堕ちた眷属
最強の吸血鬼Xとの死闘の末に辿り着いたのは……。
大門は床へと叩きつけられた。一瞬、呼吸ができなくなる。咳き込む大門の頭上からXが言葉を降りかけた。
「十三年前からこの街に潜伏していたのか。末端の狩人が殺したと聞いていたが、まさか生きていたとはな。あれほどの騒ぎと、我が眷属の名を地に落とす真似をしておいて、よくものうのうと生きていられたものだ」
Xの言葉の意味が大門には理解できなかった。だが、十三年前という言葉だけが大門の意識に上ってくる。それは自分が事故に――いや、正確には吸血鬼の巻き起こした虐殺に巻き込まれた時ではなかったか。その考えが纏る前に、Xが片手で大門の首を締め上げて持ち上げる。まるで万力のような力に大門は呼吸できずに酸素を求める魚のように口をパクパクとさせる。その様子を見たXが一瞬顔をしかめたかと思うと、銀色の筋が大門の首へと斜めに走った。大門がそれを認識した瞬間、首筋から鮮血が扇状に噴き出した。大門は呼吸困難と出血の痛みに声を上げようとするが、Xに首を掴まれているせいでそれもできない。
「醜いな。これが我が眷属か。貴様のせいでどれだけ貶められたと思っている。分かっているのか?」
Xが怒気を含んだ声で顔を近づけてくる。大門がそれに返す前に、Xは首から手を離し大門の身体を投げつけた。無防備な身体が血の跡を残しながら床を滑る。大門は咳き込んだが、首の筋肉を動かすと切られた頚動脈の痛みが増して結局まともに咳き込むことさえかなわなかった。
「十三年前だ。貴様がこの街へとやってきた。理由は分からない。血が足りなかったのか、それとも単純に嗜好を満足させるためかは。だが、貴様は無作為に人間を殺し、そして人間に殺された。そのことが我々の中でどれほどの波紋を生んだのか、知らないとは言わせないぞ。貴様も知っての通り、我々は吸血鬼の中でも始祖に近い。古代種だ。その古代種がただ単に嗜好で人殺しを行い、そして狩人に殺されたことがどれほど侮辱的なことか、貴様に分かるか!」
Xが大門の身体を蹴りつける。大門は意識がほとんど飛びそうになりながら、歯を食いしばってそれに耐える。だが、思考は靄がかかったようになっていった。血が足りないせいだろう。普通ならば死んでもおかしくない出血量を考えれば当然と言えた。Xが先ほどまでの冷静な様子とは打って変わった感情的な眼を横たわる大門へと向けてくる。大門は立ち上がろうとしたが、その前に首根っこを掴まれた。そのまま大門はずるずると引きずられてゆく。Xは大門を屋上の縁まで連れてくると、その身体を空中へと晒した。大門が足を揺らす。床は無い。Xが首から手を離せば地上へと真っ逆さまだ。いくら吸血鬼でも死ぬに違いない。眼前にXの顔があった。整ったその顔は怒りによって歪んでいる。
「あれから我らの一族は蔑みを受けた。どのような名か教えてやろうか。『堕ちた眷族』だ! 始祖に近い我らにしてみればこれ以上の侮辱は無い。そうだ。私はお前を捜してこの街へと来た。お前を殺すために。他の誰でもない、この私の手で殺すのだ。お前を。いや、我が兄を……!」
Xが首を締め上げる。出血と痛みで大門の意識がまさに消えかけた、その時、突如として空間を割る銃声が鳴り響いた。Xの肩が僅かに揺れる。Xは肩越しに屋上の扉へと振り返った。大門もぼやけた視界の中でそれを見る。そこには女がいた。大門がシンボルタワーに上る前に殺したはずの女だった。その赤い髪と切れ長の青い眼は見間違えようが無い。だが、なぜ生きているのか。その疑問を断じるように銃声が立て続けに二つ、鳴った。Xの身体が二、三度揺れたがXは大門から手を離すことはなかった。Xが怒りの霧散した、最初のような冷たい表情で扉にいる女を見据える。女は驚愕したように目を見開いた。Xは振り返り、大門を床に物でも捨てるように無造作に下ろした。大門は意識が消えるのを感じていた。玲子の家の地下室で黒服に撃たれた時と同じように意識が白い闇に呑まれてゆく。
大門はその闇に身を委ねた。
Q8は対象を確実に狙ったはずだった。
胸の中心にあるはずの第二の脳に弾丸は吸い込まれた。貫通もしたはずだ。だというのに、吸血鬼Xは生きている。生きて、誰だか分からない人間を掴む手を緩めずに肩越しにQ8を見やっている。Q8はもう一度よく狙って引き金を引いた。銃弾が立て続けに二発、もう一度第二の脳を狙って放つ。その二発も確かに命中した。
