重奏
少し長めです。複数視点が跨るのは書いていて楽しい部分です。
N市は都心部からは少し離れた小都市である。
市の中心部のオフィス街から東西南北に伸びるように県道が整備され、そのさまは空中から見たならば巨大な十字架である。そして中心部に位置する高層オフィスビルから郊外になるにつれ段々と低くなる建築物は模式的に地上から示すならばまるで円錐のようになっている。
この街の名物はその円錐の頂点に到達する巨大な電波塔だ。近年の都市開発で街のシンボルとして造り上げられたその塔は高さが百メートルほどで、中心部のエレベーターから一般客でも登ることができる。
展望室がもちろん最上階だが、そこに到達するまでにも高級レストランがあり、また地下にはショッピングモールがある。テレビでも近年紹介され、有名になりかけているが地元の評判はあまりよくない。それには塔のデザインが問題視されていることが関係しているようだ。
真っ黒なのである。
まるで墓石のように真っ黒で、夜になると不気味で始末が悪く、最初のほうはそれをめぐって住民運動すら起こったが、夜はライトアップされるようになり、塔のデザインの見直しとともに白く塗り替えようという動きが起こってから、運動は沈静化している。
つまりは開発の進んだ地方都市なのだが、ここは少し交通の便が悪い。東西南北に進む県道があるだけで、それ以外にこの街に来る方法は電車ぐらいである。つまり、五つしか、この街に来る方法は無いということだ。
そんな特殊な街であるからもちろん外から人間が来るには少し手間取る。だから家が近辺に無いために、この街を離れていた岸辺章介が遅刻したのも仕方がないことなのかもしれない。
岸辺は刑事であるが有能には程遠い。完全な組織の歯車であり、彼は自分の意思を語ることは少なく、冷め切っていた。
後から来た若い刑事達が自分達の「正義」について語るときでさえ、彼は冷ややかに彼らを見ていた。
そんな岸辺が急いで来たときには既に現場が完璧に隔離されていた。黄色いテープをくぐって岸辺が現場に踏み込むと、そこには岸辺より位の高い刑事がふたりほど、何か難しそうに話していた。
岸辺が近寄ると片方の、顎鬚を生やした小柄な刑事が手を上げた。佐伯警部である。岸辺がそれに返しながら言う。
「すいません、遅れました」
「気にするな、それよりゆっくり休めているのか? ひどい顔だぞ」
聞き方によると少し嫌味に聞こえるかもしれない言い方だったが佐伯は少しも気にしてない。恐らく、純粋に善意から心配してくれているのだろう。佐伯はそういう人間だ。
他人の心情には構わないのが玉に瑕だが、自分の確かだと思うことをしっかりと言う。だから人望は厚い。
岸辺も気にはしていなかった。こんな現場で同業者の言葉でいちいち憂鬱になっていたらやっていけない。だが、岸辺の姿を見て、先ほどまで佐伯と話していた刑事は嫌そうな顔をした。それはこの間、岸辺に自分の「正義」を語っていた若い刑事だった。
岸辺はそういう風に熱く語る人間が苦手だったため、彼の姿を冷ややかに見つめていた岸辺に少しばかり反感を覚えていたのだろう。こういう時、やはり自分は嫌われているのだな、と思った。
「あれ? この教会って確か数年前に焼け落ちたって聞きましたけど」
若い刑事から視点を移して、森の奥に佇むようにして見える教会を不思議そうに見ながら佐伯に訊いた。
「ああ、それから建て直したらしい。今は責任者も変わっているらしいが、詳しいことは知らん」
岸辺はその説明に納得した。どうりで壁面が新しく見えるはずだ。
懐かしげにその教会を見つめる岸辺の脳裏には数年前の、赤い風景に包まれた教会があった。
唐突に記憶の中からその日の映像が引き出される。ひどい事故だった。当時はまだ学生だった岸辺はその事故現場に偶然居合わせ、現場を見たが、それからしばらく気分が悪かったのを覚えている。
不審火が原因だったらしいが詳しいことは結局分からなかった。ただ、その事故で教会に住まっていた神父と、孤児として預かっていた子供数人が死傷した悲しい事故だったことは確かだ。
子供が被害者だと、やはりやるせなく、そういうときに自分の能力の無さを岸辺は知った。
「仏さんの状況について説明、していいか?」
岸辺がぼうとしていたからだろう。佐伯が訊いてきた。岸辺は慌てて頷く。
