振るう刃
久しぶりに戦闘シーンです。
熱波が舞い落ちる雪を溶かし、獣の如く呻る車輪が銀色の路面を踏み潰してゆく。
漆黒の車体がイルミネーションを引き伸ばして反射し、その身に色を宿す。しかし、その色は塗られた瞬間から剥がれ落ちてゆく水彩絵の具のように、すぐに後方へと過ぎ去っていった。
秋瀬はそれほどの速度でバイクを走らせていた。街に辿り着いてすぐ、秋瀬は頭蓋を割るような〝声〟が鼓膜の中に残響するのを感じていた。
「何だ? この音は」
「Qに造られた吸血鬼の〝声〟だ」
後ろで跨ったQ8が秋瀬の言葉に応えた。
「お前は片耳だから少しは負荷が少ないだろうが、この〝声〟は危険だ。路肩に倒れている人間が見えるだろう?」
その声に秋瀬は路肩へと目をやった。確かに、そこらかしこに倒れている人間が見えた。誰もがうつ伏せに倒れており、中には道路の中心で倒れている者もいる。ショウウィンドウや、街頭に出されているテレビも罅割れ、砂嵐を映しこんでいる。明らかに尋常な光景ではなかった。
「〝声〟の影響だ。ある一定の波長を連続して流すことで、人間の脳に負荷を与え、行動を不可能にする。お前らのような訓練を受けた人間ならいざ知らず、普通の人間は卒倒するだろう。加えて電波障害の機能もあるようだ。恐らく、大方の通信網は利かないだろうな」
Q8の冷静な声に、秋瀬は僅かにQ8を見やって尋ねた。
「どうしてそこまで分かる? 〝声〟とやらが、お前らには感じられるのか?」
「ああ。だが、それだけじゃない。この〝声〟は私と同じ奴らの声だ」
その言葉に秋瀬は沈黙した。確かにQ8は「Qに造られた吸血鬼の〝声〟」だと言った。ならば、自分と同じものが多数存在する気分とはどのようなものなのだろうか。所詮人間である自分に彼らの感情を推し量ることはできない。いや、彼らに感情があることすらQ8を見るまでは想像したことすらなかった。Q8は他の吸血鬼とは違う。その予感めいた感情に確信はなかった。だが、そう感じるだけの材料が秋瀬の中で揃っていた。
「Q8。君は――」
そう口を開きかけた、その時だった。
「来るぞ」
遮るようにQ8の声が響いた。その声に秋瀬はブレーキを掴む。銀色の地面に激しいブレーキ痕を刻みつけながら、横向きにバイクは停止した。
秋瀬は探るように周囲を見渡す。依然、〝声〟は聞こえるもののそれがどこから来てどのように反響しているのかが分からない。Q8はホルスターの銃へと指をかけながら、ビルとビルの隙間を見つめている。その暗闇の中に何かがあるのか、と秋瀬もそちらに目を向けようとしたその時だった。
道路へと何かが降り立った。そちらに秋瀬の注意は逸らされた。瞬間、Q8が銃をホルスターから抜き放ち、両手で構えた。銃口が瞬き、ビルの隙間の暗闇へと撃ち込まれた。直後、何か重いものの落ちる音がビルの陰から聞こえてきた。その音に秋瀬が振り向こうとした瞬間、
「走らせろ!」
Q8が叫んだ声に、秋瀬は反射的にスロットルを開き、アクセルを踏み込んでいた。Q8は両手に銃を構えたまま、前方へとその銃口を向けた。秋瀬の視点も前へと向けられる。
そこにいたのは黒い蜥蜴だった。赤い虹彩が光を放ち、暗闇の中で不気味に揺らめいている。
秋瀬は覚えずブレーキレバーへと指をかけようとした。それに気づいたQ8が声を荒らげる。
「速度を殺すな! 弾き飛ばせ!」
その声に、秋瀬はさらに加速を促した。獣のようなエンジン音が高らかに響き、蜥蜴の姿が目前へと迫る。Q8の二門の銃口が火を吹き、銃弾は蜥蜴の赤い虹彩を撃ち抜いた。蜥蜴は後ろに身体を捻り、痛みに悶絶する。その身体へとバイクの先端部が直撃した。重い衝撃がハンドルを握る秋瀬の手を伝導する。蜥蜴は秋瀬の頭上を行き過ぎ、後方へと転がった。Q8は攻撃の手を緩めることなく、ビルの隙間や、壁面に張り詰めている蜥蜴を正確無比な射撃で撃ち落としてゆく。どれも眼や、心臓など急所を狙った攻撃であり、一発も外れることはなかった。
