覚醒
「――さて。この女はどうするべきか」
黒衣の男が玲子に銃口を向けながら言った。玲子は黒衣に視線を固定しながらゆっくりと両手を上げ、膝をついた。それを見た黒衣の男は感嘆したような声を上げる。
「ほう、優秀だな。冷静に自分の状況を理解している、と言ったところか。普通の人間ならば、真横で人が殺されれば少しは動揺するものだが」
その言葉に玲子は傍らで倒れている大門をちらと見た。こちらを見つめたままの眼はもう生気を灯していない。まるでビー玉のようだ、と玲子は感じた。左胸に空いた風穴から絶えず血が流れ、黒い床を赤く濡らしていく。
大門鉄郎がもう生きてはいないのは誰の目から見ても明らかだった。先ほどまで話していた人間が死んだのだ。だというのに玲子は冷静だった。ただ自分がこの場で一秒でも長く生きながらえるベストな方法を選択し、機械のように演算をする。
玲子の様子を見て黒衣の男は何度も頷く。
「うん、優秀だな。殺すのは少し惜しくなってきた」
玲子は男がその言葉を発している間にも周囲の状況に目を配る。大門の右手から離れた銃が床に転がっているのが視界に入る。だが今あれを手にしたところで状況は変わらない。むしろ悪く転がるだけだ。ずっとその銃を視界の中に捕らえていると、銃の真横に足が唐突に見えた。その足から辿るように視線を上げる。
そこには黒衣の男が立っていた。
「――だが」
男は下卑た笑みを浮かべ、右手に持った銃を玲子の額に押し付けた。
「優秀すぎるのも命取りだ。こちらの隙を窺っているのがバレバレなんだよ」
引き金にかかった指に力が篭る。この距離から避けるすべはない。一秒後には放たれた弾丸が頭を貫くだろう。そこには逃れようのない死がある。
玲子は目を閉じた。その時である。
後ろの本棚がカタカタと音を立て始めた。それは小刻みな揺れから始まり、やがて大きく身体を揺する轟音のような振動へと変わっていく。
「何だ、これは?」
玲子に銃口を向けていた男が声を上げる。その一瞬の隙を玲子は見逃さなかった。すぐさま身体を横に転がらせる。それに気づいた男が「あ」と声を出し、玲子に銃を向けた瞬間、轟音とともにその銃を持つ手が吹き飛ばされていた。
男は銃を取り落とし、突然現れた痛みに叫び狂う。だが息つく間など与えられない。その身に再度、銃弾が打ち込まれる。二、三度痙攣するように身体を震わせ、男は倒れ付した。仲間が急に倒れたので何事かと黒衣達はそちらを見やった。
そこには銃を手にした玲子が真っ直ぐに黒衣達を睨んでいた。その銃口は黒衣達に向けられている。それに気づいた彼らはすぐさま懐から銃を取り出した。玲子はそのうちのひとりに狙いを定めようとする。だが素人の目ではそれは遅すぎた。
玲子が再び引き金を引こうと力を入れる前に、幾重にも重なった獣の叫びにも似た轟音が玲子を貫いた。
一瞬にして通り抜けた熱い感覚を手繰るように玲子は自身の身体を見る。視界に入ってきたのは先ほどの大門と同じような姿になった自分自身の身体だった。
撃たれた、という認識の前に身体が重くなり前のめりになって大門の遺体の上に倒れる。触れた大門の身体はもうほとんど熱を感じなかった。虚空を映す眼には生気の欠片も感じられない。だが、何を思ったのか玲子はその頬に手を寄せて身体を僅かに上げた。
全身から血が滴り、大門の身体をも濡らしていく。口の中に鉄の味が充満し、自分という存在が全て鉄さびに変わってしまったような錯覚を受ける。
大門を見下ろして顔を近づける。そして唇が触れる僅かなところで、囁くようにしていった。
「……あなたは、ハルカを愛していたのね」
その言葉とともに、血が滴るのも構わず玲子は大門の唇に自分の唇を重ねた。
その身へと黒衣達の銃口が向けられる。玲子は目を閉じた。目を瞑ると様々なことが頭に浮かんだ。
その中に父親のことがあった。吸血鬼の研究に狂ったように憑かれた父の姿。だがそれ以前の姿がないわけではなかった。医学の進歩を願い、夢物語のような全ての人間が救われる社会を自分に語り聞かせていた父の姿。今でもその横顔を覚えている。それを語った夜の匂いも、星々の位置さえも。