「まぁ状況は最近多発しているアレだな、連続怪死事件。例のごとく、失血死だ」
連続怪死事件。岸辺は心の中で呟いた。だが、今回は――。
「でも、これは――」
「ああ、前までの仏さんと少し状況が違うな。前までのはほとんど外傷は無かった。それこそ、世間の言っているように〝吸血鬼〟の仕業って言っても不思議じゃねぇ位にな。仏さんは全て、本当に魂だけ持ってかれたんじゃねぇかって位、きれいな死体だったんだが」
語尾を濁したのは目の前にある惨状を見ているからだろう。彼の眼は身体の半分以上をまるで巨大な機械で磨り潰されたように破壊され、残った上半身にも隙間無く刺し傷を刻まれ血を流しながら絶命している、男の死体を見ていた。
「なぜ、わざわざ止めを差しに行った」
教会の廊下でそう秋瀬に呼び止められ、ロランは振り返った。ロランはなぜそんなことを聞くのか、と言いたげに首を傾げている。
「もう一度言う。なぜ、止めを差しに行った」
秋瀬が怒声になるのを堪えながら言う。ロランは上を向いて、少し考えるような仕草をしてから、何でもないことのように言った。
「彼が吸血鬼になるのを防ぐためですよ」
彼、というのは昨日の運転手のことだ。
「彼は昨夜、僕達が逃がした後、森に逃げ込み、そこで恐らく吸血鬼、またはそれに従事する使い魔に捕まり、殺された」
自分達から彼が〝逃げた〟ではなく〝逃がした〟という言い回しをしたのは、秋瀬を責める為だろう。秋瀬はその言葉に苦味を覚えたが、それを意に介することなくロランは淡々と語る。
「秋瀬さんも知っているでしょう? 吸血鬼の場合は首筋に噛み付き、血を啜る。首筋に噛み付く理由は定かではありませんが、おそらくは被害者の抵抗を抑えるため。まぁ、首を噛まれていちゃ、抵抗できる方法は限られてきますからね。また精神的ショックを被害者に起こすためと考えられている。そして、噛まれた人間は例外なく、吸血鬼に〝感染〟してしまう」
ロランはまるで教鞭を振るうように身振り手振りすらつけながら語る。
もちろんそんなことはいまさらロランに言われなくても知っている。基礎の基礎であり、数々の伝承にも、そう記されている。
「感染すれば確実に我々の敵になる。だから始末しに行ったんですよ。まぁ、行ったときには彼はもう身体の半分がありませんでしたが……。それでもまだ生きていましたからね。感染の可能性を考えての行動です」
ロランの言っていることが正論だということは秋瀬にも判る。身体の半分を破壊されて無事だということは感染が確実だということだ。
「マニュアル通り。心臓に一突き、脳に一突きずつ。他にも我々の仕業だということを勘付かせないためにダミーの傷跡を多数」
確かに、教会の推奨するマニュアル通りの行動。『吸血鬼討伐の際には、脳を破壊し、さらに吸血鬼の力の源である血液の供給を断つために心臓を破壊する』。
組織の本部なら褒められるその行動。しかし、秋瀬は納得できずに声を荒らげた。
「感染の可能性はそこまで高いものではない! 個々の適性にも左右される。第一、それがもし、吸血鬼の行動ならばの話だろう。もし、人間の仕業なら、我々が介入したこと自体が由々しき問題――」
「人間が、人間をあそこまで破壊することが可能ですか?」
秋瀬の言葉を、ロランが冷静に制す。秋瀬はそれに何も言い返せなかった。
唇を強く噛み、歯がゆさに耐える。ロランは呆れたようにひとつため息をついた。
「一体、何が気に喰わないんですか? 秋瀬さん。吸血鬼討伐は我々の責務でしょう。ならば、それに必要な行動をとることを褒められどすれ、責められる謂れは無いはずですが」
秋瀬はロランを強く睨んだ。だがロランは依然、意に介せずといった調子だ。それもそうなのかもしれない。なにせロランは間違ったことはしていないのだ。この場合、むしろ間違っているのは秋瀬のほうだといえる。
「――それでも、混乱を避けるために行動は慎重に行うべきだった」
「しかし行動が遅ければ、被害は広がります。人が死ぬんですよ?」
「だが、他に方法がなかったわけではないだろう!」
ロランは首を横に振り、肩を竦めた。
「もう止めましょうよ。僕らが言い争っても何の解決にもならない。それより肝心の吸血鬼は未だ捕まっていません。それの討伐を考えるほうが先決でしょう」
