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崩壊の序章

 思いがけないことが起こります。


 絶えず鳴り響く〝声〟がトラックの車体側面を叩き、ガタガタと震えさせる。


 道のせいではない。今、トラックは街の中心部に向けて伸びる一本の県道を走っており、整備された無機質なコンクリートの道路には瓦礫などない。


「吸血鬼共め。耳障りな声を発してくれる」


 車内で鳴動する〝声〟をアルヴァは感じながらそうぼやいた。街並みが流れていき、路肩で倒れこんでいる人々が目に入る。〝声〟に中てられたのだろう、とアルヴァは公算をつけた。吸血鬼の〝声〟はある一定の周波数を発すれば、人を気絶させるくらいのことはできる。数が多ければその効果はなおさらだ。今、トラックが進む間にも、割れた店頭のショウウィンドウや、砂嵐を映し出すテレビなどが目に入った。トラックは所々で停止した車を縫うように避けながら、街の中心部へと向かってゆく。窓から視線を外したアルヴァの目は、手元にある円形のレーダーに注がれていた。円形のレーダーには、赤い光点が記されている。それはQが身につけていた発信機のものだった。Qは怪しまれないように部隊員の服をどこからか奪取したのだろう。その装飾の十字架には発信機が埋め込まれているとも知らずに。


 ――間抜けめ。


 アルヴァは内心にそう毒づき、右側へちらと目をやった。メイソンがハンドルを握っており、後部荷台の中には五名の神託兵装を携えた部隊員がいる。これだけ数が揃っていれば、Qひとりを追い詰める程度なら多いくらいである。もし、Qがある一定の数を揃えていたとしても、七人もの対吸血鬼戦のエキスパートに敵うわけがない。アルヴァはそう断じていた。それよりも、全てが終わってからの秋瀬の処遇のほうが、アルヴァにとっては急務だった。吸血鬼として処理せよ、と言ったが、そう上手くいっているだろうかという不安。それと共に、秋瀬を切り捨てて正解だったのだろうかという今更ながらの後悔が、アルヴァの胸中で渦巻いていた。


 思えば、あれには冷たい態度しか取ってこなかった。それは秋瀬が子供ながらに知らなければ幸福なことを知り、知ったが故の責任を分からせるためだった。知らないことは罪だと言う。だが、知ればそれ相応の責が伴う。知った子供は最早、無知な幼年期から強制的な脱却を余儀なくされる。秋瀬にそれを自覚させるために必要な対応だったのだ、とアルヴァは自分に言い聞かせながら、果たしてそれだけだったかと自問した。


 それだけで、最期まで秋瀬に冷たい態度のままでよかったのか。似合わぬ後悔が、心中を波立たせ、アルヴァは額に手を置いた。


「お疲れですか?」


 不意に隣から放たれたメイソンの声に、アルヴァは僅かに目をやった。メイソンは無機質な表情を前方に向けたまま、僅かにこちらに注意を向けているというふうだった。アルヴァは首を横に振り、呟くように応じる。


「……いや。少し、考えごとをしていただけだ」


 自分の口から出た「考えごと」という言葉に、アルヴァは眉をひそめた。考えごと、ということはやはり迷っているということだ。秋瀬を断罪することに、またこれまで秋瀬に接してきた自分の態度に疑問を抱いている。


 それを見透かしたように、メイソンが前方に視線を向けたまま言った。


「秋瀬様のことですか?」


 その質問に、アルヴァは首肯していた。自分でも驚くほどに、素直に心の内が滲み出ていた。あるいはこれが老いというものなのかもしれない、とアルヴァは思っていた。先ほど下した決断すら、自分のものと思えぬことが老いたことの証明なのか。


「正しかったと、私は思いますが。何か思うところでも?」


 メイソンは淡々とした声で問うた。その声にアルヴァは、メイソンに分からぬ程度に苦笑した。組織の「教育」を受けたものからしてみれば、裏切り者の排除に特別な感情など抱かないのだろう。たとえ命令を下した本人が迷っていても、「教育」通りに彼らは行動する。


〝裏切り者には鉄槌を。目撃者は必ず消せ〟


 組織が新たな人材を育てる場合、必ず施す呪いにも似た言葉である。その「教育」を受ければ、彼らは機械のように正確に判断し、リスクを伴わず感情の欠片もない最適で冷徹な行動を選択する。それが組織の望んでいる人間のあり方だ。


