真実の扉
長いですが、この作品を左右する戦闘です。
耳に馴染んだ声でJが自分の名を呼ぶ。秋瀬は覚えずその言葉に返しかけて、違うと頭を振った。本物のロランはあの時に死んだ。吸血鬼の中には擬態能力を持つ個体もいると聞く。Jはロランに擬態して自分を惑わしているに過ぎない。秋瀬は剣を握る手に力を込めて、切っ先をJへと向けた。
「私の仲間を愚弄する気か、吸血鬼が。ロランは死んだ」
「死んでませんよ。死体は見つからなかったでしょう?」
確かにそうだ、と思う反面、そんなはずはないと理性が否定する。
「ロランは使い魔に押し潰されて死んだはずだ。そうでなければ、貴様がずっとロランを演じていたとでも言うのか」
「その通りですよ」
Jは手を広げ、教鞭を振るうように言った。それはロランが自分に説教する時の癖だったことを思い出す。
「いいですか、秋瀬さん。ロラン・ケーニッヒなんていう青年は初めから存在しないんですよ。全て僕、いや、俺が演じていた。このJが最初から脚本を組んで騙していたんだよ。安い三文芝居だったが、老人を騙すにはちょうどよかったみたい――」
ちり、と何かの擦れる音が響くと同時に秋瀬の姿が掻き消え、次の瞬間にはJの首筋へと剣が突きつけられていた。秋瀬が灰色の瞳に殺気を漲らせて叫ぶ。
「死者を愚弄するな! 貴様ら吸血鬼は、そうやって人間を見下してきたというのか。アルヴァ様の思いを、踏みにじったというのか。あの方は本気でロランに希望を託していたんだぞ!」
「……そういうのが迷惑だったんだよなぁ」
「何だと」
秋瀬の剣の切っ先が揺れる。Jは眼前に剣があることなど度外視したように肩を竦めて言った。
「理想の押し付けは迷惑なんだよ。俺は吸血鬼だ。人間より優れていて当然。だというのに、あの爺さんは金の卵に出会えたとでも言うようにロランを寵愛していたよ。普通の人間なら、あれは気持ち悪いぜ。だがまぁ、あんたはそうは思わなかったか。あんたは愛されたかったんだもんな。あんな老人に」
「黙れ!」
秋瀬の剣が空気を割る突きを放つ。だが、Jの首が断ち切られることはなく、そこから吸血鬼の姿は掻き消えていた。首を巡らせて姿を捜す前に、剣の先端に重量を感じて秋瀬は目を向けた。まるで綱渡りでもするかのように、Jが僅かな厚みしかない剣の上に立っていた。
「愛されることを知らず、人を愛することに惑う者。あんた哀れだぜ。だが、そんなことはいいんだ。俺はさ、秋瀬。使い魔の腹の中で決めたんだよ。もし生き残ったら秋瀬・コースト神父、あんたとは――敵同士だって」
Jがサングラスを掛けなおし、片手に握った刀を指揮棒でも上げるように軽やかに振り上げる。秋瀬が剣を払い上げる。Jは剣が払われる直前に刀身を蹴って、地面に着地した。重力や慣性を無視したような、まるで水面に水鳥が降り立つかのように静かに降り立ったJへと、秋瀬が走りこみ追撃の袈裟斬りを放つ。Jは反転しながら片手で振るっただけの刀でその一撃を弾いた。一瞬の剣戟だが、秋瀬は重い一撃を受けたように大きく仰け反った。Jの蹴りが秋瀬の鳩尾へと突き刺さる。秋瀬は咄嗟に腕で防御の姿勢を取ったが、それでも後退する結果になった。
「決着を焦るなよ、秋瀬。存分に愉しもうぜ」
Jが嗤いながら蛇のように舌を出して口にする。
「……誰が」
秋瀬は右耳へと手を伸ばした。吸血鬼を殺すには、聖痕を使うしかない。たとえそれがかつての仲間であっても。できるか、と迷ったのは一瞬だった。相手は吸血鬼だ。殺すつもりでやらなければやられる。
「すぐに終わらせてやる」
秋瀬は聖痕を押し込んだ。ちり、と何かの擦れる音が響き、脳髄が加速してゆく。思考がよりクリアになり、戦闘機械へと自身がつくり変わってゆくのが分かる。剣から重量というものが消え去り、身体の一部のように感じる。秋瀬は地面を蹴った。蹴ったという感触すらすぐ彼方へと消えてゆく。常人には秋瀬の姿が掻き消えたようにしか見えないだろう。剣を振り上げ、秋瀬はJへと肉迫する。しかし、Jはたじろぐこともましてや臆することなく、刀で秋瀬の放った一撃を受け止めた。
「あんまり吸血鬼を嘗めるなよ」
Jが刀を繰るように動かして、秋瀬の剣を弾いた。刀身が月光を反射するせいか、光の線が蛍のように移動しているように見える。秋瀬は後退しながら地面へと手をつき、指の力だけで再びJへと猛進する。Jが刀を真っ直ぐに振り下ろした。それを残像すら刻みながら紙一重で回避し、滑るように背後へと回り込んだ。剣を身体に密着させ、回転しつつ独楽の要領で斬ろうとする。だが、それは阻まれた。Jは刀を振り下ろすとほとんど同時に背後へと刀を回していたのである。秋瀬が背後からの攻撃を狙っていたことを予め分かっていなければできない芸当だった。Jが短く息を吐き、秋瀬の剣を弾く。刀はほとんど動かしていない。ただ押し出されただけに過ぎないというのに、秋瀬には壮絶な鍔迫り合いがあったかのように思えた。Jは指の間に刀の柄を挟み、軽々と手元で回転させると肩に担いだ。
