咆哮
第一章がこの話で完結します。
刑事、岸辺章介が事件を聞きつけ、現場に辿りついたのは既に日付が変わった未明の頃だった。先ほどまで暗く立ち込めていた空からはいまや地上へと大粒の雨が激しく降り続いている。
パトカーのドアを荒々しく閉め、駆け足で現場の黄色いテープの中に踏み込んだ。
既に事件現場は物々しい空気に包まれていた。それもそうだろう。今回の現場は、今まで岸辺が見てきたどの現場よりも、壮絶だった。
そこはまさに瓦礫の山だった。近隣の住居は完全に破壊され、中の木造建築の居間が覗いている。衝撃で吹き飛ばされてそうなったのか、コタツ机が障子を突き破って、隣の部屋の壁に突き刺さっている。一体どのような衝撃が襲えば、こんな状態になるというのか。岸辺には想像もつかなければ、これが本当に警察の担当できる範疇の事件なのか疑問でもあった。
その光景に唖然としていると、遠くから岸辺を呼ぶ声がした。ふと見ると、現場の真ん中のほうで佐伯が手を振りながらこちらを呼んでいる。彼はこの豪雨の中、傘もささずに佇んでいた。岸辺は慌ててそちらに駆け寄った。
「すいません、遅かったですか」
「気にするな、俺も今報せを受けて来たところだ」
佐伯は頭を掻きながら岸辺のほうをあまり見ずに言った。どうやら佐伯もこの光景の凄まじさに中てられているようだ。確かに岸辺も、今話しかけられたとしても誰の話もまともに耳に入らない気がしていた。それは他の捜査官も同じのようで、惚けているようにこの光景を見ている者達も沢山いた。その者達へと、佐伯が仕事しろと檄を飛ばした。
「……それで、どういうことなんですか? この状況」
岸辺が佐伯に聞くと、佐伯は落ち着き無く顎鬚を触りながら呻りつつ答えた。
「分からんねぇ。どうやら誰かから通報があって駆けつけたらしいんだが……、普通通報なんか無くたって気づくだろ、これは」
確かにそうだ、と岸辺は周囲を見渡しながら思った。これだけおおっぴらに破壊されていて誰も気づかないはずが無い。岸辺は破壊に目を向けるが、その中でも家屋の半分以上を吹き飛ばされたように破壊された近隣の住居に目が行った。
「周囲の民家の住人は? 皆、どうしましたか?」
「それが……それも分からねぇんだが、どうやらこの近辺の住人は全員無事だったらしいんだわ。もちろん他の死傷者も無し」
岸辺はその答えに疑問を抱いた。
「全員避難でもしていたんですか?」
こんな夜に? と言外に付け足した。
佐伯が岸辺の疑問にかぶりを振りながら言った。
「いんや。どうやら町内会の温泉旅行だとかで家族全員出払っているらしい。だが本人達から確認が取れたってわけじゃねぇ。何でも出払っている家族達の親類だか何だかが連絡してきてよ。……ま、その家族も帰ってきたらびっくりだろうが、……良かったんじゃねぇか。不幸中の幸いって奴でよ。命は助かったんだから」
岸辺はそれを聞きながら、少し疑問を感じた。偶然、温泉旅行? それは何だか、あまりにも都合が良過ぎないか? それにその連絡してきた親類というのも疑問だ。どうも都合よく操られているような気がする。
「佐伯さん。少し、周り見てもいいですか?」
構わねぇよ、と佐伯が手を上げながら応じる。岸辺は軽く一礼し、佐伯が立つ場所より奥のほうへと歩を進めた。
そこは岸辺が先ほど見た側よりも色濃く、破壊の爪あとが残っていた。
「――なんだこれは。まるで特撮映画一本撮った後みたいじゃないか」
圧倒されながら岸辺は呟いた。だが特撮映画が破壊するのはセットである。岸辺が知っている特撮の範囲内の知識では、ミニセットを破壊するのが常だ。それを大きくカメラワークで見せてあるだけの、陳腐な使い古された技巧。
だが、目の前の景色はそのミニチュアの破壊をそっくりそのまま当て嵌めてもまだ足りないほどの破壊だった。
道路には鉄球でも転がしたような跡があり、電柱や塀にも、ロケットランチャーで砕いたような生々しい傷跡が残っている。
「……鉄球持ってロケットランチャーで完全武装したテロリストでも来ていたのか?」
冗談を呟いてみるが、こんなに崩壊した跡を見ると笑えない。岸辺は道路の真ん中辺りを見た。
思わず手で口を塞ぐ。
そこには道幅をほとんど埋め尽くすほどの血痕があった。まるで人ひとり破裂でもしたような血の跡に岸辺は軽い吐き気を覚えた。それはもう乾いていたが、こんなに生々しく張り付いた血の跡がこれから先取れるのだろうかと不安になった。
一体ここで何があったのか。佐伯は死傷者はいないというようなことを言っていたが、こんな血溜まりがあるのであれば、死人のひとりやふたりいてもおかしくは無い。
岸辺はずっとそれを見ているのも気分が悪いので別方向を向いた。向いたほうの道路の一部に黄色いテープがさらに張り巡らされていた。岸辺は気になってそちらに近づいてみる。
それが視界に入った瞬間、驚愕に目を見開いた。
そこの道路は陥没していた。しかも中途半端な深さではない、人ひとりはゆうに入れるであろう深さだ。その陥没した穴にはもう既に水溜りができていた。岸辺はさらに近づいて、まじまじとそれを見る。
こうしてみると小型のクレーターのようだった。だが、そう考えると余計にわけが分からなくなる。鉄球を転がしたような跡があり、ロケットランチャーでも放ったような破壊の爪あとがあり、さらには小型のクレーターときた。
――隕石でも墜ちたって言うのか?