ああそうか、と玲子は悟った。
自分は、父のことが好きだったのだ。だからこそ、父に狂って欲しくなかった。それが今更になって分かった。あまりの自分の鈍さに、玲子は笑う。
その瞬間、銃声が玲子の意識を掻き消した。
「終わったか。通信はどうなっている?」
黒衣のひとりが銃を仕舞いながら他の仲間達に確認を取る。すると、そのうちのひとりが頭を振った。
「駄目だ。完全にいかれてしまっている。さっきの地震のせいかもしれない」
その答えに黒衣のひとりは顔をしかめた。本部に連絡が取れなくては死体の回収も儘ならない。できれば明日までに回収するのが望ましいため、今は一刻も早く死体回収用のトラックを呼ぶことが必要である。
「とにかく、本部に戻ろう。それからここに来て死体を回収すればいい。今はここに居座ることが時間の無駄だ」
そう言うと他の黒衣達も頷いた。早速、この部屋を出ようと全員が身を翻し出口に向かおうとした、その時である。
出口に誰かが立っている。
それを見た黒衣達は最初にそれが何者かを確認しようとした。だが、それがどうしても分からない。見たことはあるはずなのだが、脳がなぜだか認識できない。目の前の人間が男だと言うことも、服が血で汚れており服の左胸の部分にまるで穿たれたような孔が開いていることも分かるのだが、誰なのかだけが分からない。
その男は自分の右手をじっと見つめて、握ったり開いたりを繰り返している。まるで自分がこの場にいることが実感できないような仕草だ。そして自分の身体を見、左胸に触れた。男の左胸には何の傷跡もない。だがそこがまるで痛むように、男は慎重に触れている。
それを黒衣達は呆気にとられたように見つめていた。その視線に気づいたのか男が顔を上げる。その眼は、暗い地下室の中で不気味なほどに輝く赤だった。
それが意味するところに気づいた黒衣のひとりが「あ」と声を上げた瞬間、男の姿が視界から消えていた。何が起こったのか分からずに周囲を確認しようとした瞬間、ごとりと重い音が隣で聞こえた。
見ると、先ほどまで隣にいた黒衣の仲間の肩から上がなくなっていた。その仲間は視線をこちらに向けようとするかのように身体を傾けるが頭がないために視線が合わない。それでも仲間を探すようにふらふらと身体を動かすが、やがて力なく膝が崩れ落ち床に倒れ付した。その時になって思い出したように首から血が噴出する。それが黒衣達の足元を濡らした。
その瞬間、黒衣達は叫ぶ。だが、その叫びの間を縫うようにさらに重い音が次々と聞こえ、その度に仲間達が倒れていく。血の臭いが蔓延し、周囲で次々に物言わぬ死体が作られていく。その血のぬかるみに足を取られ、黒衣のひとりは転んで尻餅をついた。
その頭上に影が落ちる。彼は顔を上げてその影の主を見た。
それは先ほどの男だった。見ると左手が赤黒く汚れ、服にも返り血を浴びている。その赤い眼が冷徹に見下ろす。その視線に黒衣は恐れおののくような声を上げる。
「……や、やめてくれ。ころ、殺さないで」
肺から荒い息が漏れ、言葉をつむぐことさえ今の彼には難しい。あまりにも濃い血の香気が冷静な思考を奪っていくからだ。その赤い空気の中で男は屹立し、黒衣の顔へと静かに手を伸ばす。
それに抵抗しようとするも、すぐに顔をつかまれる。つかんだ手にはほとんど力が篭っていなかったが、なぜか万力で締め付けられているかのように外れない。黒衣はつかまれた指の間から男の顔を見た。そこには怒りも憎しみもない。単調な作業の延長のように男を見ている。その顔を見て黒衣はやっと目の前の人間が誰だか分かった。
「……そうか。お前、吸血鬼に――」
その言葉を言い切る前に、耳の中で自分の頭が砕ける音が響いた。
大門は手を払ってこべりついた血液を落とした。