「そんなもんかよ、秋瀬。一流の使い手なんだろ。それとも、僕は斬れませんか、秋瀬さん」
安い挑発だ。分かっていても秋瀬は思考が白熱化するのを止められなかった。再び聖痕を押し込む。景色が処理落ちしたかのようにスローモーションに見える。だが、その実は秋瀬の感覚が鋭くなりすぎていることに起因している。
雪の結晶が砕ける音がやたらに聞こえ、秋瀬は耳を塞ぎたい衝動に駆られながら雪をその身で砕きつつJへと駆けた。普通の人間ならば駆けたというよりも、空間を跳び越えたとしか思えない速度でJに迫る。Jは口元に笑みをはりつけたまま、刀を下段から振るった。秋瀬の剣とぶつかり合い、金属の音が残響する前に矢継ぎ早に繰り出された秋瀬の突きをJの刀が防いだ。防がれたと見るや、秋瀬は突きの状態から切っ先を斜めにしてそのまま振るい落とす。刀が僅かにぶれ、落ちたかに見えたがJはすぐに持ち直し、秋瀬へと下段から斜に切り上げる。秋瀬は咄嗟にJの身体へと拳を打ち込んだ。その反動で後方へと飛び退き、Jの凶刃から逃れる。
今度はJが刀を構えて秋瀬へと突き進んだ。雪の結晶が蒸発したように霧散する。秋瀬は剣でJの刀と切り結んだ。秋瀬の剣とJの刀が激しくぶつかり合い、火花が散った。Jの刀が秋瀬の首を落とそうと横薙ぎに振るわれる。秋瀬は剣でそれを防ぐと、真上へと跳び上がった。切り結ばれている部分を支点にして、秋瀬の身体が無重力空間のように上下逆さまに宙に浮く。Jがそれを眺めていると、空中からの秋瀬の蹴りの応酬がその視界を覆った。Jはすぐさま刀を振り上げ、秋瀬を斬ろうとするも秋瀬はJが刀を振り上げるのと同時に剣で弾いて距離を取っていた。秋瀬が立ち上がる。Jはサングラスを撫でた。サングラスに僅かながら皹が入っている。その皹をなぞるように触れてから、いやらしく嗤った。
「やるねぇ。さすがだぜ、秋瀬」
秋瀬はその言葉を切り捨てるように剣を振るった。雪が風圧で消し飛ぶと同時に、秋瀬の姿も掻き消える。Jはまだ何も現れていない真横へと刀を振るう。刹那、金属同士がぶつかる音が響き合い、その場に現れた秋瀬の剣がJの刀と反発しあうように何度か金属音を連ならせる。
秋瀬は剣を振るいJを押し出した。Jは後ずさりながら秋瀬の剣を漏らさず防ぐ。秋瀬が細やかな動きでJの刀を落とそうとする。だが、Jの刀は秋瀬の剣よりも速い。元々の武器自体の重量の差なのか、それとも技量の差か。刀はどこか舞い遊ぶように秋瀬の剣を悉く弾く。秋瀬が一歩、大きく踏み込む。脇に構えた剣を一閃させると、Jは後方に飛び退いた。と、その足が着地したところでたたらを踏んだ。Jが背後を肩越しに見やる。後方の景色は灰色の壁に閉ざされていた。ビルの壁まで追いやられたのだ。はめられた、と認識した時、秋瀬の姿は目の前にあった。秋瀬が両手で握った剣を上段へと振りかぶる。Jは背後の壁を手で触れた。
「終わりだ」
秋瀬が告げる。Jはこの危機的状況下ですら、にやりと笑みを浮かべた。
「普通ならな」
Jが触れていた手を拳に変え、思い切り壁面を殴りつけた。ガラスのように蜘蛛の巣状の皹が入りビルが揺れる。秋瀬が剣を振り下ろす。打ち下ろされるは圧倒的な速度を伴った殺人的な質量。普通の人間ならば真っ二つに断ち割っていたであろうそれをJは何でも無いことのように半身になって回避した。壁面へとその一撃が食い込む。蜘蛛の巣状に広がった皹によって与えられた衝撃の糸口は、秋瀬の攻撃によって決定的なものとなった。すでにJによって衝撃を加えられ、脆くなっていたビルはその一撃によって崩れ去った。崩落したビルの壁面が秋瀬へと降り注ぐ。
Jは崩れゆくビルへと飛び込んだ。粉塵の中に隠れようというのだろう。秋瀬は聖痕を押し込み、それを追った。砂埃が舞っているというのに、視界は通常時よりもよく見える。まだ空中にある瓦礫を足場にしてJが逃げる。秋瀬も瓦礫を踏み台にして、Jへと跳んだ。斜めの一閃をJへと叩き込もうとする。振り返ったJが刀を横薙ぎに振るい、秋瀬の攻撃を防いだ。Jが足場を蹴り、また中空に躍り出る。視界を覆う土煙を剣閃で振り払い、秋瀬はJへと迫る。暗く垂れ込めた雲の下で、Jが口角を吊り上げて嗤った。秋瀬は狩人の鉄面皮のまま、Jへと下段からの突き上げを見舞う。刀でそれを受けたJは秋瀬と空中でもつれ合った。