 だが、とアルヴァはそこで疑問を挟んだ。


 秋瀬を切り捨てた今、アルヴァの中でかつてないほどにそれに対する疑惑が首をもたげていた。


「……少し、分からなくなってしまった。自分のしてきたことが正しいのか、そうでないのか」


 言ってから、らしくない問いだとアルヴァは自嘲した。これを自分の口から言うことも、それをメイソンに問いかけることも。


 メイソンは少し時間を置いてから、言葉を発した。


「人間的な感情は捨て置きました。だから、アルヴァ様の疑問に答えるべき言葉がありません」


 その言葉にアルヴァは失笑した。当たり前の答えが返ってきたからだ。これが自分の育ててきた結果であり、その結果に問いかけるなど無為なことに過ぎない。


「そうだな。必要のない疑問だった。忘れてくれ」


 アルヴァの言葉に、メイソンは特に興味を示すこともなく、対向車を避けるためにハンドルを右に切った。尤も、その対向車は沈黙しており、フロントガラスに亀裂が入っていた。


「近いな」


 手元のレーダーを見つめながら、アルヴァが呟く。赤い光点が円形レーダーの中心へと、徐々に近づいてくる。もうすぐ、目視できる距離までいたるはずだ、とアルヴァが思ったその時である。


 突如として、背後から蹴りつけられたかのような衝撃がアルヴァの身体を貫いた。お思わず、身体が前につんのめる。


 トラックが急停車した、という認識が追いついたのは随分あとだった。アルヴァは目を瞬きながら、何だとあたりを見渡した。


 やがてフロントガラス越しに一つの黒い影がトラックの前に立っているのが目に入った。その姿をアルヴァはまじまじと見つめる。


 影は漆黒のレザーコートを着た金髪の人影だった。男か女かは車内からは判然とせず、顔の半分を覆うバイザーのような緑色のサングラスが目に付いた。


「あの吸血鬼ではない。何者だ?」


 アルヴァは周囲を再度見渡すが、予想していた赤髪の吸血鬼の姿はそこにはなかった。手元のレーダーにも視線を落とすが、赤い光点はトラックの真ん前で止まっており、動く気配がない。つまり、目の前にいる金髪の人影こそが発信機を持っていることになる。


「……別の吸血鬼か」


 アルヴァは確信めいた口調で呟き、隣のメイソンへと目で合図した。それにメイソンは頷き、腰に提げていた神託兵装へと手を伸ばしながら、トラックのドアを開けた。それと前後して、アルヴァもトラックから降りる。


 メイソンは降りるなり、トラックの荷台のほうへと歩いていった。恐らく、荷台に乗った仲間達を呼びに行ったのだろう。


 アルヴァは目前に立つ吸血鬼と向かい合った。近づくと、その吸血鬼が男であることが分かった。長身痩躯。タイトなレザーコートを身に纏い、長い金髪が街灯の消え去った闇の中に映える。腰になにやら日本刀のような細長い鞘を提げている。見たことのない剣だ、とアルヴァは思いながらそれを眺めていた。


 緑色のサングラスは視線をまるで読ませなかったが、高い鼻先の下にある口元が吸血鬼の感情を明確に表していた。


 吸血鬼は口角を吊り上げて嗤っていた。


「何がおかしい」


 剣の神託兵装を握る手に力を込めて、アルヴァは問いかけた。その言葉に吸血鬼は嗤いを顔に張り付かせたまま、片手を上げた。


 その手には発信機の埋め込まれた十字架が握られていた。吸血鬼は見せ付けるかのように、その十字架を大きく目の前に翳しながら握り締める。次の瞬間、吸血鬼の掌の中でバラバラにそれは砕けた。拳を僅かに開くと、そこから十字架の欠片である銀の粉が舞い散り、空気の中に溶けていった。


