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予兆

次に大きな話を持ってきます。


 耳障りな〝声〟が鼓膜の奥を震わせ、脳髄を揺さぶっている。


 人間には本来聞き取れないであろう甲高い〝声〟を振り払うかのように、大門は駆けていた。しかし、足は街の中心部、〝声〟の集束する場所へと向かっている。


 大門自身の意志ではない。大門の内奥に潜む何かが、街の中心部に聳え立つシンボルタワーへと引き寄せている。それはまるで磁力のような抗いがたい力であった。ゆえに、先ほどから〝声〟が大門の頭蓋を軋ませ、脳幹を叩くような苦痛を与えている。大門はそれに耐え忍ぶように耳を塞ぎながらも、〝声〟は耳から入ってくるのではなく、まるで皮膚から浸透してくるかのように大門の身体へと増幅された声を送り込む。そこから逃げ出そうとしても、足は漆黒を裂くように鋭く近隣の家屋の屋根を伝い、街へと導こうとする。


 大門は自身が確かに変わりゆくのを感じていた。


 容易く屋根を蹴り、空中に踊り出る身体。聞こえるはずのない〝声〟を、聴覚ではなく全身で感じる感覚器。視界の中に映る景色がスローモーションと化し、街頭の光が実際の何倍にも眩しく感じる。街に近づくにつれ、鉄さび臭いにおいが鼻を突いた。


 血のにおいだ、と感じると同時に唾液が口腔内に溢れ出した。思わず口からこぼれそうになったそれを手の甲で拭いつつも、足は止まることはない。血のにおいに反応すると、飢えたように歩調が早くなった。最早、屋根を足場にする必要すらなくなっていた。闇に身体が溶け込み、辺りに充満する漆黒を足場にして飛ぶように駆けることができた。


 ――何が起きているんだ。


 戸惑いが頭の中に浮かび上がり、足に止まるように指令を送ったが、足は主の声など無視したように急くばかりだった。まるで身体が別の生き物にすげ替わったような感覚に大門は混乱していた。


 足は止まることを知らず、遂には街中へと入り込んでいた。足場代わりにしていた漆黒が失せ、周囲は色とりどりのイルミネーションに彩られている。その極色彩の陰から、何かがこちらに見ていることに、大門の中に潜む何かが気づいた。一つではない。複数、だがどれも同じ視線だ。まるで同じ人間が複数存在し、それらに取り囲まれているような妙な感覚。視覚でも聴覚でもない。蜘蛛の巣のように張り巡らされた今まで知覚したことのない触覚器が、その存在を感じている。


 その感覚の一端が、ふと動いた。木の葉が揺れるよりも微かなざわめきだったが、大門にはそれがはっきりと分かった。そちらに視点を移す。


 瞬間、現実に立ち返った視界の中にその姿が映った。それは四足でビルの壁面に張り付き、ビルとビルの隙間から顔だけを出して、陰からこちらを覗いていた。赤いてかてかとした眼球を持ち、その虹彩よりも映えた赤を持つ鬣を生やしている。乾燥したような黒い表皮が爬虫類じみた顔を覆っている。それは黒い蜥蜴だった。だが、通常の蜥蜴の大きさの比ではない。人間大にスケールアップさせたような巨大な蜥蜴だった。黒い蜥蜴は裂けた口を僅かに開き、先端が二股に分かれた細い舌を出して、それをちろちろと振るわせた。まるでこちらを探るようなその動向に、大門は息を詰まらせた。心臓が早鐘を打ち、危険だと身体の全身系が告げる。


 だが、それとは裏腹に足は蜥蜴のほうへと向かってゆく。止まるという信号を元から受け付けていないかのように、足は大門の命令を聞かなかった。蜥蜴が反対側のビルへと跳びつき、口を半開きにして大門の様子を窺っている。その牙が赤く濡れているのが、大門の肥大化した視界の中に映った。


 ――血だ。


 認識した瞬間、恐怖が全身を駆け巡った。止まれ、と再度足に強く命令するがやはり足は言うことをきかなかった。それどころか蜥蜴に向かって真っ直ぐに向かってゆく。蜥蜴は堪えきれなくなったかのように大門へと飛び掛った。


 大門は覚えず目を瞑り、腕で顔を覆おうと片手を振るった。


 その瞬間、ちりと何かが擦れたような音がした。次いで、ごとっと重たい何かが落ちる音と共に鼻腔の奥を突き刺すようなにおいが前面に充満した。


 大門が目を開けると、そこには首をなくした蜥蜴の身体が大写しになっていた。その首の付け根から、今まで抑えられていたかのように血が噴出している。その血が大門の顔にかかった。大門は悲鳴を上げながら、その血を拭った。何が起きているのか分からない。だが、自分には理解できない何かが起きているのは明らかだった。


 大門はその現実から逃げ去るように走った。自分の手についた血も、後ろに転がった蜥蜴の頭もその眼中にはなかった。


 ただ、この狂気の夜から逃げ出さなければ。


 その思いとは反対に、大門の足は狂気の中心地――イルミネーションに彩られた街に暗い影を落とす街のシンボルタワーへと確かに向いていた。


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