「不思議に思わないのか?」
Jが不意に放った言葉に秋瀬は「何?」と返す。
「吸血鬼相手にこれほどまでに渡り合えることがだ。いくら無敵の聖痕とはいえ、それはお前らには明かされていない未知の技術が使われている。そのことに対して何の疑問も持たなかったのか? どうして吸血鬼と同等の能力を人間が得ることができるのか」
「何が、言いたい!」
呼気一閃で放った一太刀をJは刀で弾き返す。Jは隣のビルの屋上へと降り立った。その後に続いて秋瀬が剣を振り下ろして追いつく。秋瀬の剣と体重を受け止めた屋上の床が捲れ上がり、粉塵が舞った。Jが床を蹴り、さらに隣のビルへと渡る。秋瀬は剣を構えてそれを追いかけた。Jは振り返って愉しむように言った。
「お前らは俺らと同じだってことだよ、秋瀬。組織の駒なんだ」
「どういう、意味だ」
貯水槽のパイプを秋瀬の剣が断ち切る。水の壁の向こうでJが笑みを浮かべて立ち止まった。
「お前らは吸血鬼を狩る組織のトップは当然、人間だと思っているだろ」
「当たり前だ。我々は吸血鬼に憎しみを抱いている。人間でないはずがない」
「そこが間違いなんだよ、秋瀬。こう考えられはしないか。吸血鬼の組織が存在したとする。その組織はしかし、磐石ではない。ルールを破る不届き者がいる。それを狩るのが全ての始まりだった、というのは」
「馬鹿な。そんなことが――」
「あるはずがない、と思い込むのは勝手だ。お前らは人間の尺度でしか物事を考えないからな。万物の中心には人間がいて、それが全ての現象をコントロールしていると思い込む。もっと頭を柔らかくしろよ」
Jが自身の側頭部を指で突く。秋瀬は水の壁を剣で斬り、Jへと踏み込んだ。だが、Jはまた隣のビルへと飛び移る。秋瀬はJへと突きを放った。Jは軽い身のこなしでそれを避けながら、世間話のように言葉を続ける。
「さっきの話の続きだ。吸血鬼の組織があり、それは裏切り者を討伐していた。だが吸血鬼同士で殺し合うのは消耗が激しい。不毛だと気づいたのさ。ただでさえ少ない自分達の数が減る。ならば、どうすればいいか。簡単な話さ。この地球上で数が多く、自分達に次いで知恵のある生命体にやらせればいい」
「我々が、吸血鬼の代わりだと言いたいのか」
そんなことがあるはずがない。秋瀬は感情を発露するように剣を力強く振るう。Jは嘲笑うかのように秋瀬の渾身の一撃を、身を捻っただけで避ける。
「ああ。いわば代理さ。お前らだって裏切り者の吸血鬼には恨みがある。俺達は知っていたのさ。憎しみが人間の最大の原動力だということを。組織は人間に武器を与え、そして自分達に匹敵するだけの力を与えた。細胞の再生能力を無効化する武器、神託兵装。そして一時的に脳の処理能力向上と筋肉のリミッターを外す機能、聖痕。この二つが人間に与えられた」
「……黙れ」
「だがいつしか人間は勘違いを始めた。自分達人間こそがそれに自力で辿り着いたんだと思い込んだんだ。組織も人間のものだと思っていたようだが、実のところは吸血鬼が動かしていたのさ。だが、誰もそれに気づかない。視野の狭くなった人間っていうのは恐ろしいもんだ。他者の叡智ですら、自分のものだと誤認する」
「黙れ!」
秋瀬の剣がJの喉笛を貫こうと迫る。Jは刀で弾き、ビルから今度は地表へと跳んだ。秋瀬もそれを上空から追いすがる。秋瀬が剣を振りかぶり、Jを押し込むようにそれを振り下ろした。Jが刀でそれを受け止める。
「だったら、我々はお前らの掌の上で踊らされていたということなのか。我々の憎しみも怒りも、哀しみも全てお前らの意のままに操られていたということだというのか!」
秋瀬の剣の圧力をそのままにしたような鋭い叫びにも、Jは怯むことなく笑みを浮かべる。
「全てではないさ。それ以上だよ、秋瀬。俺達が思った以上にお前らは働いてくれた。憎悪を詰め込まれた人間は我々の想像以上だった。聖痕を使いこなし、俺と同等の力で戦っているのがその証拠だよ」
Jが刀で秋瀬の剣を弾き、長い足による回し蹴りを秋瀬の横腹に叩き込んだ。秋瀬の集中が一瞬ぶれる。Jがコートをはためかせながら着地し、すぐに地面を蹴って道の真ん中へと飛び退いた。その反射速度が思ったよりも速く、秋瀬は剣を振るうがすでにJは道の真ん中で刀を振り回してそれを肩に担いだ。
「あんたと似たような人間は今までに少なからずいた。俺達の存在に気づき、俺達の支配から逃れようとした人間が。聖痕を持った人間っていうのは厄介でな、秋瀬。討伐に向かわせた吸血鬼が返り討ちに遭うこともしばしばだったらしい。だが、そいつらはもういない。死んだんだ。どうしてだか分かるか?」
