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闇の目醒め

 第二章、開幕です。



 その男は、壁に凭れかかってずっと待っていた。


 だが男が何を待っていたのかを知るものはそこにはいない。男は見る人が見れば奇抜でありながらも、人が多すぎるその場所では男の格好を取り上げて気にしようというものは大していなかった。その場所は大勢の人間が集まり、また国際色豊かな人間達が交差する場所――、つまるところは空港であったからだ。


 また一機、空へと向かう白い巨体の呻り声が聞こえてくる。離陸の瞬間に、轟、と空気が震え周囲の風を吹き飛ばして、景色を押し飛ばしながら進むその姿は雄々しき鷹に似ている。しかし精密な機械で動くそれは圧倒的な野生で動く猛禽類よりも、完成された昆虫を思わせる。メカニカルで、生物としての極限に至った翅を持つ彼らの特性を借りた偽装の猛禽類。英知を纏って空を馳せるその姿は、動物達からしてみれば何よりの異形であろう。なぜならば英知を纏うのは人間くらいだからだ。他の動物は自らに巣食う野生に身を任せ、生存競争と常に隣り合わせの毎日は彼らに英知を持たせる暇を与えない。いや、正確には必要ないのだ。


 生存に必要なのは英知ではなく、圧倒的な捕食の力。相手を喰らい、蹂躙する本能的な精神。ぬくぬくと自分達の温室で生きる人類には無い、いわば進化の無い究極。本能という名の究極が、彼らを生かし、また時に殺す。常に死と生が入り混じる混沌の渦の中に身を置き、互いの尾を喰らいあって生きている。


 それが野生、それが動物だ。


 そして今、ひたすらに待っている男のその性格はどちらかといえば動物に近い存在だった。外見はといえば、その身は黒で固められ、細身の身体を締め付けるようなタイトなレザースーツを着込み、その上にこれも黒いコートを羽織っている。


 腰まである金髪を無造作に垂らし、さらに特徴的なのは顔の半分以上を覆う巨大なバイザーをつけていることだ。サンバイザーのつばをそのままサングラスにしたようなものを掛け、視線はその緑色のバイザーに遮られ、誰も男が何を見ているのか推し量ることができない。男の感情が唯一滲み出ている場所といえば、常にニヒルな笑いを浮かべているその口元ぐらいだった。


 動物を思わせるのは、その笑みの内側に潜む狂気だ。もちろん彼の奇抜な格好を見て、微妙に一瞥するものはあれど内に潜むものまで見るものはいない。だが、その狂気は抑えがたく男の内に燻っている。


 その時、男はその視界にある家族連れを見つけた。四人家族のようだ。父親と思われる温厚そうな眼鏡をかけた男性が青い旅行用の大柄なカバンを持ち、その横で待合の椅子に座りながらジュースを飲んでいるふたりの少女は男性の娘だろう。片方はポニーテールに髪を結び、もう片方は対照的にさっぱりとしたショートへアにしてある。母親は娘達がジュースを飲んでいる様子を微笑ましげに隣で見ている。時折母親の口が娘にジュースがおいしいかどうかを問いかける。娘達がうなずく。それを見て父親も笑う。こんな見ているほうが和みそうな光景に、男は残酷な夢想をする。


 ――そこに自分が歩み寄り、まず出し抜けに父親の首を絞める。父親は何が起こっているのか理解できずに致死寸前まで、自分が締め上げられていることを認識できない。やっと理解したときに、父親の眼は焦点をなくし、そして糸が切れたように全身から力が抜け先ほどまで首の辺りをさまよっていた腕がだらんと下がる。


 母親が悲鳴を上げる。男はつまらなそうに、母親の首の辺りを手刀で薙いだ。するとまるで手品のように、母親の首が落ち赤い花が咲く。その様子を見て娘達はあっけにとられたというよりも感情を根こそぎ抜き取られたように固まる。男の手が娘達に伸びる――。


 にや、とまた男の口角が吊り上がる。そして少し俯き気味で、くっくっと声を殺して笑った。それは男の狂気を何より雄弁に物語っていた。


「――相変わらず下品な想像をしているようだな」


 その時、前方から声が聞こえ男は顔を上げた。男は視界の先に三つの影を捉えた。それを影と形容したのは影としか形容できないものだったからだ。ゆっくりと歩いてくる三つの影はいずれも漆黒の衣装を身に纏っていた。


「よぉ」


 手を軽く上げて男は会釈した。


 その挨拶に影のうちのひとりがふんと鼻を鳴らした。それは先ほど男を下品といった声の主だった。彼は足元まである黒い革のようなコートを羽織ってさらに内側にも黒い服を着込んでいることは男と同じだったが、彼は男とは対照的な人目を引く見事な銀髪だった。それもかなり長く、それは男と同様腰の辺りまであった。


