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燻り

 ここでようやく大門の視点に。


 大門はその日、窓から緩やかに差し込む日差しを、ぼやける視界の中に感じて目を開けた。


 その眼の焦点が定まっていない。空ろで無気力な眼だ。特に嫌なことがあったというわけではないというのに。


 そして、えらく寝覚めが悪い。どうやらまたソファで眠ってしまったようだ。申し訳程度の薄い掛け布団が、傍らの床に落ちている。むくと上体を起こすと、脳髄がしびれるような感覚と共に木槌を後頭部に向けて振り下ろされたかのような衝撃と鈍痛が頭の中で響いた。思わず呻き、両手で頭を押さえる。押さえた瞬間、重力を失ったような感覚を覚え、視界が半回転した。そのまま肩から床へと落下する。


 落下の衝撃が電流のように身体中を駆け巡る。大門はその場でしばらく蹲った。


 そして痛みも落ち着いた頃、もう一度身体を持ち上げる。また頭痛がした。今度は片手で頭を押さえながら辺りを見回す。すると、ソファから少し離れた場所にあるテーブルに何本ものボトルがテーブルを埋め尽くすように置いてあった。どれも強い酒である。


 ――飲みすぎたのか?


 自分がしたはずの行為にすら疑問を抱くのはまったく何も覚えていないからだ。やけ酒する理由は――はて、なんだったのか。何も思い出せない。何かとてつもなく自分にとって衝撃的なことがあったような気がするのだが、それは確信のもてない霧の中の風景のようにぼやけている。その記憶の景色に手を伸ばそうとするが、どこかでそれを思いとどまる自分がいる。


 まるで触れることを恐れているかのようだ。しかし何を、一体何を自分は恐れているというのだろうか。


 大門は立ち上がり、冷蔵庫へ向けて歩き出した。こんな気分なのはきっと酔いがまだ完全に醒めていないせいなのだろう。確かミネラルウォーターがあったはずだ。


 しかしミネラルウォーターは結局得られなかった。冷蔵庫へと向かう途中、テーブルの上のあるものが、大門の目を引いたからだ。


 それは酒のボトルに囲まれていた中心にあった。大門はボトルしかないと思っていたテーブルの上にあるそれが何か異様なものだと感じ取った。上から覗き込むようにして、それを見る。しかし、視界に入ってもなぜだか理解が促されない。周りのボトルははっきりと見えるのにそれだけが現実から浮遊しているかのようにぼやけている。


 大門は手を伸ばし、それを手にとって眺めた。


 黒い無格好な姿をしていた。引き金がついており、ずしりと重い。掌に載せても、それを制しているという自信が持てない。むしろこちらがそれに取り込まれそうな危うさがある。

それは殺人意外に用途がないもの、悲劇の象徴――銃であった。


 その時、大門の頭に急に無数の風景がよぎった。疾走していく風景は現実の大門を置き去りにして、過去を次々と大門の脳内に叩き込んでいく。脳細胞が覚醒し、酩酊状態にあった意識は半ば強制的に、封印するはずだった記憶を引っ張り出していく。


 大門はあまりの急激な記憶の復帰に眩暈すら感じた。絶叫マシンに乗せられたまま、脳を揺さぶられ続けているようだ。


 記憶が留まることを知らず溢れ出していく。――少女の依頼人、ハルカ、偽装パスポート、連続怪死事件、吸血鬼、馬鹿げている、監視、拳銃、黒衣、金髪、灰髪、切り取られた首、吹き出る鮮血、赤、黒い剣、脆く白い腕、黒龍、灰色の豪雨――そして、「マタネ」と言って消えた……友人。


「――ハッ……」


 思わず大門は倒れそうになった。しかし柱に凭れ、何とかそれを免れる。突然の記憶の奔流に大門は汗をびっしょりと掻いていた。その汗が床に落ちて弾ける。水が地面に落ちてはじけ飛ぶイメージが、大門にその日の激しい雨のことも鮮烈に思い出させた。


「なん、て……こった」


 息も絶え絶えに呟く。そして手の甲を額に当て、どうして忘れてしまっていたのかと嘆いた。


 忘れてはならないことだった。ハルカのことも、そして、彼女を殺した連中のことも。大門はぎりと奥歯を強く噛んだ。あの黒衣を纏った連中のことを考えると脳細胞が沸騰しそうな憎しみが湧いてくる。