Jの声がまるでフィルターをかけたようにぼんやりと聞こえる。秋瀬は視界がぼやけるのを感じ、額の汗を拭おうとした。だが、拭っても視界は靄がかかったように曖昧になってゆく。
「……知らんな。私はお前の冗談に付き合う気分じゃない」
搾り出した声にJが声を上げて笑った。
「冗談なんかじゃねぇぜ。これはあんたにとっちゃ重要な問題だ。教えてやるよ、秋瀬。まず聖痕の種明かしからだ。聖痕っていうのは機械的なインプラントだと思っているだろうが、実は微妙に違うんだよ。どう違うと思う?」
秋瀬はJとの無益な話を無視して、剣を下段に構えJへと迫ろうとした。だが、その時になって足が動かないことに気づく。聖痕の限界時間が来たのだろう。だが、ここで負けるわけにはいかない。秋瀬は奥歯を食いしばって、聖痕を押し込んだ。ちり、と何かの擦れる音が響き、秋瀬の姿は一瞬でJの前へと現れる。空間を飛び越えたとしか思えないその動きからの一撃を、Jは何のことも無いように刀で受け止めた。
「遅いぜ」
Jの声に目を見開いた瞬間、秋瀬の鳩尾へと重い鉄球の一撃が加えられた。衝撃を受けた身体が後方へと反射的に飛び退く。Jがピンと足を伸ばして立っていた。ようやく蹴られたのだと認識した途端、痛みが輪のように広がり秋瀬はその場に膝をついた。
「質問には答えろよ、秋瀬。聖痕は機械的なものじゃない。じゃあ、何だと思う?」
「……知ったことか」
吐き捨てるように放った言葉に、Jは呆れたように息をついた。
「答えになってねぇが、いいとしようか。順を追って説明してやるよ。狩人になるために、その人間は身体の一部を落とされ、代わりに聖痕を埋め込まれる。だが、その前段階というものがある。それはある臓器を移植するんだ。お前らの言葉で置き換えるなら、それは『第二の脳』と言えば分かりやすいか?」
秋瀬は突然に脳裏で閃くものを感じて、Jを見つめた。霞んだ視界はさらに悪くなり、端から腐ったように歪み始めていた。その霧のような景色の中で、吸血鬼が嗤う。
「移植された第二の脳はただし普段は活動することはない。それが動くのは、聖痕を発動させた時だ。つまるところ、聖痕は第二の脳を起動させるためのスイッチと言うわけ――」
Jが言葉を中断して刀を振るう。何も無い空間に向けて放たれたように見えた一閃は、すぐに何かとぶつかり激しい金属音を響かせた。秋瀬が肩を荒立たせながら、さらに一撃を加えようと身体を捻る。Jが口角を吊り上げながら反転してその一撃を払いのけた。秋瀬は剣をもう一度振るおうとするが、ふと息苦しさを覚えて剣をその場に突き立てて息を整える。おかしい。この程度で息が上がるはずがないのに。
Jは攻撃せずに、秋瀬を見下ろして言葉を続ける。
「話は最後まで聞くもんだ。第二の脳は聖痕発動をキーにして、人間とは違う特殊な血液を全身に循環させる。その瞬間に、人間には何かが擦れる音が聞こえるらしい。俺らには逆に聞こえないが、それはファンタジックな言い方をするならば、魂の磨り減る音なのかもしれないな。まぁ、そんなことはどうでもいいんだ。秋瀬、つまるところお前らっていうのはさ、吸血鬼の劣化版なんだよ」
耳元まで屈んできてJがその言葉を告げる。秋瀬は剣を振り上げた。当然、吸血鬼相手に俄かの奇襲が通じるはずも無くJは既に秋瀬から距離を取っている。秋瀬は聖痕を押そうとして、躊躇った。今の話を信じたわけではない。だが、信じるも何も……。
「認めろよ、秋瀬。これだけ聖痕を連続で使用したんだ。お前にもその兆候が現れているはずだぜ」
Jの声が水の中で聞いたように不定形になって意味を成さない言葉の羅列になる。秋瀬は顔を上げてJを見据えようとするが、その視界が赤く濁っていることに気づいた。赤い泥の中に沈んでいるように身体が重い。聖痕へと伸ばした手をだらんと垂らす。手に力が入らない。神経が遊離しているかのように自分では掴めない。秋瀬は剣を地面に突き刺して、かろうじてそれだけは離さないようにしたが、掴んでいる感覚がなかった。剣を杖のように用いながら、立ち上がろうとしてふとショウウィンドウに目がゆく。そこには眼を赤くぎらつかせた黒衣の人間が映っていた。あれは誰だ? 逃避のための問いかけもむなしく、鈍っていても脳が瞬時に理解する。
あれは自分自身だ。聖痕と言う名の、吸血鬼の力を行使し続けた己の行き着いた姿だ。
「気づいたようだな。もうお前は、元の生活には戻れない」