そして周囲を見渡す。先ほどまで自分と玲子しかいなかったこの地下室は惨憺たる様子に変わり果てていた。血と肉が黒い床を覆い、死体が折り重なっている。これを自分がやったのだと言うことを、大門は理解していた。しかし理解していても、耐え切れずに大門は吐いた。
いつか見た事件の現場の写真を思い出す。あれも酷い有様だった。どんな人間があんなむごいことをできるのだろうと考えた。しかし今自分がやったことはそれ以上のことだ。それ以上の殺傷を自分は無感情のままに行った。それは自分自身が何より残虐な人間であることを示している。
大門は自分の両手を見る。どちらも血で汚れていた。それを取ろうと片方の手で擦るが、両方汚れているために取ることができない。いくら擦っても、まるで最初からこの色だったかのようにこべりついている。
大門はその両手をかざしながら、天井を見つめた。黒い天井には血が飛び散っていた。その中に映る自分の姿は悪鬼以外の何者でもない。血で穢れた身体も、ハルカと同じ赤い眼も、全て人間という存在から逸脱したものだ。
「……ああ、俺は一体、どうなってしまったんだ」
呻くように呟く。だが壁も天井はもちろん、自分の周囲には答えてくれるような生きている存在はない。全て死だ。大門の周囲には今、死が蔓延している。それは大門が夢想した秋瀬達の生き方と同じだ。
「俺は……、俺は……」
唇を震わせながら大門はもがくように周囲をふらふらと歩き始めた。しかしあるのは物言わぬ屍だけである。
その中に生きている存在はいまいかと見渡すが、勿論いるはずがない。なぜなら彼らは自分が屠ったのだ。殺すつもりで襲い掛かったのに今更生きている人間を期待するほうがおかしい。
大門は両手をだらりと下げ浮浪者のように狭い地下室の中を歩く。すると先ほどまで自分の上に乗っていた玲子の死体を見つけた。近づくと、その額に風穴が開いているのが分かった。
これが先ほどまで動いて自分と話していたことが大門には俄かに信じられなかった。人とは、死ねばこうも簡単に単なる気分の悪い物質に成り下がってしまうものなのか。
もはや大門は横たわる玲子に何の感情も抱けなかった。物質に成り下がったものに憎しみも、哀しみも抱けない。目の前にあるのは憎い人間の形をしただけの存在だ。
その玲子の口元が赤く汚れていた。大門はそれで最期に玲子が自分に口移しで血を与えたことを思い出して、自分の口元に触れた。
触れた指先を見ると、真新しい血が指の腹にこべり付いていた。それを何の気無しに舐め取ると、今まで感じたことのないような甘美で濃厚な味わいが脳髄を痺れさせた。
それは血の味だ。そんなものを、この世で一番上等と感じたということは、もはや自分は普通ではない。
「……化け物に、成り下がってしまったのか」
言った直後、大門は顔を覆って嗚咽した。
玲子が言ったことは全て真実だった。その事実が重たく圧し掛かる。目の前の玲子の死体の半開きになった唇が告げる。
お前は人の血を啜る外道になったのだと。それは物言わぬ死体よりも、もっと醜悪で下劣だと。
その言葉に耐え切れず、大門は地下室を飛び出した。
外は地下室の凄惨さなど知らないかのような純白の雪が絶えず降っていた。その雪の景色の中に、僅かな音が混じっていた。
それは通常の人間ならば片鱗を聞くことすら叶わぬ〝声〟であった。その声に大門は立ち止まり、周囲を見渡す。
周りには何もいない。だが全方向から声が響き、囲い込まれているかのような錯覚を受ける。世界を満たす空気自体が声に挿げ替わったような感覚だ。
大門はその声の大本、最も聞こえてくる場所を探して目を閉じた。
感覚が研ぎ澄まされ、時間が何倍にも引き伸ばされる。雪の結晶が音で砕け、形を変え、再構築され、そして地面に落ちて行く様子まで手に取るように分かる。
その結晶を砕く音がどこからやってくるのかを手繰り寄せるようにして探す。
大門が目を開ける。その視界の中にはこの街のシンボルタワーが屹立していた。それの頂上を大門は見据える。
「……あそこに、いる。あの場所に、声の中心が……」
呟いて大門は知らず歩き出していた。