――吸血鬼だからこそ為せる業か。
本来、吸血鬼を討伐するための武装だというのに最も使いこなせるのが吸血鬼とは皮肉なものだった。その皮肉に自嘲の笑いでも浮かべようとした時、秋瀬は道路の先に人影が立っているのを目にした。
「……何だ、あいつは」
思わずそんな言葉が漏れるほど、その人影は異質だった。まだ距離はあるというのに、それと分かるほどに巨体であり、闇に溶けるような黒衣を纏っている。
秋瀬の呟きに気づいたQ8が視線を目前の巨漢へと向けた。
「――あいつは」
Q8の口から放たれた言葉に秋瀬は「知っているのか?」と問い返した。
「ああ。バイクを止めろ。奴は、Qのコピーどもとは違う」
その声に従い、秋瀬はブレーキを握った。甲高いブレーキ音が上がり、バイクは止まった。秋瀬は前輪側面に備え付けられたケースの中にある神託兵装へと指をかける。それと同時にQ8はバイクから降りた。Q8は銃を抜いたまま、巨漢へと近づいてゆく。秋瀬は神託兵装をケースから抜き去り、Q8の後ろに続く。すると、その足が巨漢の一歩手前で止まった。秋瀬も足を止め、今一度巨漢の姿を認めた。
見上げんばかりの大男であり、頭はスキンヘッドだった。目線を遮るような紫色の細いサングラスをしており、その顔は凍結したように表情というものがまるで浮かんでなかった。
サングラスのせいか、それとも無表情のせいか、秋瀬は身震いするのを感じた。巨漢であるというのに、次の動きをまるで読ませない。まさしく壁のように前面に立つ男に、秋瀬は畏怖にも似た感情を抱いていた。その男へと、Q8が言葉を掛ける。
「Gか」
その声に応じるように、Gは唇から白い息を吐き出した。秋瀬には聞こえなかったが、それが返答になったようだ。
「こいつはGだ。Qの仲間のひとりである吸血鬼であり、Qの下男でもある」
「下男だと。吸血鬼に優劣でもあるのか?」
秋瀬が問いかけようとQ8と並んだ瞬間、射殺すような殺気がGから伝わってきた。重力のように圧し掛かってくる視線に秋瀬は思わず呻く。
「何だ?」
「単なる嫉妬だ」
と、Q8は短く答えた。
「こいつはQに近づくものには容赦はしない。コピーである私に対してもそうらしい。――だが、私はQではない」
その言葉と共にQ8は銃口をGへと向けた。Gは訳が分からないとでも言うように巨体を後ずさりさせる。
「私はQではない。勝手な押し付けはやめてもらう」
Q8は引き金を引き絞り、次の瞬間放たれた弾丸が空間に銀の軌跡を描きながらGの額へと直撃した。Gの頭が後ろへと反り返り、白い息が尾を引いて巨体ごと仰向けに倒れた。
「やったのか?」
「いや。まだだ。この程度で奴は死なない」
Gの腕がゆらりと俄かに持ち上がる。巨木のような腕が地面についた瞬間、その指先が脈動した。蠕動するように腕が音を立てて変形している。脈動した先から黒くなっていく指先は、冷徹な金属のような光沢を帯びてゆく。
Gの身体がその腕によって立ち上がる。腕は最早先ほどまでとは違う形を示していた。ゴリラのように脚よりも腕のほうが長い。加えて太さも倍以上に膨れ上がっている。Gの額から銀の弾丸が追い出される。穿たれたその孔の表面が激しく泡立ち、傷口を塞いでゆく。それと同じくしてGの身体にも変化が訪れていた。
上腕部の衣服がはち切れ、黒く変色した体表が露になってゆく。上半身の黒衣が弾け飛び、鉄鋼のような胸板が垣間見えた。その胸板も黒く染まり、全身が乾燥したような黒色へと変化した。頭部へと侵食した黒はGの顔を覆い、やがてその顔が変形してゆく。
鼻先が鋭く尖り、耳がピンと立つ。凍結した空気を沸騰させるような白い息を、口角から吐き出しながら、口元が裂けてゆく。サングラスが音を立ててひび割れ、次の瞬間、地面へと破片が転がった。
