開幕
遅くなりました。すいません。
月ひとつない夜がN市上空に立ち込めている。
そこからはここにはない月光の残滓のような雪が舞い踊るように降り注ぐ。N市を覆う巨大な天蓋のような漆黒の曇り空はまるで逃げ場のない鳥かごのようである。
その鳥かごの頂点に一番近い場所、この街のシンボルタワーの吹きさらしの頂上に男がいた。銀髪の男、Xである。
彼は舞い落ちる白い欠片を睨むような鋭い眼光をたたえながら、座してじっと一点を見つめていた。
まるで何かを待っているかのようにじっと微動だにせず、Xは目の前をちらつく雪さえ貫いて別のものを見据えている。
それは好機だった。
彼は待っていた。その時を、ずっと。
見下ろす街は喧騒に包まれている。人間達の営みが活発になるにつれ、Xは不快感をかもし出す。ヒトという種の流動に、まるで抑えきれない汚物のにおいが溢れ出したかのような腐臭が鼻を衝く。それはXのもっとも嫌悪するものであった。
それに耐えてでもXは待ち続けたのだ。
そして遂にその時が来た。
目の前を雪の結晶が舞い降りる。その結晶がXの眼前まで落ちてきたとき、不意にそれが空中で砕け散った。雪の結晶を破壊したのは風でもなんでもない。それは彼ら吸血鬼にしか認識できない〝声〟だ。高周波の、ヒトには到底理解できないもの。その音波が夜の人々の賑わいをすり抜けてXの元へとたどり着いたのだ。
その〝声〟でXは立ち上がった。
「――なるほど。コピーが一体やられたようだな。だが、予想の範囲内だ」
呟くように言ってXは遥か下界を眺める。そこはまるで愚者達の溜まり場だ。夜を無闇に切る人工の灯りがわずらわしい。Xはその灯りを視界に入れているだけで吐き気を催しそうだったが、これから行うことには下界を見える位置にいなければ成立しない。
その時、Xはふと後ろに気配を感じて首だけで振り返った。視界の端に大男が映る。Gだ。
「何だ、まだいたのか。とっくに作戦は第三段階へ移行しているぞ」
Xが言うと、Gは唇を僅かに開いた。そこから白い吐息が漏れ、すぐに風でその息はかき消される。それを見て何かを理解したようにXは薄く笑った。
「勘違いするな。私はJの作戦に全面の信頼を置いているわけでは決してない。お前と同じだ、G。単なる利害の合致だ」
その言葉を聞いてGが再び唇を開く。そこから今度は先ほどよりも長く、白い息が出たがすぐに漂うように景色に消えた。
「あのような派生種風情が我々に指図するなどもってのほか、確かにお前の言うとおりだ、G。だが、人間を欺くにはこの方法がちょうどいい。派生種は人間に近い奴らだ。ただのヒトを欺くに過ぎんこの作戦に、我々の頭を使う必要はない」
それに、と付け加えてXは続ける。
「奴は私怨を片付けたいだけだ。ならば我々はそれに乗じて我々自身の目的を果たせばいい。言ったはずだ。所詮は利害の一致だと。さぁ、分かったらさっさと行け。お前にも目的があるのだろう?」
その言葉を聞いたGは肯定とも否定とも取れないような低い頷きをした後、空から落ちた結晶が地面で砕けるより速く、その場所から一瞬のうちに消失した。
それを確認してXが鼻で笑う。
――これでお膳立ては整った。
Xは片手をすっとあげる。それと同時に目も閉じた。白い景色が一瞬で漆黒に染まり、全ての時を止めたようにXはその姿勢のまま黙した。
暗く立ち込めた空からは銀色の結晶が絶え間なく舞い落ちる。小さな結晶達の乱舞は、眼下に広がる街の灯りを身に受け純白のその身に幾つもの色を宿す。ネオンの赤、緑、青。本来の自分達の色を忘れてしまいかねないほどの色の奔流が彼らを襲い、彼らはいずれもその変化の途中で地面に落下する。彼らは地上へと放たれたが最後、決して本来の白を取り戻すことはない。やり直すことなどできないのだ。
地上の色に染められた雪の結晶がまたひとつ、Xのあげた手の表面に落ちる。Xは目を開け、白い息を吐いて呟いた。
「――始めろ」
その言葉とともにXはあげていた手を、タクトを振るうかのように振り下ろした。
男は雪の中ずっと待っていた。
ここはN市のほぼ中心部に当たる場所である。そこで男はクリスマス仕様にイルミネーションで装飾された木の下で待っていた。無論、待っているのは女である。だがその女がいくら待っても来る気配がないのだ。男は自分の前を通り過ぎていく人々の様子に目を配る。プレゼントを持つもの、和気藹々と大勢で騒ぐもの、手を繋いで見るからに自分達が幸せだと主張するもの。彼らは歳も性別もバラバラだがいずれもこの一夜を存分に謳歌している。特別な日、だということを彼らは生かしてきっと普段伝えられない思いや、有り余る気持ちを形にして誰かに贈るのであろう。だがそういう点で言えば自分とて同じなのだ。
男はポケットに入れていたものを取り出す。それは掌に収まるほどの小さな藍色の箱だった。これが男の今宵届けたい想いの形だった。クリスマスに特別な思いを打ち明けるなんて使い古された手法ではあるが男にはこれしか思い浮かばなかった。彼女は喜んでくれるだろうか、などということを考えながら精一杯知恵を凝らしたが結局たどり着いたのは万人共通のありきたりなシナリオである。