 アルヴァは手元のレーダーを見やる。そこに先ほどまで確かにあった赤い光点が消えていた。つまり、Qの持っていた発信機を、目の前の吸血鬼が破壊したということだ。


 その時になって、アルヴァは誘い込まれたかと察し、唇を噛んだ。


「なるほど。全て、貴様らの手の内だったということか」


「手の内?」


 吸血鬼はここに来て初めて言葉を発し、唇を薄く引き伸ばして続けた。


「違うな。手の内なんてものはまだ晒しちゃいない。これからだよ、アルヴァ・コースト神父」


 その言葉にアルヴァはハッとして、吸血鬼を見つめた。


「なぜ、私の名を――」


 その時、アルヴァの言葉を引き裂くような、叫び声が響いた。後方からだ。アルヴァは敵を前にしているのにも関わらず、その声に振り返った。断末魔のような叫び声が絶え間なく、車両後部、トラックの荷台の中から響く。中から聞こえてくるせいか、その声は靄がかかったかのようにくぐもっており、それがアルヴァにとっては余計に不気味だった。


 その叫び声を縫うかのように剣戟の音が俄かに聞こえ、その剣戟の音も新たな叫び声の中に打ち消されてゆく。


「……何だ。何が起きている」


 アルヴァは呟き、吸血鬼へと再び視線を向けた。


 視界の中に揺らめく吸血鬼の黒い影は口元を裂けんばかりに吊り上がらせ、ただ嗤っていた。


「貴様が、貴様らがやったのか!」


 その言葉に吸血鬼は肩を竦め、首を横に振った。


「いや、俺じゃない」


「ふざけるな! じゃあ、誰が――」


「――私ですよ」


 背後から聞こえてきた冷たい声に、アルヴァは息を詰まらせた。その声だけのせいではない。同時に首筋へと、冷たい刀身の感触が触れられてきたからだ。


 目だけを動かして、首筋へとかけられた刀身を見やる。それは漆黒の細長い剣だった。まさか、と出かけた声を制するように、吸血鬼が笑い声混じりに言った。


「案外早かったじゃねぇか。メイソン」


 その言葉に先ほどの声の主であり、今まさにアルヴァの首筋へと刀身を向けているメイソンは薄く笑った。


「彼らは戦闘中だと思えないほど油断していましたからね。聖痕を使うまでもない、簡単な仕事でしたよ」


 メイソンは今までアルヴァが聞いたこともないような上機嫌な声でそう言った。ようやく感情を宿したその声の主の剣が、自分へと向けられている。その現実にアルヴァは目を戦慄かせながら、どうして、と呻くように口を開いた。


「どうして裏切った。貴様は、いつから吸血鬼どもの下僕になった!」


 アルヴァの発したその言葉に、剣の切っ先が僅かに振れアルヴァを威圧した。アルヴァは今にも頚動脈を切り裂きそうなほどに迫った漆黒の刀身に息を呑んだ。


「言葉に気をつけてください。私は裏切ってなどいませんよ。最初から組織の最高幹部に仕えている者です」


「最高幹部は、この私だぞ!」


 肩越しに呻いたその声に、メイソンが無表情の仮面を脱ぎ捨て、嫌悪感を露にした表情で言葉を発した。


「……何も知らない老人が。口を慎め!」


 その叫びと共に、剣先に殺意が籠もり、横に振るわれようとした。その時、それを制するように吸血鬼が声を上げた。


「やめろ、メイソン」


 その声にピタリと刀身が止まった。それはアルヴァの首筋の皮膚に半ば触れていた。皮に薄く一条の線が走り、そこから僅かに血が流れ出す。もし、一瞬でも吸血鬼が止める声を遅らせていたらどうなっていたか。その想像に、アルヴァは背筋を寒くした。


 だが、どうしてメイソンは吸血鬼の言うことを聞いたのか。それが解せなかったが、問いかけようにもこの状況では問いかけようがなかった。


「情けねぇな。アルヴァ・コースト神父ともあろうものが、吸血鬼を前にして全く動けないとは」


 吸血鬼は嘲るような笑みを浮かべながら、アルヴァへと近づいた。その手が、腰から提げた日本刀の柄にかかる。それをひと息に、吸血鬼は抜き去った。


 そこにあったのは漆黒の刀身だった。トラックのライトを受けて、刀身がぼんやりと光を放ち、こちらを眩惑するような印象を与えた。鍔の少し上にある刀身が光を受けて、その身に刻まれた傷跡を晒す。そこには二本の横線に挟まれた五本の斜めの線があった。中心の斜線は、二本の横線を串刺しにするように貫いている。