「下品な輩に挨拶し返すなど、口が穢れる」


 銀髪の男は吐き捨てるように言った。そしてその鋭い眼光で、男を睨みつけた。睨みつけられて男は少し驚いたよう顔をしたがすぐにもとのように口元に笑みを浮かべなおした。


「いいねぇ、その感じ」


 男が銀髪の男の周りを歩きながら言う。その様子を見て銀髪の隣にいた女がくすっと笑った。顔立ちのはっきりした女だった。陶器のような白い肌に、切れ長の青い眼がなまめかしい視線を放っている。女も同じように黒い服を着ていたがこちらは随分とラフな感じで、男達のように不自然な姿ではなく修道服のような姿だった。髪も長いが男達ほどではない、せいぜい肩までだ。そして最大の特徴はその髪の色だった。彼女の髪は赤色だった。それも染めた感じの赤ではなく、生まれながらの深い赤だった。


 女が笑ったのを感じ取って、男が今度はこちらに面白いおもちゃを見つけたとでも言いたげに近づく。


「よぉ、あんたは?俺の知らない奴だな。Xの眷属か?」


「エクス」とは銀髪の男の名前だった。名前を使われてXは不機嫌そうに男を窺った。女は男の質問に頭を振る。


「いいえ。あたしは彼の眷属じゃないわ。ほら、これ」


 女は懐から一枚の紙切れを取り出した。それは名刺サイズの紙だったが、そこにはただ一文字「Q」とど真ん中に記されているだけだ。


「キュー、と読めばいいのか?」


 女はその言葉を聞いて口元を手で隠しながら笑った。まるで簡単な手品の罠に引っかかった大衆に笑いかけるような自然な笑みだった。


「残念。これは『クイン』と呼ぶのが正解よ。あなたで百十三人目ね、あたしの名前をキューなんて呼んだのは」


 わざとらしくQはため息をついた。


「聞く前に教えてくれたっていいだろ」


「あたしは知りたいのよ、あたしの名前を何のヒントも与えずに読んでくれる人間がこの世にいるのかどうか、ね」


「それでもこれは本来『キュー』だろ。――大体、あんたそうじゃなくてもひとつ前提を間違えてるぜ。俺達は」


「――人間じゃない?」


 言っていたずらっぽくQは笑った。男は台詞を取られて少し困ったように頭を掻いた。


 その通り、彼らは人間ではなかった。その場にいた四人はヒトとは異なる血を糧とする種――いわゆる吸血鬼だった。


「しかし参ったね、どうにも」


 男はQの性格に手を焼きそうだと思い、頭を掻く。


「何が? あたしはあなたのこと少し気に入ってきたわ」


「おお、そいつはありがたいことで」


 男は恭しくQに頭をたれた。その様子をXは無関心に見つめていた。


 すると突然、太陽が何かに遮られたようにQのいる地面が陰った。しかしここは空港の中だ。天上から照らすのは太陽ではなく人工の証明である。Qも男も驚いて上を向く。そして上を向くと男はさらに驚いた。


 そこにいたのは雲のような大男だった。その男も黒衣をまとっている。そうすると黒い巨木のようだった。黒衣を着ているということはこの大男も仲間だということだが、男は今まで男の存在を気にしてはいなかった。目の前の男は巨大でありながら存在感というものについては希薄だったからだ。彼の頭は見事なスキンヘッドで、肌は浅黒かった。その大男はまるで目線を隠すように、紫色の細いサングラスをしていたが、そこから貫くような視線が発せられていることがJには分かった。殺しかねないほどの鋭い怒りが、その巨体から見えない圧力のように放出されていた。


 男はその姿に呆気にとられていたがQは事もなさげに大男を見てそして思い出したように紹介し始めた。 


「ああ、彼の名前はGっていうの。見ての通り大男なんだけど、どうも存在感がなくて、いてもいなくても同じ感じって言うのかな……。まぁ上手くいえないけど、とりあえずそういう子なの」


 仲良くしてあげてね、とQはまるで自慢のペットでも紹介するように言った。Gは自分が紹介されことを認識したのか、本当に動いているのかいないのか怪しい動作で頭を少しだけ下げた。男もそれに併せて頭を下げる。


「紹介などどうでもいい。我々がここに呼ばれた意味を教えてもらいたい」


 Xは感情を込めない口調で言った。男はXのほうを向くと口元にまたも笑みを作り、犬歯を見せながら言った。


「――少し、気になる存在が最近この国で感知された」


「気になる存在?」


 Qが言葉を反復するようにして訊く。男はその言葉に頷いて続ける。


「俺はその街に潜伏する存在を探ろうと調査していた。まぁ、少し血を吸って殺しちまったが、それはいい。全てはおびき出すための策さ」


 Xが汚らわしいとでも言うように蔑んだ目を男に向けた。男は意に介すことなく言った。


「それがあんた達をここまで呼んだ理由だ。まぁ、詳しいことはその場所についてから話すとしようじゃないか」


 そう言って男は背を向けた。どうやら案内するという意思表示らしいと受け取った面々は男のあとをついて行く。歩きながら男は、周りを憚っているのか背を向けたまま呟くようにして急に告げた。


