夜が来る
それぞれの夜がやってきます。
大門はひとり取り残された部屋の中で、しばらく俯いていた。
血濡れの床を見つめながら大門はただ考えていた。大切なものを失うということと、それを知ったものだけが知る喪失感。心の中心ががらんどうになって冷たい風の吹き荒ぶ感覚。どれも大門は知っていた。両親が死んだときにも感じたものだ、忘れるはずが無い。
そして、それを知りながら同じ境遇の相手と向かい合う「痛み」も大門は知っているはずだった。
だから、後を追おうと思った。随分時間がたってからであったが、秋瀬の行った後を追いかけるようにドアを開け、表を見た。
しかし表には誰もおらず、遠くの曲がり角を今しがた緑色のトラックが走り去っていったのが見えた。
大門はトラックが行った道をしばらく見ていたが、やがて諦めたように自分の部屋に戻っていった。大門は玄関から廊下を見つめる。酷い有様だった。血は壁に張り付いたまま乾きかけており、壁にはナイフが刺さった穴が大きく開いていた。
大門はそれを見つめながら、これが秋瀬達の戦う場所の景色なのだとおぼろげながら思った。秋瀬達の戦う道には常に血が流れ、地には禍々しい穴が穿たれ、死が蔓延する。秋瀬の誘いを断ったのはそのような場所に行くことに僅かながら躊躇する気持ちもあったからなのかもしれない。
それはハルカのためではない。所詮は自分のためだ。まだ利己心で自分は動いている、それを感じた瞬間、言い知れぬ不快感に大門は顔をしかめドアを後ろ手に荒々しく閉めた。その時、郵便受けに溜まっていた郵便物のひとつが足元に落ちてきた。大門はそれを何気なく拾い上げる。
拾い上げた瞬間、戦慄した。
首筋に手をかけられ背を這って何かが覗き込んでくるかのような不快感がこみ上げてくる。それは久しく忘れていた、しかしこの十三年間常に付きまとっていた影が再来した瞬間だった。
裏面を見る。差出人はいつもの通り、「ミヤザキレイコ」だった。あの気分の悪い写真を送りつけてきて以来、この手紙には目を通さないようにしてきた。だが、あのトラック運転手が殺された事件も吸血鬼に関係があると秋瀬は言っていた。ならば、この手紙ももしかしたら今回の一件に関係があるのかもしれない。
大門は居間に戻り、その手紙の封を開けた。
中には前回のように写真は入ってなかった。ただ、いつもならば読まずに燃やす手紙だけが入っている。
大門はその手紙を久しぶりに読んだ。
『こんにちは
元気してますか? 因幡悠斗クン
ずっと返事が無くて寂しいな』
そんなふざけた書き出しから始まったこの文章は次の行で結ばれていた。大門はその一行を見て驚愕した。
『ハルカ殺されちゃって残念ですね もしハルカのことで聞きたいことがあれば私のところへ来てください』
そこで文章は途切れている。封筒の中をもう一度よく見たがほかに手紙があるわけでもない。
大門はわけが分からなかった。なぜ自分を追い続けている影であるミヤザキレイコがハルカのことを知っているのか。そもそもなぜハルカが“殺された”ということを知っているのか。ハルカが殺されたことを知っているのは自分と秋瀬達だけのはずである。ならばミヤザキレイコは秋瀬達の関係者なのか。しかし秋瀬達の所在も分からぬ今、秋瀬に確認することもできない。
大門は再び手紙に目を走らせる。すると先ほどの文章の下に何か小さな地図らしき図が書かれているのを見つけた。恐らくミヤザキレイコの家までの道のりであろう。
頼れる手がかりはここしかない。
大門はその地図を瞳に焼き付けるかのようにじっと見つめた。
Qはうっすらと目を開けた。
切れ長の瞳の青い水晶のような眼が遥か遠くの沈み行く夕日を眺めるように細められる。長い睫毛は嫌でも彼女がどこかたそがれているような印象を与える。Qはどこが寂しげな眼差しを眼下の街並みに投げかけながらひとつため息をついた。
「どうしたんだ? Q」
ふいにその背中に声がかけられる。振り向くとそこにはJが立っていた。長い金髪が風に揺らめいている。
「別に、どうもしてないけど?」
Qは笑顔で答えた。Jはその答えを聞いて口元にいやらしげな笑みを浮かべながら首を振った。
「違うな。なんかあったって顔だ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「分かるのさ。俺には」
そう言ってQの傍らへと歩み寄り、同じように眼下の街並みを眺める。彼らがいるのはこの街で一番高い場所だった。街の人間には〝墓石〟と呼ばれている黒い電波塔の屋上にある吹きさらしの場所の縁に彼らは立っていた。今、時は夕刻。太陽が沈み、暗い影が町を覆い始めている。一番高いこの場所からは、すで覆われてぽつぽつと人工の光が現れ始めている場所と、まだ朱色の光に染められた場所の二つがまるで対極図のように見えた。