考えてから馬鹿馬鹿しいと一蹴する。
「一体何があったって言うんだ……」
答えの出ない呟きを漏らし、苛立たしげに足元に落ちている瓦礫を蹴り上げた。瓦礫は二回三回と地面を跳ね、しばらく転がり、そしてぽちゃんと池に落ちたような音を立てガーターに落ちた。
岸辺はガーターに近づいていく。もちろんこんな場所にボーリングの両端の部分など存在するはずも無い。そこにあったのはガーターのような溝だった。ガーターのような、といってもその溝は遥かにそれより巨大で深い。そこにも水溜りができている。道路を根こそぎめくりあげたらこんな風になるかもしれない、と岸辺は思った。まぁ、ありえない話ではあるが。
岸辺はその溝に近づく。
そうしてみると本当に、下から無理やり持ち上げたような感じさえしてくるほど見事に道路自体から、剥がされていた。
この溝を元々埋めていた部分がもしめくれ上がったと仮定するならば、めくれ上がる瞬間に砕けたのだろう。そこいらにそれらしいアスファルトの残骸が散乱していた。もっとも、地面が地震でもないのにめくれ上がったと仮定すること自体、ナンセンスではあるが。
岸辺は足の踏み場もないほどに荒れ果てた道路を足元に気をつけて歩く。すると、岸辺の目にある物が飛び込んできた。
「おっ」
気づいて、それを拾い上げる。アスファルトの砂塵で真っ白になっていたが、どうやらそれは財布らしかった。
――アスファルトの砂塵にこれほど汚れているってことは、これは今刑事の誰かが落としたものじゃない。
岸辺は何か意味があると確信し、手袋をして中身を調べ始めた。
財布の中には現金三万円といくらかの小銭と、どこかのレンタルビデオ屋のカードと、他にも何枚かカード類が入っていた。
――こんなにカードばかり入っているということは……。
岸辺は勘をフル動員して、その中の一枚一枚を念入りに探っていく。勘が正しければ、恐らくこの中には決定的な何かが入っているはずだった。
果たして、それは見つかった。
厚みのあるどこかの店のブラックカードと、安っぽい紙製のポイントカードの間にそれはあった。
岸辺は取り出し、それを眺めた。それは免許証だった。そこには顔写真と、名前と生年月日――つまり有力情報が記されている。アスファルトの砂塵が振る前にこの財布が落ちていたと仮定すれば、もっとも今回の事件に近い人間だといえる。
岸辺はその顔写真をじっと見つめた。
えらく不機嫌そうな青年がその写真には写っていた。髪は染めておらず、顔立ちも普通だったが、何か人生に憔悴しきったような印象を受ける目が特徴的だった。
その横に記された名前を岸辺は読み取った。
「――因幡、悠斗……」
岸辺はこの時知らなかったが、それは大門の本当の名前だった。
大門は恐怖が自分の間近まで追いすがっているような気がして、灰色の雨に煙る景色の中を走りながら振り向いた。
振り向いた瞬間、足を縺れさせ、その場に転がった。不意の転倒で手をつくこともできなかったために頭から倒れるような形をなり、雨で汚れた道路に額を強く打った。大門は額を押さえながらも、その痛みにばかりかまけてもいられない状況を思い出し、また走り出す。だが、その数十メートル先で緩やかに減速し始め、そのうちに立ち止まり、傍らにあった電柱に手をついて体重をかけて俯いた。
身体が多量の熱を帯び、寒いぐらいの夜だというのに全身に汗を掻いている。あまりにも走りすぎたために、肺は空気を取り込もうと決死で、胸が常に圧迫されているような感覚だった。立ち止まり、肩を上下させ息を整えていると、雨がすぐに大門の服を濡らし、走って疲れた身体は余計に重くなった。
大門は俯きながら考えていた。
――あれは一体何だったのか。あの場で見たものは本当に現実の出来事だったのか、考えれば考えるほど現実では説明でいない事項が多すぎた。しかし、あれがすべて夢だとしたらどこからどこまでが夢だったというのか。
右手を見る。そこにはまだ手に絡み付いて離れない銃があった。忌々しいことだが、目の前の銃だけは現実だという確信があった。ならば、ハルカを尾行していたことも現実なのだろう。
だとしても、そこから先の出来事が現実だとは信じがたかった。――黒服の男ふたりがハルカを惨殺し、そして殺されたはずの死体から腕が出てくるなんて使い古されたホラーのようなシナリオだ。そんなものは決して現実などではない、と論理的に思考する自分が思う一方で、先ほど感じた恐怖がまだ薄れない身体は、冷たい雨だけのせいだけではない震えに苦しみ、それがまた現実であったことの証明でもあった。
「なん、だったんだ。なんだったんだよ、あれは……」
