戦いの果て
ロランがどうなったのかが描かれます。
ロランが目を覚ましたのは、秋瀬が龍の眉間に何度も斬激を入れているときだった。
龍の動きが激しくなっていることは中からでも充分に知れた。その中でロランは右腕の感覚を確認するように指先を動かした。痛みはあったが幸運にも打ち身程度だったのだろう。指先は僅かながら動いた。
「……良かった。まだ右腕は残っているみたいだ」
今度は左腕の感覚と、両足の感覚を確認しようとするが、痛みがその試行を断念させた。しかも痛みだけではない。左足に関しては、膝から下があるのかすら分からなかった。
どうやら、まともに動くのは右腕だけらしい。
ロランは暗闇の中で手を開いたり閉じたりした。その過程で、掌にまだ武器が残っていることが分かった。
ロランは痛みに耐えるように、奥歯を強く噛み右腕を無理やり上げる。手元がまったく見えない暗闇の中では上がっているのかどうか定かではなかったが、動かせるのが右腕だけである以上、信じるしかない。
ロランはレイピアを構えた。
レイピアは元々敵を突くために特化した武器だが、ロランの持つレイピアに似た神託兵装は、斬ることにも充分耐えうる代物だった。
ロランは構え、そして突きの態勢に入った。
――内側から敵の中枢を裂いて、そのまま切り裂く。
可能かどうかは分からなかったが、今のままでは龍の養分となりかねない。どのみちこれしか生き残る術はない。
ロランはそこで薄く笑った。
「――これで生き残れなかったら、どうしましょうかね」
冗談にもならない台詞を、微笑交じりに言い放つ。
ロランは息を吸い込んだ。龍の身体の中だというせいか、やけに血なまぐさい匂いまで一緒に肺へと侵入したが、そんなことに構っている暇は無い。
息を止め、精神を研ぎ澄ます。
「――シッ」
そして細く息を吐くと同時に、中枢だと思われる部分へと、刃を突き立てた。思ったより深く入り込む。もしかしたら助かるかもしれない、という思いがそこで僅かに過ぎった。
「どうしましょうかね、秋瀬さん。助かったら――」
ロランは目を閉じながら、歌うように言った。
「そうですね。秋瀬さんのこと、僕少し気に入ってきましたよ。……そうですね、今度会うときには――ってことで、お願いしますよ」
ロランはそう言ってから、目を見開いた。そして、突き立てられた刃を抜くことなく、そのまま横薙ぎに斬り裂いた。
幸運だったのは、ロランが中枢だと信じた場所が、まさしくそうだったことと、龍が外側の秋瀬との戦闘にばかりかまけていたおかげで、内側のロランに対して注意を払っていなかったことだ。神託兵装が破損していたり、龍の口に呑まれる前に手放していたりすればこの策は成功しなかっただろう。
もちろん秋瀬はそれを知る由も無い。龍が活動不能になったときにはまだ秋瀬は動けず、しばらくは龍の眉間に膝をついたまま、周囲の様子を窺っていた。そして助けに諜報員がやってきた頃に、やっと秋瀬は立ち上がれるようになり、龍の横に立っていた。
駆けつけてきた諜報員はなぜかジャージ姿でまるでジョギングでもしようといった感じの服装の上に神父服を羽織っていた。
「秋瀬神父。ご無事でしたか、神託兵装は……」