 それが示すものを、アルヴァは知っていた。


「……第七世代の、神託兵装だと」


 それはアルヴァも見たことがないものだった。記憶しているのは、フラグメント達が持つ第六世代までだ。第七世代が開発されていることなど、露にも聞いていなかった。だが、なぜ神託兵装が吸血鬼の手にあるのか。その答えは、アルヴァに今、刀身を向けているメイソンを見れば一目瞭然だった。


「渡したのか。お前が」


 確信めいたその言葉にメイソンは静かに応じた。


「はい。武器流通の全てを任されていましたから。手渡すのは簡単でした。尤も、私はQ様を通じてJ様に渡したのですが」


「J、だと」


 聞きなれぬ言葉に、アルヴァは聞き返すと、メイソンは鉄面皮を崩さずに答えた。


「ええ。あなたの前におらせられる方の名です」


 その言葉にアルヴァは再び目の前の吸血鬼へと視線を転じた。種類は違えど黒衣を身に纏い、神託兵装を携えたその姿は自分達と同じだった。吸血鬼――Jは口元を歪めて刀型の神託兵装を真横に振り上げた。


 空気が裂け、刀身に映る光が位相を変えてアルヴァの目に突き刺さった。それほど秀逸な一品であった。


 Jが神託兵装を掲げながら、ゆっくりと近づいてくる。アルヴァは右手首の聖痕へと視線を落とした。聖痕を使い、まずメイソンの剣から逃れる。次いでJへと距離を詰め、第二の脳を貫く。死が差し迫った緊張に震える頭の中で、可能か? と自身に問いかけ、アルヴァは額にじわりと嫌な汗が滲むのを感じた。


 それを見透かしたように、メイソンの剣が僅かに傾いた。


「聖痕は使わせません。あなたが手首に少しでも触れようとすれば、即座に首をはねます」


 お見通しか、とアルヴァは伸ばしかけた手から力を抜いた。そう考えている間に、Jが眼前に迫っている。


 ――ここまでか。


 そう観念した瞬間だった。


 Jの姿が唐突に視界から掻き消えた。覚えず、首が動きJの姿を探ろうとする。その動きにメイソンが反応し、剣で威嚇しようとしたその時だった。


 メイソンの背後に、Jが刀を真横に掲げたまま立っていた。アルヴァは正面を向いたまま、気配だけでJが背後に立ったことを知った。


 斬られた、という思考が先行し、視界を赤く満たしてゆく。しかし、いつまでたっても痛みも、視界が遮断されることもなく、目の前を塞いでいた赤も薄らいでゆくばかりだった。


 ――斬られて、ない?


 その疑問が現実の形を伴うまでに、掠れたような悲鳴が耳元から聞こえてきた。


「……な、んで」


 その声の主を認めようと、首が自然と背後を振り返った。そこには剣をこちらに向けていたメイソンが、眼鏡越しの瞳を驚愕の色に染めて立っていた。その背後にJが刀を掲げたまま、肩越しに振り返った。


「悪いな」


 口角をいやらしく吊り上げ、Jが嗤う。その顔を覆い隠すように、メイソンの首筋から鮮血が噴き出した。その血が銀色の路面を染め、アルヴァの顔にもかかる。メイソンの顔が後ろに反り返り、口が断末魔を上げる形に広げられる。しかし、その喉からは最期の声が漏れることもなく、ただ掠れたような呼吸音をいくつか発しただけで、メイソンは地に倒れ伏した。


 アルヴァは、先ほどまで自分に剣を向けていた人間が倒れたことで半ば放心状態になっていた。そのアルヴァの視界の中で、Jが身体ごと振り返り、刀の切っ先を下げる。


「あんたには絶望を味わってもらわなきゃならない。こいつは俺に忠実すぎた。過ぎた駒は捨てなきゃならねぇ。辛いことだがな」


 その言葉とは裏腹な笑みを宿した顔に、不意に指がかけられた。親指と人差し指が、緑色のサングラスを鼻先から徐々に押し上げてゆく。


 それが完全に上げられたとき、アルヴァは驚愕に目を見開いた。


「お前は――」


「じゃあな」


 振り上げられた刀と別れの言葉がアルヴァの声を遮り、その思考を断絶した。



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