そこにあったのは先ほどまでの異様な巨漢ではなかった。巨大な拳を地面につき、大きく息を荒立たせるそれは一体の獣であった。熊のような黒い巨体は、コンクリートの壁を思わせる。それでも目の前のそれが無機質なコンクリートと違うのは頭部だ。口が大きく横に裂け、先ほどまで側頭部にあった耳が頭頂部付近に来ている。それは赤い眼を持つ狼の頭だった。頭部が狼で、ゴリラのような巨体が目の前に聳え立つ。赤い双眸が、比すれば米粒のような秋瀬達を見下ろした。秋瀬は覚えず、渇いた喉に唾を飲み下した。
「……変態機能を持つ、吸血鬼か」
秋瀬は神託兵装を強く握りなおし、正眼に構えた。肺の中の空気を吐き出しながら、自身の動悸が激しく高鳴っているのを感じた。
――落ち着け。
秋瀬は自身にそう言い聞かせる。変態機能を持つ吸血鬼がいることは知っている。知識としては確かにある。だが、ここまで巨大なものを秋瀬は見たことが無かった。前回の使い魔と比べても劣らない巨体が、目前で息を荒らげている。肌を焼くような視線が、秋瀬の身体を貫いてゆく。怒りだ、と秋瀬は感じた。今までも幾度となく感じたことがある、赤い眼から放たれる殺気。
秋瀬はぐっ、と息を詰め相手の動向に注意の目を向けた。黒い石膏を思わせる巨体が身じろぎし、秋瀬の方へと一歩、詰め寄ってくる。神経の末端に至るまで集中を持続させながらも、秋瀬は剣を握る掌が汗ばんでいるのを感じた。Gから放たれる圧力にも似た殺気が、秋瀬の身体へと押し潰さんばかりに圧し掛かる。それは隣に立つQ8も同じのようで、今までに見たことのない張り詰めた表情をしていた。
Q8の銃口がGへと向けられる。その時、GがQ8の方を睨みつけた。それだけでQ8はまるで身体の芯から萎えたように、銃を握る手を力なく下ろした。勝てない、とQ8は判じたのだろう。だが、秋瀬は諦めるわけにはいかなかった。
ここで退けばアルヴァの援護にも行けなくなる。秋瀬は今にも後退しようとする足に力を入れ、一歩踏み出した。Gもそれに合わせるかのようにゆっくりと一歩近づいてくる。それだけで視界がぼやけるような圧力に襲われる。秋瀬はしんと冷えた空気を肺に取り込み、思考をクリアにしようとした。
何も考えるな。いつものように戦えばいい。
人間らしい感情を遮断し、一個の殺戮兵器としての自己を徐々に開いてゆく。秋瀬は聖痕へと指を伸ばした。
刹那、Gが口を裂けんばかりに開かせ、咆哮した。大気に満ちていた銀色の結晶を弾き飛ばし、ネオンライトが音を立てて次々と割れた。
秋瀬がその声に遅れをとった瞬間、Gの手が大きく振り上げられる。そのまま張り手を横に振り払うかのように、Gの巨大な掌が振り下ろされた。秋瀬は反射的に剣を横に翳し、それを受け止めようとした。
しかし、Gの張り手はその程度で受け止めきれる威力ではなかった。轟、と空気を割る音が耳元で聞こえたと思った瞬間、秋瀬の身体は弾き飛ばされていた。背後にビルの灰色が迫る。秋瀬は空中で聖痕を押し込んだ。何かが擦れるような音が響くと共に、秋瀬は空中で身を翻した。背後に迫ったビルを足場とし、壁面へと着地する。そのまま秋瀬は壁面を蹴り、切っ先を前に突き出してGへと飛び込んだ。不意の反撃をGも予測できなかったのか、その首筋へと秋瀬の剣が潜り込んだ。
秋瀬は、今度はGの肩を足場とし剣を深々と突き立てる。Gが悲鳴を上げ、肩とは反対側の手で秋瀬を振り払おうとした。その直前に秋瀬はもう一度聖痕を強く押し込んだ。空気が圧縮され、時間が何倍にも引き延ばされる。筋肉が限界を超えた可動をする。秋瀬は神託兵装の柄を縦に捻り、そのまま引っ張るようにGの首筋から抜き去った。鮮血が首筋から迸り秋瀬の服を濡らす。視線を横にやると、もう目前までGの手が迫っていた。秋瀬は素早くGの肩から跳躍し様、眼下のQ8へと叫んだ。