そう言ってロランは踵を返し、再び歩いて秋瀬の前から姿を消した。
「秋瀬……」
その時、ふと後ろから声がした。秋瀬が振り返ると、そこにはレナが熊のぬいぐるみを抱えながら不安そうに立っていた。
いつからいたのだろう。レナは秋瀬と同じくらいに傷ついたように目に涙を浮かべ、ぷるぷると震えていた。
――レナに不安な思いをさせてしまったのか……。
「秋瀬、大丈夫?」
自分の恐怖を押し殺して、レナが震える声で尋ねた。
そうだ。この子だって辛いのだ。やっと、心を開いてくれるようになったこの子に、不安な思いだけはさせてはならない。
秋瀬はそう強く感じ、屈んでレナの頭に手をそっと置いた。レナは少し逡巡したようだったが、それでも少しは落ち着いたのか、身体の震えは止んでいた。
「大丈夫だ、レナ。私は、もう大丈夫だから」
自分に言い聞かせるようにして、何度も、「大丈夫だ」と秋瀬は呟いた。
大門はソファの上で目を覚ました。
窓の外で子供達が笑いながら話しているのが聞こえる。小学生が下校しているのだろう。どうやらもう時刻は夕刻らしい。
大門は立ち上がり、冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出した。それをごくごくと喉を鳴らしながら飲む。昨日エアコンを点けっぱなしにしていたせいか、喉がひりひりとする。それを打ち消そうとミネラルウォーターを何杯も飲んだ。
ついでにテーブルに置かれたアンパンを手に取り、封を切った。
窓から漏れた黄昏の光がちりちりと部屋のフローリングを焼いている。
寝すぎたな、そう感じた。
フローリングの床に座りテレビを点けると、もう夕方のニュースをやっていた。やはり寝すぎたと再認識する。今日はテレビの中の、初老のキャスターも少しご立腹のようで、元々赤い顔が、危うい髪の生え際まで真っ赤に染まっている。
もちろん、怠惰な生活を送る大門を怒っているわけではなく、最近多発している教師のセクハラ事件について憤っているようだ。
「このキャスター、昨日の連続怪死事件はそんなに怒っていなかったのになぁ」
アンパンに齧りつきながら、大門は呟いた。どうやらまったく関係のない都市で暮らすキャスターにとっては、地方で多発している事件より純朴そうな男性教師が何歳の女子生徒にいけないイタズラをしたかの方が重要らしい。
大門はチャンネルを変えた。
ちょうど番組の合間のコマーシャルがやっていた。どうやら今夜九時から特別番組があるらしい。
「密着! 最前線医療現場の真実! 今を奔るドクター達」という番組らしい。なんだか舌を噛みそうなタイトルだと大門は思った。
映像は医者達がオペをしている最中のものだった。食べながらこういうものを見るのは気分が悪い、と思いながらも思わず見てしまう。他人の赤紫色の心臓が拍動する様子が、何の映像加工も無しに放映される。それを見ながら、近頃は規制もゆるくなったのだな、と大門は感じた。だが、バラエティでのお色気描写は減ったような気がする。人の中身と、人の裸――果たしてどちらが規制されてしかるべきなのだろう、と大門は思った。
場面は変わり、えらく美人な女医がインタビューに答えている場面になる。目鼻立ちの整った女性で、柔和な笑みを浮かべていた。大門はこんな医者に診療されたい、と強く思った。
その時、ピンポーンとドアチャイムが鳴った。どうやら誰か来たらしい。大門は来客用のスーツに袖を通した。身支度を整えながら歩き、ドアを開けた。
「ヤァ」
扉の前に軽く手を上げてハルカが笑顔で立っていた。今日も白いワンピースを着込んでいるが、さすがに寒さが身にこたえてきたのか今日は似合わない黒のジャンバーを上に羽織ってきていた。
大門は一瞬、うんざりしたような表情をしたが、これも仕事だと思い無理やりな笑顔でそれに返すように手を上げる。
「ああ、またパスポートの件ですか。でもねぇ……」
大門は玄関の靴箱の上にある卓上カレンダーに目を向けた。
「あのさ、ハルカさん。パスポートなんてさ、三日やそこらでできるもんじゃねぇの、分かる? しかもこちとら非合法な仕事なわけでさ。そうそう何度も来られても困るって」
ゆっくりと、目の前のハルカの鼻先を見ながら大門は明らかに鬱陶しそうに言った。