「ああ。使い魔の頭に刺さっている。しかし、あれはもう使い物にならない。それよりも、ロランが使い魔に呑み込まれてしまったんだ。助けてやってくれないか」
諜報員は承知し、まず神託兵装を龍の頭から抜き取ろうと、硬化が解けてもう白くなった頭に上ろうとした、その時だった。
突如として頭が崩れたのだ。腕達は結合を外し、重なり合っていたものがすべて崩壊した。残ったのは巨大な、腕ばかりのスクラップだった。その中から闇に紛れるように何かが、飛び出した。秋瀬はそちらを見る。
それは影だった。人間と同じ姿か達をした真っ黒な影が、スクラップの中から現われ、秋瀬のほうを一瞥してから逃げ出すように這っていく。その影は脚に当たる部分があるにも関わらず、どうやら歩けないようだった。
秋瀬はそれを追いかけようとするが、その瞬間またも鋭角的な痛みが秋瀬の身体に走った。その痛みに耐え切れず、秋瀬はその場に倒れ伏した。
諜報員がそれに気づいて、慌てて駆け寄る。
「……私のことは、いい。それより、も、あれを……」
秋瀬は影の行った方を指差した。だがそこには最早何もいなかった。きっと幻覚だとその諜報員は思ったのだろう。秋瀬の発言は気にせずに、秋瀬を傍の塀へと凭れかけさせ、作業を続行した。
諜報員は使い魔の頭だった場所から神託兵装を抜き取る。その漆黒の刃は、ほとんど磨り減ってもとの姿だった頃の原形を留めてはいなかった。
次に諜報員は、使い魔の中を探り始めた。
その時である。
「……うわ、これはひどい」
諜報員が何かを軽蔑するような口調で、使い魔の開いた口の中を見ながら呟いた。そうしている間にもぼろぼろと龍だったころの形は崩れて行き、大量の腕が生気を失いだらしなく垂れ下がって行く。諜報員は肩に寄りかかった来た腕を汚らわしげに払ってから、おもむろに小型の無線機を取り出し周波数を合わせ始める。秋瀬は諜報員が何をしているのか理解できなかった。そんなことよりも早くロランが無事かどうかを知らせて欲しかったからだ。
ザッ、という雑音が疲労で意識を失いかけている秋瀬の耳にも届く。無線機が繋がったのだ。
「あ――こちらE34。N市教会所属諜報員であります。――はい。討伐の終了を確認。目標は吸血鬼ではありません。――はい、未確認ですが、恐らく使い魔かと。周辺地域の情報封鎖と洗浄をこれから行います。……ええ。まずは使い魔の死体の回収を頼みます。はい、かなり大型なので、それだけでは足りないかと」
その通信の後、まもなく緑色の大型トラックがやってきて、中から数人の諜報員の仲間が出てきた。秋瀬はそのトラックの色を見て、先日死んだトラック運転手の乗っていたものと同じだということに気づいた。
先ほどの諜報員が今しがた来た仲間達に現場の説明をたらたらとしている。
――説明はいい、早くロランの安否を知らせて欲しい。
その時、またもザッ、という雑音と共に通信が入った。
「……はい。負傷者二名。一名は重態ですが意識はあります。ええ、すぐに救援を。――はい。たった今、残りの一名の死亡を確認――」
諜報員は秋瀬に目配せしながら淡々と語る。切れかけていた意識が、諜報員の最後の言葉に反応して僅かに持ち直した。
――今、この男はなんと言った?