口の中で何度も同じ言葉を呟く。それは呟いたからといって解決しない言葉の羅列だった。
その時、ふと後ろに視線を感じ、大門は振り返った。しかし、後ろには誰もいない。考えすぎか、と思いそろそろ歩き出そうとすると、今度は視線などではなくもっと具体的なものを感じた。
声であった。
消え入りそうなほどのか細い声が雨を隔てた闇の中から聞こえてくる。大門は思わず、また振り向いた。すると、さらにはっきりと声が響いてくる。
「……い、ん――だ、い」
それは聞き覚えのある声だった。闇の中からそれは徐々に姿を現していく。それにつれて声の輪郭もはっきりしてきた。
「だい、もん――さん。なの……?」
聞き間違うはずが無かった。その声はハルカのものだった。大門がそう認識すると、闇の中からハルカの姿が現われた。ハルカの姿は先ほどまで尾行していたときの服装と変わりなかった。それを見て、大門は安堵の息をついた。先ほどまでの出来事がすべて夢だったのだと思ったのだ。ハルカは殺されてなどいなかったし、化け物にもなっていなかった。そう考えると、ハルカが自分を監視していたというのも夢だったのかもしれないと思えた。今ようやく自分はこうして本物のハルカと出会うことができたのだと、大門は思った。
ハルカはゆっくりと近づいてくる。大門が近づくべきかと悩んでいると、唐突にハルカの身体が糸でも切れたように前に倒れた。
大門は驚いて、ハルカに駆け寄った。駆け寄って、そして倒れているハルカの手前で立ち止まった。そして僅かに後ずさる。それは恐怖からの行動だった。大門は見てしまったのだ。
ハルカの背中には生々しく、まるで引き裂かれたような傷口があった。それはかなり大きく開いており、傷の中は人のように赤い血が流れているわけではなく、まるで影のような暗闇があった。
大門はさらに後ずさる。すると足元で声が聞こえてきた。
「……だい、もん――さん。ワタシ――」
今にも消え入りそうな声に、覚えず大門は逃げかけた足を止め、そしてゆっくりと、ハルカの傍へと歩み寄った。普通なら逃げているだろう状況で、大門の足が止まった理由を、彼自身よく分からなかった。
ただ、聞かなければならないような気がしたのだ。
ハルカは近くに大門がいるのを知ってか知らずか、ほのかに笑みを浮かべ震える唇をかすかに動かして言葉を紡ごうとする。
「あ、ダイモンサン。私、ね。謝らなくちゃ、イケナイ、コトが……。あ、アナタ、ワタ、シハ――」
弱々しい声は、段々と最初にハルカが大門の家を訪れたときの片言の感情が含まれない声になっていく。大門はその言葉を聞いた途端、何か途方もない感情に打たれ自分でも知らないうちにハルカの傍らに屈んだ。
それからハルカは大門との会話をひとつひとつ、反芻していった。どうでもいい会話ばかりを、ハルカは一字一句間違えることなく忠実に繰り返していく。それはまるで、ハルカが大門とすごした日々の焼き増しを、もう一度感じているかのようだった。
ハルカの中では大門の存在がどんなものだったかを、今傍らにいる大門は推し量ることができない。しかし、ただの依頼人と仕事人だけに終始した関係ではなかったのだろうと思う。
ハルカは大門と交わした雑談の日々を繰り返す。
その中に、大門はハルカを疎ましいと感じた日々の中にも、ハルカが来ることに少しばかりの楽しみを見出していた日々もあったことを知った。
大門はいつかハルカの正体を考えたことを思い出す。もしかしたら本当の正体は、ただ話し相手が欲しかっただけの少女だったのではないかと今は思えてきていた。確かに、ハルカは人間とはかけ離れた存在なのかもしれない。しかし、あの日々のハルカの姿は、何の打算も無く、まるで友人の家に遊びに来るような感覚だったのではないのか。それを自分は、変に勘繰ったりしたのではないのか、と。
ハルカが過去の時間を語り終える。ハルカは語り終えた後に、大門のほうを見て、いつものように歯を見せて笑った。それはいつも彼女が見せていた、何の打算のない無邪気すぎる笑顔だった。
「たのしかったよ」
はっきりとした口調でそう言った。それで大門は安心をした。それだけはっきり話せるのなら、それほど傷は疼かないのだろうと。きっと見た目ほど深くないのだと。
「……そうか」
大門もほっと安堵に綻んだような笑顔で言った。それよりも大門はハルカに謝らなければならないことがあった。尾行したこと、疑ったこと――。依頼人を疑うのは信頼が重視されるこの稼業では致命的なことだ。謝って、そして明日からも来て貰おう。いつも通りの、あの時間に。
だが、大門はそこで気づいた。気づかなければよかったかもしれないことに。
タノシ、カッタ……?