しかしハルカは分からないのか、相好を崩し何度も頷いた。大門はその様子を見て苛立たしげに頭を掻く。
先日、ハルカにパスポートを作る約束をしてからハルカは毎日、大門の家に立ち寄りに来た。大門は最初、きっとこの少女は大変な大悪人で早くパスポートを作らなければこちらが消されるほどやばい人間なのかもしれない、とまで思ったが何度見てもそんな風には見えず、しかもいつもまるで友人の家に遊びに来るかのような気軽さで白昼堂々この廃ビルの大門の部屋まで来る。
もしかしたら付近にアジトのようなものを構えているのかもしれないと思い、密かにハルカが帰る後を付けてみたが、人を憚って帰るわけでもなく、堂々と普通の道を帰り、さらにはしっかりした一軒家に入っていった。これには大門も驚き、その日のうちに周辺に聞いてみると、どうやらその家に居候しているらしいことが分かった。それも昨日今日の話ではなく、結構前からなのだそうだ。
ハルカは毎日、その家から大門のいる廃ビルまで、大体一駅分ぐらいを歩いて通いつめるという少女には中々きつい道のりを行き、大抵二時か三時ぐらいに大門の家を訪れ、そして五時ぐらいになると帰るという、最近は小学生でもしないような規則正しい時間に来て帰るのである。
だがいくら規則正しくても、大門にしてみればそれは不都合だった。
「――ともかく! 今日は帰ってくれよ。そう何度も来られちゃこっちだって危ないんだ!」
今までだって怪しい人間が出入りしているのを何度も見られて危うく御用になりかけ、その度に家を変えて、転々としてきたのだ。だというのに今度も、しかもこう毎日同じ時間に、白いワンピースを着た年端も行かないいたいけな少女が、何をしているのか分からない人間(ご近所からはそう思われているだろう)のところに来ているのがもし噂になればたまったものではない。
だが、どう言っても分からないのか、ハルカはまだにこにことして大門を見ていた。その様子に遂に大門が折れた。
「……はいはい。中で話聞くから、いつもの部屋で待っていてくれ」
がくりと肩を落とし大きなため息をついて大門は言った。ハルカは、たすかるよ、と言って中に入った。
大門は先にハルカを通し、その背中を見つめる。
綺麗な長い黒髪が楽しそうに揺れていた。
「コーヒーは? 飲めるか?」
大門は応接用のソファに深く腰掛けたハルカの目の前にコーヒーを差し出した。ハルカはそれを見て頷く。大門は自分の分のカップだけは片手に持ったまま、ハルカの向かい側の席に座った。
コーヒーを少しだけ啜る。これから話をする上で、喉は少しでも潤っていたほうがいい。だが、喉を程よく潤してくれるような味付けは、どうやらこのコーヒーには備わっていなかったらしく、けばけばしい苦味を感じたあとに、粉っぽい何かが喉の上をずるずると滑り落ちていった。
「それで、パスポートの話だが――」
大門が本題に入ろうとしたその時、豪快なくしゃみがその言葉を遮った。大門はハルカを睨みつける。ハルカはというと、鼻をすすり上げ、大門の視線を好意と感じたのか笑顔を返した。大門はため息をつきながら肩を落とす。どうにもこの少女はつかめない。そう思いながら、再度ハルカへと目を向けた。
ハルカはコーヒーの入ったカップを片手に、口元をもう一方の手で押さえながらカップを下から覗いたり上から眺めたりと不思議そうに見ていた。
「……何だ、コーヒー飲めないのか?」
大門の問いかけにハルカは少し迷ったように首を斜めにしてから、横に振った。
「ノメないことはないケド、のんだのはハジメテ」
「飲んだことなかったのか?」
ハルカはこくりと頷いた。それから、アマリおいしいモノじゃない、と付け足した。
大門は特に気にはしなかった。何分それは安物のインスタントコーヒーだったからだ。
「同感だな」
と、大門は言ってその不味いコーヒーを口に含んだ。
ハルカはその様子を、信じられないような目つきで見て、それから手元にあるコーヒーと大門の飲んでいるコーヒーとを見比べた。
大門はカップを机の上に置き、そしてもう一度仕事の話をしようとした。
「それで、例のパスポートの件なんだが――」
「ダイモンサンは、いつからココにいるの?」
