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終幕

すべてが終わり、すべてが最初へと戻る……。


 一番古い記憶はどこにあるのだろうか。大門はそれを探して無辺の闇へと手を伸ばす。その先にある光の一端をすくい上げた。そこに映ったのは自分と、そして両親だった。両親は、自分を愛してくれていたと思う。不自由は無かった。全てが満ち足りていた。


 幼い大門が楽しそうに笑い、両親を見上げる。両親は大門の手を握りながら光の向こう側へと消えてゆく。大門はそれに手を伸ばしかけて、自分の手が赤黒く汚れていることに気づいた。「ああ、そうか」と乾いた声を漏らす。


「もう、戻れないんだな」


 大門の声は幼い大門の声に届いたのだろうか。一瞬、その横顔が背後を振り返ったが、それは本当に一瞬のことに過ぎなかった。両親と共に幼い大門――いや、因幡悠斗は笑顔を振りまきながら歩いてゆく。きっと、光の中はここではない未来に繋がっているのだろう。偽装パスポートの売人にも、吸血鬼にもなることが無い、まともな人生へと。大門は背を向けた。もう、戻れない。その覚悟が伝わったかのように、光は彼方へと旅立っていった。






















 大門には最早、意識と呼べるものが無かった。ただ本能のままに食らい尽くす。それだけが残っていた。銜えた獲物からはもう生気は感じられない。大門は痰を吐くように、獲物を口から離した。からからに乾いた獲物は屋上から落ちる途中で、灰になって消えたようだった。肩を竦めて、また獲物を探そうと踵を返しかけた。


 その時である。


「食事は終わったのか」


 聞き覚えのある、男の声。その声の主を屋上に認める。見覚えのある黒衣の人物が、そこにいた。包帯の巻かれた杖のようなものを持っている。


 ――ア、キ、セ。


 大門の中で言葉が連なる。だが、それは意味を成さない。

その瞬間、大門の中の吸血鬼の部分が危機を察知し、大門の身体は半ば強制的に反対側の縁へと移動した。


「何者だ」


 知っているはずなのにそんな言葉が出る。だが、それは言葉になる前に霧散した。大門は呻ることしかできない。


「言葉も忘れたか、可哀想に。もっと早くに、君を見つけるべきだった」


 さも残念そうに男が語る。お互い遅すぎた。それは大門にも分かった。なぜならば、男の眼も赤く染まっていたからだった。


 男が赤い眼を伏せて、呟く。


「……吸血鬼としての性が君をそこまでしてしまったのだな。本当に哀れだ。今、私が終わらせてやろう」


「や……め、ろ」


 ようやく言葉が口から出るも、大門の言葉では無かった。これは吸血鬼としての自分が出しているのだ。男の言葉をただ拒絶する。


 男は強い口調で応じる。


「やめない。今、解放してやる」


 その瞬間、きしりと何かが擦れたような音が耳に届いた。一体何の音か。男は確認しようとする。大門は爪を鋭く硬化させ、男の手を引き裂いていた。男は血を撒き散らす壊れ果てた自分自身のかつて右腕であった部分を無感情に見下ろしている。吸血鬼である自分は、それが気に食わないのか、男へと一撃を放った。男がよろめく。しかし、男は倒れなかった。杖で、なんとか持ちこたえたのだ。だが、吸血鬼として息つく間など与えはしない。


 大門はXを殺したのと同じように首筋へと牙を突き立てようとした。その瞬間、男の姿は掻き消えていた。それを探そうと首を巡らせる前に、背中に衝撃が走った。ドン、という鈍い音。何か、細い鈍器で背中を殴られたような音が男の脳内に残響し、大門は吹き飛ばされた。吸血鬼としての咄嗟の判断で制動をかけようと床に手を伸ばす。次いで身体が前に倒れこむ。それと同時に腕に力を込め、大門は回転しながら勢いを殺し、着地した。


 何が起こったのか、吸血鬼としての自分は理解ができない。だが、大門には分かっていた。この程度で殺されるわけが無い。


「嘗めてもらっては困るな」


 大門が先ほどまでいた場所から声が聞こえた。月光が、その場所を静かな青で照らし出す。

そこには大門に腕を潰されたはずの男が立っていた。しかも先ほどとさほど変わらぬ面持ちで、優しげな笑みさえ浮かべながら。


「腕を潰された程度で私が動けぬとでも?」


 そう言って、男は痛みを感じていないのか、ぼろぼろに引き裂かれている右腕を差し出す。その時になって気づいた。黒衣の右手首から先は無かった。彼は歯で噛み切って杖の包帯を解き始めた。