Jの声が耳にこびりつく。秋瀬はその場に膝をついて崩れ落ちた。もう人間だった頃には、何も知らなかった頃には戻れない。この手で誰かを救うこともできなければ、誰かを抱き締めることもできない。自分は吸血鬼と同じ、いやそれよりも醜い、ただ吸血鬼と同等の力を持つ戦うだけの存在になってしまった。思考が鈍化してゆく。もう何も考えられない。Jが先ほど言っていた聖痕を使い続けた人々の末路が分かった気がした。彼らは思考を放棄し、戦うだけの存在となった。本能をむき出しにしたその存在はそれでも捨てられない自己という存在に苦悩し、自ら死を選んだ。きっとそれが真実なのだろう。
「終わりだよ、お前。吸血鬼に、いやそれよりも性質の悪い化け物になったんだ。せめて、俺が終わらせてやるよ」
Jがゆっくりと一歩一歩近づく。凍った路面に足音が響く。だが秋瀬の聴覚はその音を間延びして捉えていた。聴覚はもうまともに働かない。視覚も赤く濁って使い物にならない。思考も毒されたように歪んで消えてゆく。秋瀬は目を閉じようとした。何もできなかった、そんな自分に恥じ入るように自身の内面へと埋没してゆく。
その時、声が弾けた。
――秋瀬。
その声は知っている。知っている声だ。誰だ、と記憶の暗闇を探る。その中に一筋の光が視えた。その光を残った思考で掴み取る。すると、景色が拓けその中に佇む少女が映った。レナだった。レナが涙を浮かべながら秋瀬へと語りかける。
――秋瀬。行ってらっしゃい。
そうだ、レナはそう言ってくれた。もう帰る場所など無いと思っていた自分に僅かに希望を持たせてくれた。
レナの姿が消え、Q8の顔が現れる。相変わらず無表情で何を考えているのか分からなかったが、その口調には温もりがあった。
――死ぬなよ。私との契約を、反故にさせるわけにはいかないからな。
そうだ、まだ……。
Jが秋瀬の傍らに立ち、刀を秋瀬の首筋目掛けて振り下ろした。確実に首を落としたとJは感じていた。その口元には愉悦の笑みがある。
その時、その悦楽を遮るように鋭い金属音が響き渡った。Jが全く予期していなかった衝撃によろめく。その隙をつくように、黒色の閃きがJの身体へと襲い掛かった。Jの姿が掻き消える。一瞬のうちにJは十メートルほど先の道の真ん中に立っていた。肩を上下させ白い息を漏らす。その手が胸元を押さえていた。胸元部分が斬られて、斜め一閃の傷から血が滲み出している。
秋瀬は剣を振り上げたまま、立ち上がった。
「……ねない」
秋瀬が口中で呟く。Jは刀を握り締める。今度ははっきりと、Jに聞こえるように口にした。
「まだ、死ねない」
秋瀬が顔を上げる。その眼は赤く染まっていた。吸血鬼の赤い目、だがまだ理性を残している。赤く刃のような眼差しがJを睨み据える。Jはその眼にたじろぐように舌打ちを漏らし、刀を振り上げた。
その姿が一瞬で闇の中に掻き消える。秋瀬は聖痕へと手をやった。まだ死ぬつもりはない。生きるためにこの力を使う。聖痕を押し込む。ちり、と何かの擦れる音が響くと秋瀬の姿も消え、一瞬のうちに秋瀬とJは道の中間地点で刃を交えていた。緑色のサングラスに隠された眼と、秋瀬の赤い双眸が交錯する。
「諦めろよ、秋瀬。もう、戻れねぇんだよ!」
「私は、諦めない」
ふたりの姿が再び消える。秋瀬とJは空中に躍り上がり、切り結んでいた。秋瀬の剣がJの刀を弾く。秋瀬が拳を突き出し、Jの胸の傷へと叩き込んだ。Jが押し出され、地面を滑る。秋瀬の姿がまたも消え、Jの眼前にあった。Jは口元に笑みを浮かべて、刀を下段から振り上げる。秋瀬の剣がそれを受け止めると、秋瀬は身体を反転させてJの一撃を受け流し、Jの背後へと回り込んだ。Jが気づいて地面を蹴りつける。コンクリートが捲れ上がり、扇状に埃が舞い上がる。秋瀬は粉塵の中のJへと突きを放った。Jは蹴りつけると同時に飛び退いており、ビルの壁面を足場にして体勢を屈め、秋瀬へと刀を突き出して飛び込んだ。秋瀬も対を成すように切っ先を真っ直ぐに向けて両手で柄を握りJへと跳躍する。
二つの影が重なり合うかに見えた瞬間、青い火花が散りふたりの姿を闇の中に浮かび上がらせる。秋瀬の剣がJの刀の切っ先とぶつかり合い、鋭い切っ先が双方の身体に突き刺さると思われた刹那、ふたりは同時に空中で回転しお互いを蹴りつけた。鈍い音が発し、磁石が反発しあうようにふたりは対面となっているビルの壁面へと勢いよく衝突した。窓が割れ、吸血鬼の支配する夜では用を成さない警報装置がけたたましく鳴り響く。
秋瀬は机を巻き込む形で倒れつつも、剣を突き刺して制動をかけ体勢を立て直し、オフィスを滑りながら静止した。無数のコンピュータや、書類が巻き上がり床へと音を立てて崩れる。反対側のビルからもうもうと粉塵が舞っている。Jは、吸血鬼はこの程度では死なない。まだ仕留めるには至っていないことを反射的に感じた秋瀬はオフィスから走り込み、今しがた入って来た窓から再度空中へと跳んだ。直後、対面のビルから粉塵を割って何かが飛び出してきた。秋瀬は剣を翳してそれを受け止める。Jだった。鋭い刀の一閃を受け止められたJは口を開く。