「はい。一名死亡。――状況ですか? 駄目ですね、個人の判別は不可能です。まるっきり人間の原形を留めていません。……はい。神託兵装のみ確認できます。はい。繰り返します、一名死亡――、一名死亡……」
――そんな、
「馬鹿、な……」
秋瀬は沈み行く意識の中、絶望的に呟いた。
影は這い回り続けていた。
もはや影には自分が使い魔であったことなど認識することはできなかった。ロランに中枢を砕かれたせいで認識するための器官を失っているのだ。
だから今の影の行動はほとんど何の意味も無かった。ただ、僅かに記憶に残っているプログラムされた行動を反芻し、そして模倣しているだけだ。そのプログラムされた行動とは、主に自分が今まで奪い取った獲物の血を譲渡することだった。
それだけのために、影は拙い速度ながら必死で動き、一歩一歩着実に進んでいた。今のままではいずれ死ぬことは影自身にも知れていたが、そんなことは大した問題ではなかった。どうせ、搾取された瞬間に、死ぬようにできている身体だったからだ。
そしてこの身体は分解され、スクラップになる。そしてまた主によって新しく造られ、また主のためにこの身を犠牲にする。
いや、正しくは使い魔には犠牲という概念は無かった。ただ、使命を全うすることしか、教えられてはいないのだ。
影は這い進む。空は先ほどよりもさらに暗く立ち込め、ちょうどよくその身体を闇に隠してくれた。
月ひとつ無い夜は、影が目立たずに行動するにはもってこいだ。
このまま進めば、無事にたどり着ける。
そう認識しようとした、その時だった。突如、影の内部から激しい衝撃が突き上げてきた。影の身体が、その衝撃が段々と強くなっていくに従って風船のように膨張していく。影は人型をとったつもりだったがこんなにも膨張してしまっては人型どころかどんな生物の形も真似できない。このままでは進めない。そう考え、形を戻そうとするが内側からの力は思いのほか強く、影は見る見るうちにさらに膨張し、ついには膨張をこして痙攣したように震えだす。
もともと使い魔には、獲物のパーツを利用して自己を増殖する働きがある。それが先ほどの龍のように巨大な姿を現すためのメカニズムとなっている。そのように自己の中に無限に近い保管庫があるにも関わらず、膨張しているのはなぜなのか。それは影自身にも見当がつかなかった。
みしみしと身体の内側から、外側へと破ろうとする力を感じる。それは鋭角な痛みとなって影に伝わり、影はたまらずその場に倒れ伏した。
その瞬間、遂に影の身体は破裂した。
残っていた僅かな血やスクラップの腕が道路にばら撒かれる。しかしこの破裂は単に影が、獲物を吸収しすぎたことが原因ではなかった。
影が破裂した瞬間、その身体を突き破って出てきた物があった。それは影よりも黒い、漆黒の何者かだった。それは影の背中を突き破り、両の手を使って影の身体を引きちぎりこじ開けて、無理やり出てこようとする。
影がそれに対抗しようと、身体の密度を厚くし皮膚を硬質化しようとするが既に手遅れだった。
漆黒の何者かは、影から身体の半身以上を既に出していた。こうなっては今更影が何をしようが関係が無い。漆黒の何者かは、影の身体を突き破り、蛹から孵化した蝶のように出現するや否や、もはや不要になったようにその身体から乱暴に這い出してくる。そのときに影の感じた痛みは尋常ではない。自分の内側から出てきた者が自分から這い出る瞬間の痛みなど筆舌に尽くしがたいものだ。
かくして、漆黒の者は影から孵化しそしてすぐさま飛び出し、闇の中へと消えていった。
影は漆黒の者が行った後にも痛みで動くことができなかった。いや、痛みだけではない。これは純粋に身体の大部分が、致命的な損傷を受けているからでもあった。一度殺されかけ、さらに今度は内側から痛めつけられたのだ。影の内部のほとんどの機構はもう使い物にならなかった。
それでも影は自分自身を練り直した。膨張して破裂したままの姿では歩くことも儘ならないからだ。影は歩行に適した形を自身の中に探す。いくら移動に適していても、龍のような姿はもう造れない。それだけの材料が、もう影の中にないのだ。
影は自身に残るものを最大限表に出し、今自分自身がもっとも移動することに慣れている形態を模索し、そしてそれを見つけ出した。
影は形を変えていく。エネルギーを大量消費する硬化能力を解き、影は何度も歪曲しながらやっとその姿を定着させた。
その姿は「ハルカ」だった。
影はハルカの姿に変異を終えると、立ち上がった。立ち上がって、すぐによろめいた。この身体で歩けるエネルギーも残り少ない。
その時ハルカは自分へと不意打ち気味に何か、軽い衝撃が上から落下してきたことに気づいた。ハルカは空を見る。するとまた衝撃が顔にかかった。どうやら空から降ってきているらしい。
ハルカはそれを「雨」というものだとやっと認識した。それはハルカがそこでじっとしている間にすぐに、目の前の景色すら灰色に染める豪雨になっていった。
ハルカは塀に手を付きながら、雨の中ゆっくりと歩き出した。