だが、Xは苦しげな顔を浮かべることも無く、また死ぬことなど無かった。Xは人間を床へと捨ててQ8へとゆっくりと歩み寄ってくる。Q8はもう一丁の銃をホルスターから抜き放ち、構えようとした。その時にはXの姿が眼前にあった。Xの冷たい顔が銃口を遮っている。Q8は咄嗟に引き金を引いた。だが、Xに命中することは無く、弾丸はむなしく空を切った。直後、Q8は背中から腹へと槌で叩きつけられたような衝撃を感じた。Q8の身体が屋上の床に転がる。Q8は吸血鬼独特の身のこなしですぐに立ち上がったが、目の前にはいつの間に接近したのか、Xが冷たい眼で見下ろしていた。それに気づく前に、Q8は首筋を掴まれた。銃をXの胸に向けて突きつける。Xは動じずに尋ねた。
「Q、ではないな。Qのコピーか。だが、あれもコピーだから同じことか」
「……気づいていたのか」
「私を嘗めてもらっては困るな。血のにおいでオリジナルかそうでないかくらいは分かる。あれは、見ていても道化だったよ。Gはそれでも信奉していたようだが、無駄なことだ。吸血鬼同士に色恋など」
Q8はXの胸へと銃弾を叩き込んだ。銃が何度も火を噴くが、Xは少し身体を揺らすだけで倒れることは無かった。
「……どうしてだ。お前は、何なんだ」
狼狽するQ8の首を掴む手に力を込め、Xは薄い笑みをその顔に浮かばせた。
「だから言っただろう。嘗めてもらっては困ると。狩人程度の武器で私を殺せると思ったのか? しかも、それは攻撃力がほとんど無いに等しい。いくら正確に急所を狙い撃とうが、私の胸に風穴ひとつ開けられはしない。私を殺したければ、第七世代の神託兵装でも持ってくるのだったな。尤も、それも持ったとしても貴様では私を殺せん。非力すぎる。所詮、劣化の劣化品か」
XがQ8の身体を扉側へと投げ捨てる。Q8は扉へと叩きつけられた。嫌な音と鋭い痛みが身体を突き抜ける。背骨が折れたかもしれない。Q8はその場に横たわった。Xは嘲笑すら浮かべながら、Q8を見つめる。
「弱い。弱いな、弱すぎる。なぜ、私を殺そうとした? そんな実力で。オリジナルを、いやあの道化を殺せたからか? 馬鹿馬鹿しいな。私は始祖に近い古代種だ。その程度で殺せるわけが無いだろう。Gとも、無論Jとも違う。貴様とは天と地ほどの差がある。そんな私に立ち向かうなど、愚か以外の言葉が見つからないな」
XはQ8へと歩み寄ろうとする。Q8は言葉を発しようとしたが、背中の痛みが呼吸を阻害して何も言うことができなかった。
「殺してやろう。貴様らは私に利用されるためだけにいる。利用価値が無くなれば、破棄すればいい」
Xが手刀を形作り、Q8へと一気に近づこうと身構えた。
その時、首筋にひやりとした冷たい感触が伝った。それに振り返る。肩越しに、獣がいた。赤い眼を煌々と輝かせ、口を裂けんばかりに開き、その上顎から発達したナイフのような犬歯が伸びている。
殺したはずの大門が、獣となってXへと喰らいついてきていた。Xがそれに気づいた時には遅く、大門の牙が首筋に深々と突き刺さった。
声を上げようとするが、喉を貫かれているせいでまともに声が出ない。Xは神託兵装の攻撃すら、避けるに値しないと思っていた。だからこそ、同族の吸血行為という原始的な攻撃には全く対処のしようがなかった。Xは振り払おうともがくが、首を串刺しにしている牙が抜けることは無い。その歯を伝って、自分の血が大門へと注がれていることに気づく。
「私の血を……!」
濁った声を発して、Xは大門の身体へと手刀を見舞った。下段から振るった一撃は大門の上半身の服を縦一文字に破り、そこから血飛沫が舞った。だが、それでも大門は喰らいついたまま離れない。ならば、とXは屋上の縁へと向かった。縁にこいつの身体を叩きつけて殺せばいい。そう考えたのだ。それに、もしもの時はこいつを道連れに落ちる。吸血行為で殺されるくらいならば、その方が名誉に思えた。Xは震える足で屋上の縁へと向かう。信じられないほどの速度で血が吸い取られているのが分かる。眷属の血のせいか、それとも大門自身の素質か。Xには判別がつかなかった。最早考えるのも億劫になっている。Xはふらつく身体を必死で持ち堪えさせながら、縁へと辿り着いた。眼下には人工の光がひしめいている。人間の中に落ちるのか。『堕ちた眷族』と蔑まれた先に、人間の光へと堕ちてゆくと言うのか。そのような思考が頭を過ぎった瞬間、Xは足がもう言うことを聞かないことに気づいた。足から力が抜け、その場に膝を崩す。大門は四足で立ち、首を銜え上げる。それは奇しくも、先ほどの大門とXの姿の対極だった。違うのは首を掴んでいるのは腕ではなく、大門の牙であるという点だけだ。Xは身体から力が抜けてゆくのを感じた。両手に視線を落とすと、手は砂漠の木のように干からびていた。
――私は最上の存在のはずだ。だというのに、なぜ。
その意識を大門は血液と共に啜った。残ったのは、始祖吸血鬼だというプライドさえも残らない、ただの乾いた物体だった。