「秋瀬。お前の反応速度はもう吸血鬼のそれと同等だ。いくら口では否定したってな、お前はもう吸血鬼もどきなんだよ」
「私は、人間だ!」
呼気一閃で放った剣でJを地面へと叩き落とす。Jは背中から落ちるように見えたが、地面が迫った直前で重力を無視したように空中で宙返りをして着地した。コンクリートの地面が落下の衝撃で捲れ上がる。秋瀬は空気の壁を蹴りつけ、直上からJへと弾丸のように肉迫した。Jは刀を斜めに構え、秋瀬の剣を受け止めた。衝撃波が秋瀬とJを中心にして同心円状に巻き起こり、制御できない嵐となって近隣のビルの窓を叩き割った。受け止めたJの立っている地面が円形に割れて砂煙が上がる。その砂煙も、秋瀬が降り立った後に放った一撃によって一瞬で吹き飛ばされた。
Jの刀が弾き上がり、大きく後退する。秋瀬は剣を正眼に構えて呼吸を整えようとして、その必要がないことに気づいた。視界は赤く濁っているが、反射神経はこれまでに無いほどに研ぎ澄まされている。身体機能も高まり、これほど動いているというのに鼓動は驚くほど静かだった。Jが刀を見やり、舌打ちをして振った。
「駄目だな。これ以上は、神託兵装が持たない」
相変わらず空気の膜を裂くような秀作には変わりなかったが、秋瀬はその音が僅かに鈍っているのを感じた。刃毀れしているのだ。そう思った瞬間、自分の神託兵装にも視線を落とす。秋瀬の剣も皹が入り、Jの刀よりも刃毀れは酷い。限界が近いのは明白だった。Jは切っ先を秋瀬へと突きつける。
「もう遊んでいられなくなった。名残惜しいが、ここで終わりにしようか。なに、もうその状態までなったのなら痛みなんて感じねぇよ。一瞬でカタがつく」
「それは、こちらの台詞だ」
秋瀬も剣を突きつける。Jは口角を吊り上げて、笑みを形作った。
「決着だ、秋瀬。俺はこれから最後の手段に打って出る。お前も知っているだろうが、吸血鬼には二種類あってな。古代種と派生種だ。この二つを分けるのは再生能力と、身体機能だとお前らは思っているだろうが、厳密には違う。確かに派生種は再生能力と身体能力においては古代種には遠く及ばない。だが派生種にはな、一時的に古代種と同等まで身体能力を高められる個体が存在する。俺がそれだよ、秋瀬。だが、こいつは諸刃の剣でな。身体能力が一時的に古代種並みになる代わりに、その後一週間は基本的な能力全てが大幅に下がる。太陽から身を守るのも一苦労になるわけさ。だから、俺がこいつを使うって言うことはだ、確実に殺すと決めたときだけなんだよ」
Jが刀に指を這わせる。まるで刀を研ぐように、切っ先から鍔へと細長く白い指がなぞりJは息を吐き出した。集中を高めるような、細く長い息。それを吐き終えた瞬間、サングラス越しでもそれと分かるほどに眼が赤く光った。秋瀬は一瞬怯んだのを感じた。生物の根源的な部分が、関わってはならないと告げる。だが、秋瀬はそれを無視して身体を沈みこませて、Jの出方を窺った。Jの白磁のように白い指先が刀に触れる。
瞬間、刀の黒色を移したようにその指先から砂鉄の如く黒に染まっていった。それは指先から手を覆い、首筋へと至る。その途中、先ほど秋瀬がつけた傷も消えた。黒い表皮がJの顔へと細菌のように広がってゆく。唇と鼻がマスクのように閉じられ、冷たい風になびく金髪が一瞬にして長い黒髪になった。唐突な変化に普通の人間ならば呆然とするだろうが、秋瀬はより集中を高めた。何かが仕掛けられようとしている。ならば、気を抜いている暇は無い。全身を覆う黒い装甲。吸血鬼の能力のひとつ、硬化能力を使っている。だが、それでも秋瀬は打ち破れる自信があった。今ならば、どれだけ硬い皮膚でも一撃で破れる。それに応じるように、身じろぎすると筋肉が軋む音が聞こえた。
「秋瀬。誤解してもらっちゃ困るが、硬化能力が俺の最たるものじゃない。あくまでこれは付随物だ。これから繰り出す技のためのな」
黒い表皮のマスクの下でJが嗤った気がした。秋瀬は剣を構える。構えは正眼、今までで一番多く使った身に馴染んだ型。Jが刀の切っ先を秋瀬に向け、指先でその刀身を鍔へとなぞる。打突の構えか、と秋瀬が思った直後、Jの指が刀の鍔を握り潰した。何なのか、秋瀬が理解する前にJは潰した鍔の欠片を無造作に投げ捨てた。
「鍔は邪魔だ。空気抵抗が起こるからな。どうせ砕けるだろうから、ついでに壊したまでさ。まぁ、そんなことはいいんだ。――いくぜ、秋瀬」