 感情が熱を発している脳内で論理的な自分が思考する。その命題、まずはひとつ。


「そもそもなぜ彼らはハルカを殺したのか」、解答は出ない。分からないからだ。


 瞬く間に次の命題へ移る。「殺す理由などあったのか」、「ハルカは彼らと何か因縁でもあったのか」ひとつだった命題はやがて三つ、四つと膨らみ、それらはいずれもいくら考えたところで分からない事だらけだった。


 ただひとつだけ言えることは彼らがハルカを殺した、その事実だけである。


「どう、する……――警察に言う、か?」


 そう言ってからすぐにそれは無理だと論理的な自分が否定する。自分自身が警察に捕まるとまずい人間なのだ。それなのに、警察に言いに行くなんてことはできない。


 頭の中をぐるぐると考えがめぐる。しかしそれはどれを選んだところで自分の保身を捨てる以外は、ハルカを殺した連中を告発することなどできないのだ。


 殺人者を追い詰めるために自分が捕まる。これでは意味がない。ハルカの仇を自分で討つことにはならない。大体、大門が捕まったところで捜査が進展するとも思えない。それにハルカの死体はないのだ。あの日、あの豪雨の中、景色に溶けるようにして消えたハルカは死んだという証明もできない。これでは警察が相手にしてくれるかどうかさえ怪しい。


 こんな状況下で自分にどう動けというのか。そんなこと分かるはずもない。教えてくれる誰かもいない。


 大門は柱に凭れながら腰を落とした。冷たい床の感触が伝わってくる。その冷たさが身に染みる。


「結局――何にもできないのか?」


 呟いた諦めは誰もいない部屋の中にむなしく浸透していく。無力感が体積を増して、身体を押しつぶしそうになる。


 大門はその重圧に耐えられなくなって、力なく立ち上がりそして酒瓶の散乱するテーブルへと歩き出した。また脳細胞がその働きを忘れるほどに酔って、記憶を消してしまおうと思ったのだ。思えば、昨日もその前の日もこうだったような気がする。大門の脳細胞がそこで働き始め、昨日と一昨日の記憶を呼び覚ましていく。


 どちらも今日と同じだった。思い出して、そして忘れようとまた酒を飲む。自分が誰のために頭を悩ませ、誰を憎んでいたかなんてことは酔いの彼方へと置き去ってしまうほどに。


 大門は手ごろなボトルの口を咥え、そしてそのまま一気に飲み干した。同時に食道が発火する。まるでマグマでも呑み込んだような感覚だ。大門の体内の器官ひとつひとつを、灼熱が焦がしていく。焦がされた先から、さらに熱く燻った泥が溶けて腹の中にたまっていくような感覚だ。汚泥は腹に蓄積し、そして胃腸を焦がし押しつぶしていく。それは胃腸が焼かれるというよりも、切り裂かれるといったほうが近い痛みだ。


 その痛みに思わず、大門は口元を押さえた。しかし時既に遅し、筋肉が急に言うことを聞かなくなり、大門の身体は異物と感じ取った汚泥を一気に口元まで押し戻し、そして灼熱が大門の口から吐き出されて床で爆ぜた。


 しばらくはそれがどうにも止まらなかった。


 ようやくそれがおさまってくると、少しは頭がすっきりとしたのか思考が鮮明になってきていた。大門は立ち上がり天井を仰いで、瞳を閉じた。


「諦めた……わけじゃ、ない」


 口の中がまだ苦くそして熱いために上手く言葉を発せない。しかし誰に言うでもないのに大門はそれらの言葉をはっきりと言っていた。


「ハルカの、仇はとるさ」


 大門はうっすらと眼を開ける。その眼の焦点は真っ直ぐに定まっていた。





















「彼は異端児だったよ」


 秋瀬はその言葉で顔を上げた。


 顔を上げた秋瀬の瞳に映ったのは、初老の男の背中だった。その背中は秋瀬よりも小さいが、そこから発せられる空気は近づくことさえ畏れ多いほどの殺気にも似た冷徹な空気だ。秋瀬は、壁の絵を見ながらこちらに一瞬たりとも顔を向けようとはしない初老の男――アルヴァ・コーストの言葉には答えずに部屋の壁に掛けられた無数の絵を眺めていた。