「Q8! 眼を撃て!」
その声に放心していたようになっていたQ8が肩を揺らして反応し、両手の銃を前に突き出した。その時になってGはようやく首筋が裂かれたことを知ったのか、秋瀬を振り払おうと出した手を、首筋に当てて痛ましく咆哮した。
Q8の持った銃が火を吹き、そこから銀の射線が撃ち出される。二つの銀の線は空気を裂き、吸い込まれるように無防備なGの両目へと突き刺さった。
Gは仰け反り、激しい痛みに呻いた。闇夜を劈くような叫び声が同心円状に広がり、街灯を破砕し、僅かに割れ残っていたショウウィンドウも残らず割れて地面へと散った。
秋瀬はQ8の傍らへと着地し、身体を反り返らせたGを見つめた。その次の瞬間、Gの身体が腕を投げ出して、前のめりに崩れ落ちてきた。その手が秋瀬の眼前で地面へと落ちる。コンクリートが捲れ上がり、秋瀬の目の前で弾けた雪が舞い散った。
だが、まだこれで終わったわけではない。
秋瀬はゆっくりとGへと近づいた。Gは両目から血の涙を流しながら蹲っていた。首筋を裂かれたことで、身体に命令伝達ができないらしい。秋瀬にとってそれは幸運だったが、Gにとっては動けぬまま止めをさされるという不運だった。
秋瀬がGの眼前に立ち、その剣を額へと突き刺そうとした。その時である。
「――なんだ。まだ生きてんのか。情けねぇな」
不意にそんな声が響いた。秋瀬はその声のほうを振り仰いだ。
声の主はビルの上にいた。金髪が夜風にそよぎ、緑色のバイザーのようなサングラス越しの視線が秋瀬達を見下ろしている。秋瀬はサングラスで遮られていても、その奥にある舐めまわすような視線を感じていた。黒いコートがはためき、冷たい風を凝縮したような黒色の刀が片手に提げられている。もう片手には球状の何かが握られている。何だ、と秋瀬は目を凝らそうとして、その姿が不意に掻き消えているのを知った。
知ったときには、金髪の男は既にGの背へと降り立っていた。そちらに目を向けると同時に、切っ先を突きつける。それを見た男はいやらしく嗤った。
「そういきり立つなよ。手間を減らしてやるんだ」
「手間、だと」
秋瀬がそう言いかけた瞬間、男は刀を下方に向け、そのままGの背へと突き立てた。Gが倒れたまま呻き声を上げる。
「暴れんなよ。往生際が悪いぜ」
言ってさらに奥へと刀を突き刺した。男は背中から心臓を貫こうとしているのだ。そう知れた時、秋瀬は覚えず背中に嫌な汗が滲むのを感じた。自分もつい先ほどまでしようとしていたことだ、と分かっていながらも、動けない相手に対しこれほどまでに冷酷に止めをさせるものかと秋瀬は思った。男の刀の八割がGの巨体へと突き刺さる。Gはうつ伏せになりながら、口から断末魔の叫びを上げた。その声が嵐となり、建物の間を物理的なエネルギーを持って突き抜けてゆく。やがて、Gの声から力がなくなった。秋瀬が目を向けると、Gは口を開いたまま舌を出して絶命していた。物言わぬ肉塊と化したその背から男が刀を引き抜く。巨体に埋まっていた刀が血の跡を空間に引きながらいとも簡単に抜けたのを、秋瀬は幻でも見ているように感じた。男がゆらりとその身体を秋瀬に向ける。その片手に握られた何かは男の陰になってよく見えない。一振りの刀は黒い刀身にべっとりと赤い血がこびりついていた。鍔の付近に引っ掻いたような傷跡があり、それが月光に煌く。神託兵装だと、秋瀬は確信した。
「援軍か?」
秋瀬の問いかけに、男は答えずにどこか下卑た笑みを浮かべながら鼻を鳴らした。
「アルヴァ様はどうした? この先にいるはずだ」
続けざまに言葉を放ち、男へと歩み寄ろうとする。その時、背後から声が弾けた。
「秋瀬! そいつに近づくな!」
その声に振り返った、刹那、ざわりと首筋に纏いつくような悪寒を覚え秋瀬は反射的に剣を振り上げた。金属同士が摩擦する音が耳元で響くと同時に、染み付いた戦闘経験のまま秋瀬は飛び退いた。地に足をつくと同時に、剣を下段に構える。男は刀を片手に口角を吊り上げて嗤った。