そう言葉を結んだ瞬間、黒くなったJの皮膚がハリネズミの皮膚のように刺々しく毛羽立った。それを見た秋瀬の集中が乱れた、その刹那、Jの姿が文字通り気配ごと掻き消えていた。秋瀬が聖痕を押し込もうとする。その手を何者かが突然掴んだ。秋瀬がそちらへと目を投じる。
そこにいたのはJだった。いや、Jの姿をしているのだが正しく認識できない。実体感がまるで伴っていない。まるで影に腕を掴まれた心地だった。だが、秋瀬の手を掴む感触は確かなものだ。秋瀬は片手で鋭い突きをJへと打ち込んだ。吸い込まれるようにJの腹部へと剣が突き刺さり、そのまま背中へと切っ先が飛び出した。指先に手ごたえを感じる。Jの身体が刺された部分を中心に折れ曲がる。確かに殺した。だというのに――。
「遅いぜ、秋瀬」
その声がなぜ耳元に聞こえるのか。振り返る前に空気を裂くような細い音に、秋瀬は反射的に飛び退いていた。先ほどまで秋瀬の胴があった場所を銀色の閃光が切り裂く。秋瀬が空中でそれを見る。だが、そこには光の軌跡だけで、何もいない。地面に降り立つのと、次の光が見えたのはほぼ同時だった。眉間を刺し貫くような菱形の光。秋瀬は咄嗟に身体を反り返らせ、その光を避けた。光がピタリと止まり、それがそのまま線となって秋瀬へと落ちてくる。
秋瀬は剣でその光の線を受け止めた。弾かれ合う音が響いたのも一瞬、光はすぐに位相を変え、秋瀬の脇腹へと下段から襲い掛かった。素早く剣を返してそれを防ぐが、それすらもまるで意味がないというように光は舞い踊る。まるで蛍火のようだ。光の一端だけが生きているように秋瀬を襲う。秋瀬は何が起こっているのか分からずに、ただその光を剣で受け止め続けた。一瞬だけ剣越しに伝わってくる確かな殺意。これは危険な光だと秋瀬の本能が告げる。光を弾き、剣を打ち下ろす。アスファルトが捲れ上がるが、何かを斬った感触は無い。すぐに剣を構え直そうとする秋瀬の脇腹を衝撃が見舞った。秋瀬はビルの壁へと背中から叩きつけられる。肺が一時的に呼吸を忘れて、秋瀬は咳き込んだ。
「速過ぎて見えないか?」
秋瀬はその声へと目を向ける。だがどこから聞こえてくるのかまるで掴めない。秋瀬は聖痕へと手を伸ばす。その手を何かが掴み、捻り上げた。光が開いた手へと照準を定めると、その掌へと光が突き刺さった。手の甲を突き抜け、壁へと手が固定される。その時になって秋瀬にはようやく光の元が何なのか視えた。それは刀の切っ先だ。今や、手が刺し貫かれ刀身を血が伝っている。
「見せてやるよ、秋瀬」
その声で目の前の景色が歪んだ。そこに現れたのは黒色の表皮を持つJだった。その手に握られた刀は秋瀬の手を貫いている。
「これが古代種の力だ。これほど速い奴らとやりあうのは無理だろ? 残像すら追えないもんな。聖痕を使っていてもよ」
Jが刀を捻った。最早痛みは感じなかったが、それでも貫かれた手に孔が開いてゆく感触だけがまざまざと分かる。Jが秋瀬へと顔を近づける。黒色のマスクの下の顔が嗤っているのを秋瀬は感じた。
「諦めろよ。こうなった俺を倒す術は無い。このままバラバラにしてやるよ。あんただって分からなけりゃ、教会のガキ共も悲しまないだろ?」
その言葉に秋瀬の脳裏にレナの姿が浮かんだ。ついで教会の他の子供達の姿も。まだ、死ねない。そう決めたはずだ。だから――。
「お前を、このままでは倒せないんだったな」
秋瀬が俯いて言葉を発する。Jは秋瀬の右手を潰すのを愉しむように刀を捻りながら、「ああ」と頷いた。
「そうだな。だが、どうあっても同じだ。このままだろうが、これ以上だろうが関係無い。秋瀬、お前はもう全ての手を尽くした。俺にはもう勝てねぇよ。剣を手離して聖痕を押そうとしても無駄だぜ。その前に俺は剣を手の届かない場所まで蹴り飛ばして、あんたをじっくりと八つ裂きにすればいいだけの話だ。どこから切り落として欲しい? できるだけご期待に添えるが」
「そうか。ならば――」
秋瀬は顔を上げる。その赤い眼には確かな覚悟が宿っていた。その眼に一瞬気圧されたように、Jはたじろいだ。その一瞬、
「私は、この手を捨てる」
秋瀬の剣が振り上げられ、壁に固定されている右手を手首から切り落とした。さすがのJもそれを予期していなかったのか、狼狽したように秋瀬の手を貫いたままの刀と秋瀬を交互に見る。その身体へと、秋瀬は飛び込んだ。Jが再び高速戦闘のために姿を消そうとするが、その前に秋瀬の剣はJの右腕を肩口から斬った。右腕が地面へと落下する。Jは肩から大量に出血した。鮮血が白く染まった地面を濡らす。秋瀬は剣を振るって血を落としてから、もう一度Jを斬りつけた。だが、Jの姿はその場から掻き消える。再び見えなくなり、僅かな光だけがJを示すものになる。だが、その光を見つけたが最後、秋瀬はまた貫かれるだろう。しかも、今度はまどろっこしい手など狙わずに心臓を突いてくるに違いない。秋瀬は周囲を見渡した。白く舞い落ちる雪の断片の中、赤い血が僅かに地面へと落ちる。点に過ぎなかったそれが、獣が襲い掛かるように秋瀬へと真っ直ぐに線となって駆けてくる。