 ここは教会だ。そして壁に掛けられているのは子供達が描いた絵である。秋瀬は子供達が絵を描いてその中にいい作品があればわざわざ額に入れて飾るようにしていた。そうしているうちに絵はどんどん増えて、今ではこの部屋の壁を埋め尽くすほどになっている。


 それを見ているのは秋瀬達だけではなかった。秋瀬の視界の中に、頭の先から足の先まで白い装束に身を包んだ者達の姿が映った。それはアルヴァが連れてきた今回の任務に参加するというふたりの新たな補充人員だ。アルヴァは彼らが心強いと言った。だが、秋瀬は彼らを信用できないでいた。顔も見せない人間を誰が信用できるものか。秋瀬は絵をじっと見入っている彼らから目を離し、彼らの姿が視界に入らないような位置の絵を見つめた。


「本来なら幼少の頃に入らなければ討伐部隊には加えられないのだが、彼が我らの組織に入ったのは、少し遅めだったな」


 アルヴァは絵を見ながら壁に沿うようにして歩を右へと三歩ほど進めた。もちろん、秋瀬の顔は見ない。


 秋瀬はアルヴァの言葉の中にある〝彼〟というのが誰だか分かっていた。分かっていたからこそ、〝彼〟――ロラン・ケーニッヒのことを語るアルヴァの背中を見ることができずにいる。


「諜報部隊からの出身だというだけで、私も最初は彼について詳しいことは知らなかった。だから最初はあの青年が討伐部隊に加わることにあまりいい印象は持っていなかったのだ。だが今は彼を育ててよかったと思っている」


 また、〝彼〟という言葉が発せられる。


 その言葉が出るたびに胸の奥に巣食うどす黒い何かが嫌に蠢いた。秋瀬はアルヴァが自分を見ないようにしているのと同じように、彼もまたその姿を避けるように周囲の絵に視線を固定していた。


 ロランの死体は結局見つからなかった。もともと討伐部隊所属の人間は、親族の誰にも知らせずに密葬することが通例となっているが、今回は特殊だ。何せ死体がない。もしかすると、死んだ使い魔に取り込まれたのかもしれないし、戦闘中に圧死したのかもしれない。だが、どちらにしても彼が生きていたという証拠を残すものは、彼が使っていた神託兵装しかなかった。だから棺に入ったのも、そんな戦いの道具でしかない漆黒の剣だけだった。


「討伐部隊の中で実際に戦闘に堪えうるほどの実力にまで成長するものは稀だ。だが、彼はたったの二年で、それをやってのけた。まさしく異端児だよ。教育した私としても鼻が高かった」


 アルヴァはまるで自身のことのようにロランのことを語った。それもそのはず、アルヴァはロランのことをまるで実の子のようにかわいがり、同時に生徒としても一目置いていた。自分の教えたことを忠実にこなし、なおかつ応用も利かせるロランはアルヴァにとって自慢でありまさに理想の弟子だったであろう。


 だからこそ、秋瀬にとってそれは聞くに堪えない話だった。なぜならば秋瀬はロランと同じようにアルヴァから教えを乞うた人間だからだ。だが、同じようにと言ってもロランのように扱われたことなどなかった。アルヴァは、秋瀬には決して心を開くことはなかったのだ。


 それは秋瀬が全てを失い、吸血鬼という存在を知ったあの日からずっと変わらなかった。前任の神父の代わりとして着任したアルヴァは、決して秋瀬の前で笑顔など見せなかった。それどころか、どこか憎しみにも似た感情を常に秋瀬に抱いているようだった。それはもしかしたら、秋瀬を守るために吸血鬼と戦って死んだ前任の神父とアルヴァが旧知の仲だったことに関係があったのかもしれない。