「ちょ、ちょっと待てよ。何で過去みたいな言い方するんだよ」
大門はわざと笑いを混ぜながら、そう言った。笑っていないと、迫っている現実がひどく近くに感じられそうだったからだ。
だが、ハルカはその真意に気づいているのか、小さくかぶりを振ると、急に眼が焦点を失い、ひどく低い声で、そして日本語の発音でゆっくりと言った。
「――ゆるシテくれると、うれシイナ。こうヤッテ、サキニ、いなくなっちゃう、こと、を――」
ハルカの声は段々と切れ切れになって、言葉同士の速さや発音もてんでバラバラで、まるで音とびの激しい蓄音機のようだった。
大門はハルカを揺り起こそうとした。先ほどの言葉の意味と、そしてハルカが今にも眠りそうな顔をしていたからだ。
ハルカは気づき、ゆっくりと大門を見て、そして静かに、いつもの打算のない笑みで言った。
「マタネ」
大門はその言葉を聞いた瞬間、ハルカを見ることはもうないのだと悟った。それはハルカがいつも別れに使う言葉だったからだ。
「さよなら」という言葉を知らないのだろうか。
「また」なんて、会えない相手に言えばもっとも辛いその言葉を、その赤い眼の少女は最期に口にして、そして、消えた。
文字通り消えたのだ。灰色の景色の中に溶け込むようにして、彼女は一筋の影となり地面に沈み込むようにして消失した。大門の手には何一つ残らなかった。ハルカが先ほどまでいたという現実を塗りつぶすように、灰色の雨が容赦なくハルカの残像を掻き消していく。先ほどまで掴んでいた肩の感触も、消失の後には綺麗に消え去っていた。
激しい雨の音が、耳の奥にまだ染み渡っていないハルカの言葉を打ち消していく。意味のない雨音が、意味のある日々を殺していく。
大門は肩をつかんでいた掌を見て、そして握り締めて地面へと打ちつけた。何度も、何度も、己の無力を呪うように。拳が破れ、水溜りに血が滲んでもその行為をとめることはできなかった。
――あの時逃げなければ、最後まで見ていれば、ハルカは死なずに済んだのか?
答えの出ない問いが巡る。答えを与えてくれる人間など、もういない。答えなんて出さなくていいといってくれる人間もいない。
彼は独りだった。
血と泥で汚れた拳を止め、そして力なく立ち上がって空を見上げた。
大門は雨粒を落とす空に向かって叫んだ。景色を埋め尽くす雨粒は容赦なく大門の身体に降り注ぐ。まるで罰でも与えるかのように、きつい衝撃が身体を打った。だが、今の大門にとっては雨のほうが好都合だった。雨が絶え間なく降り続いてくれれば、ハルカのいた地面を涙で汚すことも無い。
大門は叫んだ。喪失の悲しみをかき消す雨が奪い去りきれないような巨大な叫びが、彼の身体を震わせた。雨は容赦なく、その叫びを殺す。
叫び続けた。その慟哭の声は、豪雨と共に龍の咆哮にも似て、漆黒と灰色に染まった夜に残響した。
次回からは第二章「復讐鬼」が公開されます。一週間ほどブランクが開くと思いますので、ご了承ください。
第二章からはさらに戦いが本格化します。お楽しみに。