秋瀬は剣を振り上げ叫んだ。
「遅い!」
真っ直ぐに剣を打ち下ろすのと、秋瀬の肩口へと刀が突き刺さるのは同時だった。Jの身体には頭部から縦一文字に傷が走っていた。サングラスは断ち割られている。秋瀬が動かずに黙していると、Jがくくくと嗤った。
「血の跡でばれたか。さすがだな、秋瀬」
「なぜ真正面から向かってきた。背後や空中からでも私を殺すことはできたはずだ。なのに、なぜ」
黒い表皮がガラスのように割れ、Jは口から血を吐いた。
「最後は真っ向勝負したかったんだよ。言ったはずだぜ、秋瀬。俺達は敵同士だ。しかもどちらかが死ぬまで終わらない宿敵。なら、最後は真正面から殺しにかかるのが、少しの間だけでもペアを組んだ筋だと思ったんだよ」
「……ペア、か。あれは、演技ではなかったのか」
「ロラン・ケーニッヒなんていう人間はいなかった。これは確かだ。だがな、吸血鬼Jは確かにお前と行動を共にしていた。悪い気は、しなかったんだよ。きっと、それが求めているものだったんだろうな」
求めているものがある、とロランが言っていたことを思い出す。あれは、本心だったのか。それを探ろうとしても、Jはニヒルに笑うばかりだった。
Jの手が刀から離れる。恐らくは能力の負荷だったのだろう。それとも派生種だからか。Jは今までの力が嘘のように白銀の地面に仰向けに倒れた。唇の端から血が流れ落ちる。その薄い色素を含んだ唇が白い息を吐き出して動いた。
「殺せよ、秋瀬。吸血鬼の殺し方は知っているだろ。第二の脳を破壊するんだ。俺の第二の脳はここだ」
Jが胸の中心を指す。秋瀬が静かに見下ろしている。Jはニヒルな笑みを浮かべて、「間違えんなよ」と言った。
「ああ。間違えないさ」
秋瀬はそう口にして、切っ先をJの胸の中心に向けた。Jは死の淵にいる今になっても、まだ余裕の笑みを崩さない。
「こんな状況になっても考えちまうもんなんだな。使い魔の腹の中で思ったのと同じに。なぁ、秋瀬。もし、生まれ変わりみたいなのがあるとすれば、俺達はまた敵同士か?」
その言葉に秋瀬は首を横に振った。
「いや、今度はきっといいペアになるだろう」
「お前の口からそんな言葉が聞けるとはな。吸血鬼Jの人生も捨てたもんじゃないってことか」
皮肉めいた笑いを浮かべるJへと秋瀬は笑い返そうとして、それが果たせないことに気づいた。いつからか、秋瀬の頬を涙の雫が伝っていた。
「お前は吸血鬼だ」
「ああ」
「私はお前が憎い」
「ああ」
「……だが、お前とはいいペアでありたいと思っていた。仲間だと思っていたんだ」
その言葉にはJは何も返さなかった。割れたサングラスがずれ、片目が秋瀬を捉える。その眼は赤かったが、ロランの時と同じものだった。秋瀬は柄を握る手に覚悟の力を込める。
「ロラン、お前を殺す」
「ああ」
Jは訂正せずに、頷いた。
秋瀬は剣を振り下ろした。
剣が根元から砕けて、欠片がJの衣服へと落ちる。
その黒い欠片は、最初からその衣服の断片だったように馴染んだせいで気づかなかった。尤も、今の秋瀬にはそれに気づけるだけの視界が無い。秋瀬は赤く濁った視界を消し去るように、目元を拭った。だが、赤い視界が消えることはない。それどころか余計に歪んできている。あまり時間は無い。秋瀬は肩に突き刺さった刀の刀身を握る。掌が切れて血が滴ったが、構わず一息に引き抜いた。秋瀬は内ポケットにいざという時のために入れてある包帯で失った片手に荒々しく巻きつけて止血する。これで出血多量ですぐに死ぬということは無さそうだったが、それでも時間の問題だろう。聖痕を酷使した以上、猶予は残されていない。刀にも包帯を巻きつけ、秋瀬はこの街のシンボルタワーを仰いだ。雪の結晶が舞い散る中、墓石とあだ名される黒い鉄塔は静寂を保っているように見える。だが、今の秋瀬には一見静謐があるように見えるその場所こそが、混乱の夜に陥れた原因であることが分かった。聖痕の使用で感覚が鋭敏化したせいか、それとも吸血鬼に自分が近づいたせいか。どちらかは分からない。だが、秋瀬はつい先ほどまで気づかなかった自分を恥じた。
「……あの場所にいる、全てが。私は、決着をつける。アルヴァ様、ロラン。どうか私の戦いを最後まで見守って欲しい」
秋瀬は刀を左手から提げ、混迷の夜の根源へと静かに足を進めた。