 あの神父が死んだのは秋瀬のせいだと、今背を向けているアルヴァは心のどこかで思っているのかもしれない。


「だというのに、あっけないものだ。彼は先に逝ってしまった。師である私を残して。……残念でならない」


 アルヴァはまた壁に沿って右に移動する。その時、一瞬アルヴァの目が秋瀬を捉えた。その眼差しに込められた怒りを、秋瀬は確かに感じた。


 その眼は「友が死んだ、ロランも死んだ。だというのに、なぜお前が生きている」と無言のうちに語っていた。秋瀬は耐えられずに思わず目を逸らした。


 アルヴァは相変わらず無表情で秋瀬から視線を外し、そしてまたひとつの絵の前で足を止め、背を向けたまま言った。


「近々、捜査を行う。貴様が見たという使い魔についてだ。そのために大幅な人員補充を行った」


「何人ですか?」


 秋瀬がこの部屋に入ってから初めて口を開いた。


「人数は言えない。今回は隠密に捜査を進めるために、少数精鋭で行動してもらう。末端の明確な人数を部隊員同士が知る必要は無い。その代わり貴様らにはこれを付けてもらう」


 アルヴァは秋瀬のほうに向き返り、何かを差し出した。秋瀬はそれを見、そして手に取る。それは銀色の十字架だった。


「これは?」


「発信機となっている。それで貴様らの位置が分かる。ただし、貴様ら同士が知るのではなく部隊を指揮するこの私のみが知ることとなる。常に身に着けておけ」


 秋瀬は十字架を首から下げた。着けてみてこんな小さくて軽いものが首輪代わりかと自嘲気味に思った。


「貴様らは少数のグループに分かれて行動してもらう。グループごとに捜査ルートを設けておいたのでその通りに行動しろ。秋瀬、お前は私の直属に入ってもらう」


 直属、つまりは常にアルヴァによって見張られているという状況。


 ――単独行動は許さないということか。


 恐らくこれは秋瀬を監視する意味も込めてあるのだろう。ロランを見殺しにした人間を自由にはしないつもりだ。


「あとは貴様と共に行動するものをふたり、紹介しておこう。ジョシュア、メイソン!」


 その時、アルヴァの声に反応するように部屋の扉が開き秋瀬と同じような神父服を身に着けた二人組が入ってきた。そのうちのひとりは秋瀬の顔を見るや、口角に吊り上げていやらしく笑った。秋瀬はその人物に見覚えがあった。ジョシュア・ハーカー。かつて秋瀬とともにアルヴァに教育されたいわば兄弟弟子だ。だが、秋瀬は彼をあまり好意的に思ってはいなかった。それはジョシュアも同じだ。ジョシュアは事あるごとに秋瀬を見下し、秋瀬はそんなことでしか優越感を得られないジョシュアを半ば馬鹿にしていた。


 もうひとり、眼鏡を掛けアルヴァのほうを真っ直ぐに見据える真面目そうな人物を秋瀬は知らなかった。手には何か資料を持っている。彼がメイソンというのだろう。


「貴様ら三人に前線を任せる。メイソン、頼んでおいた武器の整備はできているか?」


 メイソンが一歩踏み出して敬礼しながら答える。


「はい。完了しております。アルヴァ様の神託兵装も」


 それは感情を出さない冷たい声だった。その答えにアルヴァが満足げに頷く。


「それならば構わない。あと、秋瀬。貴様が言っていた使い魔を目撃した一般人のことだが――」


「何か進展があったのですか?」


 ああ、と言ってアルヴァがメイソンのほうを見る。メイソンはすぐさまアルヴァに駆け寄り、手に持った資料を手渡すとすぐに元いた位置に戻った。


 アルヴァが資料を捲りながら、読み上げる。


「――名前は大門鉄郎。だがこれは偽名だな。本名因幡悠斗、二十三歳。偽造パスポートの請負人だ。現在広域指名手配されている」


「偽造パスポートの請負人、ですか? そんな人物がなぜ、使い魔と接点が……」


「それを調べるのが貴様らの仕事だ。多少強引な手を使っても構わん。使い魔と、裏に潜む吸血鬼をあぶりだせ!」


 アルヴァはそう言うとそのまま、秋瀬の横を通り抜けて部屋を出て行った。その後ろにメイソンが続く。そしてアルヴァが出て行ったことに気づいた白装束達がゆっくりと、裾を引きずりながら後に続く。