 解けた先から夜の闇より深い漆黒の、細く鋭い刃が現れる。彼は巻かれていたすべての包帯を解いた。


 そこにあったのは細い、漆黒の長刀であった。鍔が無く、他に何の装飾も無いその無骨な黒い刀は、そこに本来あるべきものであったかのように、黒衣の手に、姿に、ひとつのシルエットとなって馴染んでいた。黒い刃は月光を受け、刀身が薄くぼやけたような光を発している。


 ――シ、ン、タ、ク、ヘ、イ、ソ、ウ。


 言葉が連なるがやはり意味は分からない。


 男はそれの先端を無造作に床に突き刺し、左手で髪に隠れた右耳の辺りを探った。男は立ち上がる、それと同時に黒衣が髪をかき上げる。

彼の右耳があるべき場所には耳が無かった。


 ――知っている。


 代わりに円形の蓋のような金属が埋め込まれていた。彼は親指でその部分を軽く、押し込んだ。


 ほぼ同時に、ちり、というコンクリートをほんの僅かに擦ったような音。だが次の瞬間、男の姿はつい今しがた攻撃に移ろうとしていた大門の、まさに目の前にあった。


 男が踏み込み、刀を振り上げる。吸血鬼の本能が危険を察知するまでに、男の刀は大門の左腕を肩口からばっさりと斬り捨てた。硬化する暇も無かった。身体のバランスが崩れる。


 男は身体を反転させ刀を右脇に挟むと同時に、懐から小型の黒いナイフを取り出す。そして反転の勢いを殺さずに男の足の腱を投擲したナイフで裂いた。その身体に強烈な蹴りが鳩尾へと食い込んだ。


 屋上の床に叩きつけられ背中に衝撃が走り、やっとそこで身体の機能が付いてきたのか、斬られた場所に強烈な痛みが走った。


 大門はそれでもすぐに立ち上がろうと右手を床につき、力を加えようとする。その時、右手の甲に何かが飛来した。飛来すると同時に放たれる痛みに、大門は顔をしかめる。


 右手の甲には、再度投げられたナイフが甲を貫き、床に突き刺さるほどに深々と突き立てられていた。


 今になって、切り捨てられた左肩から勢いよく血が噴出し始める。それはすぐに大門の倒れている床に巨大な血溜まりを作り上げた。


 男は服についた汚れを払うような動作を見せてから、今までの速度が嘘のようなゆったりとした速度で大門の下へと近づいてくる。大門は立ち上がろうとするがナイフがまるで杭のように刺さっているせいで床に磔にされているような形となり、身動きが取れない。


 男が刀を掲げる。その刀身は中空に浮かぶ月の光を遮り、その月を真っ二つに貫いていた。


 男の眼が大門の視線と交錯した。その眼にはまた優しさが浮かんでいた。


「や……めろ。……れむな」


 大門の口から途切れ途切れの言葉が漏れる。それは吸血鬼の自分の声か、それとも人間としての自分の声なのか。最早判断はつかなかった。


 男が小さく言葉を口にする。その声が大門の耳にはっきりと届いた。


 ただ一言、


「すまなかった」と。


 その瞬間、大門はかっと目を見開き、静寂を切り裂く叫びを木霊させた。


「私を、哀れむな!」


 その叫びを切り裂くように、漆黒の刀身が振り下ろされた。


 これが、人間としての大門の最後の記憶だった。




















 振り下ろされた刃は大門の腕を付け根から断ち切った。大門が苦しげに呻き声を上げる。秋瀬はさらに一閃、もう片方の腕を切り落とす。両腕を失った大門がよろめきながら立ち上がる。秋瀬は切っ先を突きつけて言い放った。


「行け」


 大門は伸びた銀髪を振り乱しながら、秋瀬から背を向けて危なっかしい足取りで逃げる。秋瀬はいつでも斬れる状態だったが追おうとはしなかった。大門が屋上の縁まで辿り着き、その身体がぐらりと傾いだと思うと、大門の姿は闇の中に消えた。落ちたのか。音は聞こえなかった。