男は自分の平凡さに苦笑しながら箱を見つめる。こうして見ると一生を決めるにはあまりに情けないような、小さな箱だ。だがこの中には自分自身の思いが詰まっている。だから自信を持て、と心の中で自分を鼓舞してみるもむなしさにため息が出る。
いくら自信を持っても肝心の相手が来なければどうしようもない。男は項垂れながらポケットに再び箱を戻そうとした。その時である。
雪が積もった地面を人ごみに気をつけながら歩いてくる人影が見えた。男は顔を上げる。それは彼が待ち望んだ人影だった。
近づいてくる女性は男に気づいて手を振る。男もそれに手を振り返して、立ち上がった。思いを伝える、そのことを考えると自然と鼓動が高鳴ってくる。ポケットの中で箱をぎゅっと握りながら男は女性の下へと駆けていこうとした。
その時である。
「――始めろ」
頭の中に冷たい声が響いた。それと同時に脳髄の奥底から湧き上がってくるような映像を内部に感じた。
見たことがないはずの映像である。赤い髪の女に首筋を噛まれ、血液を吸い尽くされるイメージ。その後、また血を与えられ何もなかったかのように自分が目を覚ますという記憶。
そこで唐突に男は動きを止めた。男に歩み寄ってきた女性が男に話しかける。しかし男は返事をしない。それどころか女性が見えていないように、暗く立ち込めた空を仰いでいる。さすがに女性もその様子がおかしいことに気づき、男の身体を揺さぶった。それで男は今しがた存在に気づいたように女性のほうを見た。
その瞬間女性は男の顔を見て息を呑んだ。見つめる男の眼の色が人間とは思えないような青に変わっており、闇の中で光っていた。
女性はその視線から逃げるように後ずさる。それを見ていた男が突然空に向けて咆哮した。
そしてその姿が変わっていく。髪が赤く変わり、皮膚が内側から裂けて中から黒いつるつるとした新たな皮膚が出現する。口が裂け、顔が獣のように鋭くなり青い眼がまるで爬虫類のように飛び出す。肘から新たに骨が飛び出し、それは肋骨辺りまで伸びて表面に茶色の薄い皮膜を生じる。
やがて男であったはずのその姿は瞬く間に異形と化した。女性はその場に蹲り、目の前に突如として現れたその姿を見つめる。
それはまるで二足歩行する黒い蜥蜴だった。ただ蜥蜴と違うのは腕に皮膜を生じ羽のようになっていることと、そして赤い髪が変形して首周りも覆い鬣のようになっていることだ。
蜥蜴はその青い眼で腰を抜かして動けない女性を見つめる。女性は首を横に振りながら後ずさる。声が出ないのか白い息のみが口からもれる。
蜥蜴はその女性を見つめたままゆっくりと歩み寄った。その瞬間女性の理性が砕けて叫び声を上げた。
それに反応したのか、または初めからそのつもりだったのか。蜥蜴は裂けた口角をさらに吊り上げて女性へと飛び掛った。
その姿を見た人々が顔を青くして逃げ惑う。白く染まった地面が赤く染まっていき、逃げる人々を追い求めるように女性の手がそちらに伸びる。だがその手は力なく地面に落ちた。その手の伸びた方向の鮮血に染まった地面の上に藍色の箱が踏み砕かれて置かれている。
蜥蜴は食事を終えると、逃げていく人々のほうには目もくれず空を仰いだ。そして近場のビルの壁面に蜥蜴はよじ登った。掌に吸盤でもあるのか蜥蜴は垂直の壁面を難なく登り頂上へとたどり着く。
すると蜥蜴の目に他のビルの頂上に上ってくる影が映った。それはその蜥蜴と同様、今しがた変異し声に導かれたもの達だ。
蜥蜴達は示しあったように同じ方向を見ている。それはこの街のシンボルともいえる漆黒の塔だ。いや、正確にはその塔の頂上である。
そこを爬虫類独特のぬるぬるとした眼で見つめている。
その時ふいに蜥蜴のうちの一体が口を大きく開いた。鋭い乱杭歯に絡みついた粘液が糸を引いて赤い口腔を晒す。他の蜥蜴もそれと同じように口を開く。
Xは塔の頂上からそれを確認して頷き、手を大きく掲げた。
その次の瞬間、蜥蜴達の口から〝音〟が放たれた。それは実際には〝声〟であったがヒトの耳にはその〝声〟は高すぎたのだ。超音波というヒトの耳には感知できない領域の声。それをさらに強力にしたものを蜥蜴達は口から発している。雑音以上の脳髄を掻き毟るかのような高音が地表に響き、暗い夜を覆っていく。その影響でまず窓ガラスが粉砕した。クリスマス用に装飾されたウィンドウが次々と音を立てて割れ、浮かれた芸能人達を映すテレビの画面にも痛ましい亀裂が入った後、割れた。次に影響を受けたのは電子機器だ。ラジオはノイズを発生させ、通信機能は麻痺する。
そして最後に影響を受けたのはヒトだった。逃げ惑う人々はその〝声〟にたちまち足を止めた。そして次の瞬間には皆、耳を押さえて苦しそうにうめいた。雪が積もった地面に膝をつき、人々は発狂したように叫び声を上げる。その眼は濁り、口はだらしなく開かれる。皆がまるで身体の内側から虫がわいて来るような不快感に顔をしかめ、地面に頭を擦りつけ、そして失神した。その〝声〟を聞いた全員が、である。
その〝声〟は伝染病のように瞬く間にN市を狂気と昏睡の夜へと誘い込んでいった。