またも話を遮られ、大門はいかにも不服そうにハルカを真正面から睨みつけた。しかしハルカはそれを何と取ったのか空気を和らげるような柔らかい笑顔を見せた。大門はそれを見て、この少女には並大抵の脅しは通用しないのかもしれないと思い、今日何度目かのため息を漏らしてから簡潔に語った。
「ここに来たのは去年の末だよ。生まれ故郷ってわけじゃない」
「なんでココにキタの?」
大門はその質問に少し躊躇した。この少女に自分のことをこれ以上語るべきか、否か、迷ったのだ。関係ない、と突っぱねればそれで済む話だが、目の前で自分の話をこれを聞き逃せば一生聞けないような貴重な話のように、目をきらめかせて聞いている少女に対しそんな態度が自分にできるのか、と大門は自信に問いかけた。
しばらく考えて、いい加減うんざりしたようにため息をつく。あまりにも無防備な少女に、妙な意地を張っても仕方がないと大門は観念して必要最低限なことだけを話すことにした。
「ガキの頃にここには一度来たことがあった。だから地理的にも知っている場所だったし、なによりそのときの俺にはできるだけ知っている場所で、なおかつ俺と関係のある人間とはできるだけ遠く離れられる場所が良かったんだよ」
「ココは、ダイモンサンにとって、……コウツゴウ、だったってコト?」
ハルカは使い慣れていない言葉の意味を自分の中で確認するように言った。大門は頷いた。
子供の頃に来たことがある――といっても、大門にとってこの街にはいい思い出などひとつとしてなかった。
なぜならば、この街こそ大門が両親を事故で亡くした地だったからだ。
目を閉じれば今でも思い出すことがある。一瞬の出来事。視界が光に侵され、身体がまるでゴミ屑のように吹き飛ばされていく感覚。衝撃が心と身体を引き離して、思考を置き去りにしていく。頭の中が黒と白に何度も変わる地面への激突の瞬間。全身を貫いていく、肉体を細切れにされるような痛み――。
大門は目を強く閉じて首を振った。
「ダイモンサン?」
大門はその声に目を開く。見るとハルカが心配そうに大門の顔を見つめていた。
「どうかしたの?」
大門はその声でやっと現実に引き戻された。気づくと額にはじっとりと汗が滲み出ている。大門は手で汗を拭いながら、心配そうに見ているハルカを片手で、大丈夫だ、と制した。
「少し、嫌なことを思い出しちまっただけだ」
「イヤなコト?」
ハルカが小首をかしげる。
「……お前には、関係のないことだ」
低く押し殺したような声で大門は言った。ハルカは大門の様子が違うことを感じたのか、自分の席に静かに座って俯いた。その姿は少し悲しそうにも見えた。
だが、大門は自分の過去を話そうとは思わなかった。いや、思えなかったのだ。誰かに、過去を背負ってもらおうなど、大門は考えたこともなかった。話せば楽になるかもしれない、そんな淡い希望を持つことさえなく、ただ自分の中で、闇を飼い殺す。それが最善だと、大門は思っている。これまでも、おそらくはこれからも、そうやって誰とも付き合っていくのだろう。あちらに干渉しない代わりにこちらにも干渉させない。無関心で、乾ききった関係性に、死ぬまで身をゆだねていく。
生きたままミイラになるように。乾いた、生き方に終始して。
「――ダイモンサン」
ハルカが堪りかねたように声を出す。大門はハルカを直視せずに受け答えた。
「なんだ?」
「そろそろ帰らなきゃ」
ハルカは言うと同時に立ち上がる。一応客であるため、大門も立ち上がり、ハルカの後ろを歩いて玄関までついて行った。
ハルカが静かにドアを半分ほど開ける。そこから入ってくる涼しげな風が、閉め切っていた淀んだ部屋の空気を浄化していく。大門は思わず、その風が流れてくる玄関を直視した。その時、不意打ち気味にハルカが振り向き、
「マタ、来ていい?」
そんなことを聞いてきた。大門はその質問にしばらく面食らっていたが、ハルカの顔を見る限り冗談とも思えず、諦めたようなため息をひとつ漏らした後に言った。
「勝手にしろ」
その答えにハルカは満足したのか、顔いっぱいに夏の吹きぬける青空のような無邪気な笑顔を浮かべ、そしていつもと同じ台詞を言った。
「マタネっ!」
語尾が弾んでいるような気がしたのは恐らく気のせいではないのだろう。手を振って玄関から出て行くハルカを見送りながら、大門はどこか先ほどまで過去の残像に縛られていた自分が少しばかり解放されているのを感じていた。