「――場所はK県N市。そこにはハンターの奴らもいる」


 言葉がハンターという単語に当たったとき、一同のもつ空気が変わった。Qは先ほどまでの笑顔とは違う笑みを口元に浮かべた。それはまるで弱った獲物を見つけたときの獣に近い笑みだ。Gはその身体を僅かに震わせ、そしてさきほどまでほとんど表情のなかった口元が、裂けんばかりの悦楽の笑みに移り変わったとき、僅かに後ろを窺っていた男はぞっとした。その中でもXだけはほとんど表情を変えなかったが、その鋭い眼がいっそう険しくなったのを男は見逃さなかった。


「……そう。ハンターがいるのね」


 Qが感嘆したように甘い吐息さえ織り交ぜながら呟いた。


「楽しみだわ」


 Gは何も言わない。しかし先ほどまで無表情だった顔は、醜悪な笑みが張り付いたままの不気味なものに変わっていた。


「ねえ、そういえばあなたの名前、まだ聞いていなかったわね。これからハンターと遊ぶ仲間なんだもの。名前くらいは知っておきたいわ」


『遊ぶ』ところを想像しているのだろう、Qが恍惚の表情を浮かべながら男に尋ねた。男はその質問に口元の笑いをいっそう狂気に歪ませながら答えた。


「――Jだ」


 男ことJが答えると、Qはいい名前ねと言って笑った。


 四つの黒い影は空港の出口に向かっていた。そして真冬の空の下にその姿が晒されると同時に、四つの影は分散してヒトの目には見えなくなった。



















 秋瀬はそこに直立不動で立っていた。


 壁に凭れかかることはできたが、そうはしなかった。秋瀬は神父の姿のまま、人ごみでごった返す空港に来ていた。彼の周りには何人かの諜報員が同じようにして立っている。皆、秋瀬と同じ場所で活動していたもの達だが一様にその顔は緊張で強張っている。


 きっとこれから会う人物のせいだ、と秋瀬はおぼろげに思っていた。皆が緊張するほどの人物といえばそうそういない。秋瀬はこれから会う人物を知っていたができれば会いたくないと思っていた。いつものように教会で子供達と過ごしていたほうがどれだけ気が楽だろうかと感じる。しかし、それをおくびにも出さず秋瀬は真っ直ぐ視線を上げ、これから来るであろう人物にいつでも敬意を表せるように準備していた。


 果たして、その人物がやってきた。


 その人物の姿が見えた途端、秋瀬の身体に緊張という名の電流が走った。それは周りの諜報員達も同じだったのだろう、皆一斉に背筋を伸ばした様子はもしかしたら周りから見れば滑稽に映ったかもしれない。だが秋瀬達はそれほどの敬意を見せなければならなかった。その人物がゆっくりと近づき、輪郭が徐々に明らかとなっていく。


 その人物は秋瀬と同じような衣装を身にまとっていたが、微妙に衣装の装飾が異なっていた。肩には特殊な刺繍が施され、それは秋瀬達が属している組織の最高幹部に近いことを意味している。さらに秋瀬の服と違い、背中の部分がマントのようになっていた。


 その人物が目の前に立つ。それと同時に秋瀬達の緊張はピークに達する。秋瀬は目の前の人物を真っ直ぐに見た。


 それは初老の男だった。髪はもはや全体的に白くなり、真ん中あたりまでは既に禿げ上がっていた。その顔には特に鋭い目元に皺が刻まれ、男の威厳をより増強している。その眼に射抜かれると、諜報員達はまるで内側から激鉄でも打ち込まれたように畏まった。


 秋瀬が再度姿勢を正して言った。


「最高幹部、アルヴァ様。長旅、お疲れ様です」


 ご苦労、とアルヴァと呼ばれた男は応えた。秋瀬はその時、ふとアルヴァの後ろに人がいるのを発見した。白い服で、深くフードをかぶっていたために顔は見えない。


「そちらの方々は?」


 秋瀬は気になって尋ねた。アルヴァが気づいて、ああと応える。


「この子達は私が本国から連れてきた者達だ。今回の作戦の役に立ってもらう」


 彼らはぶかぶかの白い服の裾を引きずりながら、アルヴァの後ろに整列した。整列してから秋瀬は視線を動かして人数を数えた。白装束がふたり、体格はほとんど同じだった。


「そうですか。では、どうぞ。車を表に待たせてありますので」


 秋瀬はアルヴァを車まで迎えようとした。しかしアルヴァはそれを片手を軽く上げて制した。


「それよりも聞きたいことがある」


 秋瀬は嫌な予感がした。それを悟られないように平静を保ってアルヴァと真正面で向き合った。


「ロランはどうした? 来ていないようだが……」


 アルヴァが探るように辺りを見渡しながら言った。秋瀬はその質問に、平静を保とうとしたができなかった。身体から力が抜け、頭は必死にアルヴァが来るまでに構築していた言い訳を結ぼうとするが何も思いつかず、何か言おうとしても口は半開きのままで何も言葉を発することはできない。沈黙がそのまま、最悪の解答となっていた。


 アルヴァが秋瀬のほうを再び見つめる。その鋭い眼には疑念が宿っている。


 秋瀬はその視線から逃げるように俯いて、何も言うことができなかった。


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