「あなたがそんなにも他人の気持ちが分かる人間だったなんて、驚きね。いえ、正確に言うなら、そういう吸血鬼だったなんて」
QがJのほうを見ていたずらっぽく笑いながら言う。
「昔、俺の近くに感情的な奴がいたからな。そいつを見ているうちに他人の気持ちを推し量るっていうことが上手くなっちまった」
JはQのほうを見ずに言った。QはJが懐かしさにその人物のことを思い出しているのかと思い顔を覗き込んだが、顔の半分を覆い隠すバイザーのせいでどんな目をしているのかは分からなかった。
「それで、どうしたんだ?」
Jが再度尋ねる。QはJから視線を外して、また暗闇に沈みかける街並みを見ながら答えた。
「恐らくコピーの誰かがハンターに捕まったみたいね」
「なぜ分かるんだ?」
「あたしとあの子達は繋がっているもの。オリジナルであるあたしはあの子達の動きを捕捉することができる。……これで何とか作戦の第一段階が」
「クリアしたってことか」
JがQの言葉を引き継ぐ。
「あなたが考えた作戦は順調に進んでいる。悪くないわ」
「――その割には、嬉しくねぇって顔してるな」
Jが言うとQは驚いた様子でJを見つめた。そして一瞬逡巡するようなそぶりを見せた後、ふっ、と笑ってから街を睨んだ。
「自分と同じ容姿をしている子が捕まって嬉しいと思う? あたしは嫌よ。いくら作戦に必要だからってあたしと同じ姿で何をされるか分からないのに捕まるのは。吐き気がする」
Qは強い拒絶の感情をあらわにして言った。Jはそれを聞きながら、この女が守りたいのはコピー自身ではなく、投影された自分の姿なのだということを感じた。コピーを作ることには決して異論はないのだろうが、それが見も知らぬ連中に汚されるのは許せないのだろう。まるで鏡が割られるのは平気だが、鏡の中の自分の姿までひび割れるのは我慢できないといった風の言い方だ。
「じゃあ、やっぱり俺の作戦は気にいらねぇのか?」
「いいえ。あなたの作戦は確かに有効でしょうね。こちらの本当の目的を隠すという意味でも」
Qは立ち上がった。そして夕凪の冷たい空気に自分を浸すように両手を広げた。
「でもね。あたしは自分のコピーを生み出せる唯一無二の吸血鬼。できれば自分を安売りしたくないの」
Qは歌うように言った。Jはその姿を見つめながら思った。確かにQは吸血行為によって自身とまったく同じ存在を作り出せる唯一の吸血鬼だ。そして吸血した対象と同じ姿に擬態することもできる。だが、その能力だけでこれほどまでの自身への過信のようなものを持てるのはなぜなのだろうか。ひとつ間違えば〝自分〟という存在すら危うくなるような能力だというのに。
「なぁ。お前は何でそんなに自信が持てるんだ? お前がそこまで自己を信頼する根拠は何だ?」
Jが疑問をそのまま口にする。Qは一歩間違えれば地上に落ちてしまうたった数十センチしかない縁の出っ張りに立って、優雅にその赤い髪をはためかせながらJに振り向き、そしてひとつ微笑んでさも当たり前のように言い放った。
「決まっているじゃない。あたしがオリジナルだからよ」
Jはその答えを聞いて一瞬驚いたようなそぶりを見せたが、すぐにいつものようなニヒルな笑みを口元に浮かべて、成る程、と呟いた。
その時、吹きさらしのラウンジの入り口に気配を感じふたりはそちらに目を向けた。見ると、そこにはXとGがいた。相変わらず冷たい表情を湛えたXがJ達のほうに近づきながら告げる。
「準備はできた。あとは、夜を待つだけだ」
「そう。じゃあ作戦は第二段階に移行したってわけね」
言って、Qは出っ張りから下りてJの横を通り過ぎる。その時、JはQのほうを見た。
Qの姿が変わっていた。いつもの赤い髪は色を変え、茶色いウェーブのかかった髪となっている。それは昼間のQが吸血した女の姿そのものだった。女の姿となったQは夜景を凝縮したような青い眼を閉じ、静かに呟く。
「夜が来るわ」
その言葉に導かれるように夜の闇がラウンジを覆っていく。夜光虫の明かりのような人工の光が夜の昏睡に沈んだ街を満たしていく。冷たい風が吹き荒び、大気が氷のように張り詰められていく。それはどこか戦いの前の緊張に似ていた。
「――さぁ」
Qが口を開く。Xは仏頂面で目を瞑っている。GはQを大事なものでも見るように見つめている。そんな中、Jだけがこれから始まることが愉しくて仕方がないというかのように歯をむいて笑う。
そしてQが眼を開けて、美しい声で告げた。
「始めましょう。あたし達の戦いを」