「……一日にふたりも、人間を殺すことはできない」


 秋瀬は呟き、刀を下ろした。直後、秋瀬は視界がぶれるのを感じて刀を杖代わりにして立とうとするが、切っ先が欠け秋瀬はバランスを崩した。その秋瀬の身体を何者かが抱きすくめた。目を向ける。そこにはQ8がいた。秋瀬は掠れた声で彼女の名を呼んだ。Q8は秋瀬の身体を揺する。


「しっかりしろ、秋瀬。私との約束を忘れたのか?」


 Q8の声に秋瀬は記憶を呼び覚まそうとして、裂けるような頭痛に襲われた。呻き声を上げながら、刀を取り落とし手で頭を押さえる。


「約束、は、忘れて、いない」


 途切れ途切れに言葉を発する。「だが」と秋瀬は息を乱れさせて付け加える。


「私に、約束を守れるだけの力は、もう無い」


 秋瀬は手に視線を落とす。右手は無い。左手も震えていて刀を握れそうに無かった。Q8は震える秋瀬の手へと自らの手を添えた。温かな、吸血鬼とは思えない手だった。


「私も、どうすればいいのか分からない。もうオリジナルはいないんだ。私を生み出したのはコピーだった。ならば、私は何だ? 人間から吸血鬼のコピーに成り下がった私はどう生きればいい。秋瀬、いっそのことこの手錠のスイッチを入れてくれ、お願いだ。私には、もう生きる目的はない」


「それは、無理な相談だ」


 秋瀬は懐からスイッチを取り出し、押したがQ8が期待したようなことは何も起こらなかった。ランプの点滅が消え、手錠が外れる。屋上の床に手錠がガシャンと音を立てて転がる。


「これで、お前は自由だ。どこへでも行くといい」


 秋瀬はそう言って薄く笑みを浮かべた。これでいい。この吸血鬼には害意が無い。どうしてだか分からないが、今の秋瀬にはそれが分かった。秋瀬は視界が二重、三重にぶれて遠くなってゆくのを感じていた。もう、長くは無い。聖痕の過負荷か。それとも、これが吸血鬼もどきになってしまうことなのか。秋瀬が前に倒れこもうとすると、Q8はその身体を優しく抱きとめた。秋瀬が驚いていると、Q8は言葉を発した。


「自由なんて。私には重過ぎる」


「……そうか。すまない」


「秋瀬。お前、血のにおいが違うな。吸血鬼に、なったのか」


「みたいなものだ」


「ならば、一緒に逃げないか。誰も知らない場所に。オリジナルもコピーも、吸血鬼も、組織も関係無い場所へと――」


「無理だ。私が荷物になってしまう。Q8。君が言っていることさえ、私にはもうほとんど聞こえていないんだ。唇の動きでかろうじて何を言っているのか分かるが、それも限界に近い」


「なら、私はどう生きればいい」


 Q8が閉じた瞼から雫が頬に流れ落ちる。吸血鬼も泣くのか。いや、彼女は元々吸血鬼ではなかったか、と秋瀬は痛みを訴える頭で思いながら、Q8を見つめた。赤く濁った視界が閉じようとしている。もう瞼を開けているのも辛い。このまま闇の中に身を委ねたかったが、その前にやるべきことがあった。


「Q8。ひとつだけ、私は遣り残したことがある」


「何だ?」


 Q8が涙に濡れた顔を上げる。秋瀬はQ8の耳元へと顔を寄せ、それを言った。Q8は「そんな」と声を上げる。


「そんなことはできない。そんなことをすれば、お前が――」


「私はもういい。だが、君にならこれが頼めるんだ。一緒に生きることはできないが、これなら」


 Q8は僅かに目を伏せた後、秋瀬の服を皺が寄るほど握り締めた。


「後悔は無いんだな」


「ああ。もう充分だ。これを託せば、本当に」


「だが、私はお前に借りがある」


 Q8が秋瀬の身体を引き寄せる。驚く秋瀬の唇へとQ8はその唇を重ねた。暫時の沈黙を挟み、引き寄せた身体が離される。秋瀬は放心したように何も言わなかった。Q8は顔を上げ、


「これは私を信じてくれた分だ」


 秋瀬はQ8の言葉に笑みを浮かべた。Q8も柔らかく笑う。


 そういえば、と秋瀬は思い返す。大切な人を持つことも無かった。もし、最も守るべき人がひとりいたならば、また自分は違う選択を選んでいたかもしれない。


「じゃあ、いくぞ」


 Q8が秋瀬へと確認を取る。秋瀬は頷いた。


 Q8は口を開き、秋瀬の首筋へと歯を突き立てた。

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