 その時、ふと白装束のひとりと、秋瀬は目が合った。目が合ったといってもフードを深く被っているために直接目と目が合ったわけではないが、白装束がこちらを見ていることははっきりと分かった。秋瀬は改めて、その姿を見る。背丈は低く、ぶかぶかの服を着ている。あまりにも服がその印象の大半を占めているために、もしかしたらこれは白い服が人の形を取って動いているだけなのではないのかとさえ思えてくる。


 そのせいかどこか人間的な意思のない、無気力な人形のような印象を受ける。


 そしてしばらく無言のままにらみ合ったが、やがて白装束は初めから秋瀬など興味がなかったようにゆっくりとアルヴァの行った後を追っていった。


 急に静かになった部屋の中に今いるのは秋瀬とジョシュアだけだ。秋瀬は特に不自然な印象を与えないように、ジョシュアの横を通り抜けようとした。だが、


「待てよ、秋瀬」


 秋瀬はその声に立ち止まり、ジョシュアのほうを見た。ジョシュアは相変わらず、口角を吊り上げ笑っていた。それは彼がいつも秋瀬を見下すときにする笑みだった。


「久しぶりなのに挨拶も無しとは、相変わらずつれねぇなぁ、お前は」


 ジョシュアは秋瀬の肩に馴れ馴れしく手を置こうとする。秋瀬は気づき、それを振り払った。


「お前と話すことは何もない」


 秋瀬は冷たく言い放つ。だが、ジョシュアはそれを意に介さずに、


「冷たい奴だなぁ、お前。ジジィが決めたことなんだからよ。仲良くしようぜ、秋瀬」


 秋瀬はその言葉に顔をしかめた。仲良く、というわざとらしい言い回しが余計に癇に障る。


「余計なことを話している余裕はない、それに馴れ合いもいらない。特にお前とはな」


 秋瀬はジョシュアに背を向けて、そのまま部屋を出ようとした。ジョシュアは苦々しい表情を顔に貼り付け、去っていこうとする秋瀬の背に向けて言葉を発した。


「ハッ。さすが、仲間を見殺しにした秋瀬様は言うことが違うなぁ、オイ」


 その言葉に秋瀬の歩みが止まった。ジョシュアはそれで調子付き、口角を歪めてさらに言葉をかぶせる。


「やっぱりよ。そうやって仲間じゃねぇって言って、泣き喚くロランを見殺しにしたのか? 命乞いをする仲間を嘲って、てめぇだけ生き残ったんだろ。昔、お前を助けて犬死したって言う神父みたいに――」


 ジョシュアがその言葉を言い終わる前に、彼の言葉は止まった。秋瀬が彼の胸倉に力の限り掴みかかったからだ。秋瀬は掴んだまま、ジョシュアを睨んだ。


「……何だよ、殴るのか? 仲間を」


 ジョシュアが挑発する。秋瀬はこの時、空いているほうの拳を強く握り締め今にも殴りかからんとする様子だったが、その言葉を聞いた途端に秋瀬の拳から力が抜けていった。仲間という言葉が、たとえ軽い気持ちで発している人間のものだとしても、今の秋瀬には重すぎた。


 秋瀬が掴んでいた手を離すと、ジョシュアは舌打ちして秋瀬が掴んだせいでよれた胸元を正した。


「半端ものが」


 吐き捨てて秋瀬の横を通り抜けて行く。ひとり取り残された秋瀬は、胸の内に何か熱いものが痞えたようになったのを感じ、ジョシュアに向けるはずだった拳で壁に殴りかかろうとした。


 だが、秋瀬は思いとどまった。殴りかかろうとした壁には子供達の絵があったからだ。秋瀬は拳を力なく下ろす。だが行き場を失った怒りは秋瀬の中で燻り続ける。


 それは守れなかったことへの怒り、殴れなかったことへの怒り、アルヴァの目を真っ直ぐに見つめられなかった怒り等様々だったが、秋瀬はこの身を焦がしかねない怒りの渦から逃げられそうになかった。


「――どうすればいいんだ、ロラン」


 秋瀬は誰もいない部屋でひとり静かに呟いた。


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