し去るように奥歯を強く噛んで踏ん張る。
今現実を見失うわけには行かない。現実を変えなければ、ここから生き残る術は無い。引き金に指がかかると同時に、大門は目の前の金髪の男に狙いをつけた。
――捉えた。
だが、その瞬間である。
大門の背後で一際大きな音が響き渡った。それは切断音だった。何かの電気コードが突然切れたような、不意打ち気味の音だ。次いで、ごとっ、という何か重い物が落下したような音。
大門は引き金を引くのも忘れてそちらのほうを向いた。
そちらを見た瞬間、大門の思考は凍結した。灰色の髪の男が、その手に何かを握っていた。次いで、思わずよろめくような衝撃が、大門の脳を直撃した。
目の前の光景が信じられない。一体何が起こっているというのか、大門の眼にはその光景が映っているものの、脳にはそれを理解するすべが無い。
灰色の眼が、静かに揺らめいている。赤く染まっていく光景が、その眼差しを遮断していく。失神する直前のように、鉛を詰められたように頭が重たくなっていく。
その時、金髪の男のほうからも一際大きな足音が大門の耳に届く。駆け出してきたのだ。しかし大門は先ほどの光景に全ての思考を奪われており、金髪の男のほうなど見ることも気づくこともできなかった。
駆け出した靴音は、三つも響かないうちに大門の傍らまで到達する。
大門の眼は、金髪の男が腰から何かを抜き取った瞬間を視た。それとほぼ同時に、灰色の髪の男が手に握った何かを正眼に構える。
彼らは常人には理解できないような速度で、それこそ迷いの無い絶対的な殺意に任せて、握った刃を振り下ろした。