「さすがだな。秋瀬・コースト神父。一流の使い手と呼ばれるだけはある」
「……お前は、何者だ? 組織の人間ではないな。どうして神託兵装を持っている?」
「まぁ、そう焦るなよ。焦ると何も見えなくなるぜ。こいつみたいにな」
男が片手に持っていた何かを秋瀬に向けて放り投げた。重い音を立てて地面にそれが転がる。秋瀬はそれを見た瞬間、驚愕に目を見開いた。目に入ってきたものが信じられず、夢遊病者のような足取りでそれに近づく。Q8が「おい、秋瀬」と呼ぶ声が聞こえたが構いはしなかった。秋瀬は両膝をつき、剣を取り落としてそれへと手を伸ばした。視界がぐらりと傾ぐ。脳がうっ血しているように何も考えられない。その目に映るものが認められずに、秋瀬はそれを手に取った。まだ人であった頃の温もりを僅かに残した皮膚。
それはアルヴァの首だった。
目が驚愕に見開かれたまま固まっている。何度もその目に映りたくて、それでも映らなかった瞳が今は虚空を見つめている。秋瀬の姿がビー玉のようになってしまったその目に反射する。だが、ただ反射しているだけだ。結局、最後の最後までその目に自分は映ることはなかった。何か大切なことを言うこともできず、裏切ったと思わせたまま死なせてしまった。秋瀬は頬を熱い雫が伝うのを止められなかった。どうして自分の周りの人間は皆、自分を置いて行ってしまうのか。それとも自分が何かしたのか。秋瀬はアルヴァの首を抱いて涙を流した。男はそれを見下ろしながら、喉の奥から笑い声を漏らした。
「そんな奴のためによく泣けるな。そいつは組織のために大勢の人間を犠牲にしたんだぜ。秋瀬、あんただって切り捨てられようとしていたんだ。死んで当然なんだよ。だというのに、あんたとんだお人好しだな。泣いたって誰も戻ってこな――」
その言葉尻を裂くように、剣が男の眼前へと振り上げられた。男は後ろに跳んで間一髪でそれを避ける。秋瀬はアルヴァの首を置いて立ち上がった。その手には剣が握られている。秋瀬は俯いたまま、「黙っていろ」と口にした。無条件で他者を震え上がらせるような声。その声の重圧をものともせず、むしろ愉しんでいるように男は笑みを浮かべた。
「Q8」と秋瀬が背後へと振り返らずに声を掛ける。Q8は「何だ?」と返した。
「〝声〟を操っている奴のもとに向かえ。できるならば撃退しろ」
「お前はどうするつもりだ」
「私は、ここでこいつを始末する」
秋瀬が顔を上げる。その双眸に鋭く強い光を宿して、男を見据えた。Q8は「そうか」とだけ返し、バイクへと跨った。
「秋瀬」
「なんだ」
「死ぬなよ。私との契約を、反故にさせるわけにはいかないからな」
秋瀬はQ8の方に向き返ることなく「ああ」とだけ返した。バイクが走り出し、秋瀬と男を通り抜けてゆく。空間に赤い尾を引きながら遠ざかるバイクの後姿を暫く眺めていると、男が口を開いた。
「そういえば、名乗っていなかったな」
男が刀を肩に担ぎ、片手で顔の半分を隠す緑色のバイザーの位置を直した。
「俺の名前はJ。そう呼ばれているが、あんたにはもっと親しみ深い名前があったな」
「親しみ深いだと。生憎吸血鬼に知り合いはいない」
冷たい口調で秋瀬が返すと、Jと名乗った男は喉を鳴らして笑った。緑色のサングラスの鼻先へと指をかけ、「いや、知っているさ」と言葉を発する。
「あんたは知っている。俺のことを。アルヴァも同じだった。俺が、僕だと知りそして絶望しながら死んでいった」
Jの声の変化に、秋瀬は俄かに張り詰めていた殺気を解いて目を凝らした。ゆっくりとJがサングラスを上げる。
秋瀬は息を呑んだ。そこにあったありえないはずの顔に、秋瀬は思わず呟いた。
「……ロラン」
「お久しぶり、というべきですかね。秋瀬・コースト神父」




