黒龍
使い魔との対峙、未知との戦い。話がどこに転がるのかドキドキしながら書きました。
その一閃は寸分の狂いも無く、無防備な背中を斬り裂き、突きつけられた切っ先は真っ直ぐに、心臓を刺し貫いた。
その様子を、大門はすべて見ていた。血が迸り、空気が異常に赤くなったような錯覚を感じる。このまま息を吸い込めば、肺の中にまでその赤が侵食してきそうな感覚さえしてくる。
現に今、息を吸い込むと同時に血の臭いまで鼻腔から侵入して、堪らず大門は嘔吐した。それは、周囲の空気があまりにもおぞましい臭いであふれている事だけが理由ではない。目の前の光景が大門の精神を揺さぶっているせいだ。
大門の視線の先――秋瀬とロランが剣で殺害したその対象、今も血を撒き散らし続けているその対象は、紛れも無く、人間であるはずのハルカだったからだ。
金髪の男がハルカの身体から刃を抜き取る。それと同時に、左胸から新たに血が噴出し、細い身体が揺れた。秋瀬達は何も言わず、逃げ去ることもしない。ただじっと、観察するようにハルカの変わり果てた姿を見つめていた。
「どうなっている。なぜ、変化しない?」
秋瀬が忌々しげに言い放った。目の前のハルカの遺体は血を撒き散らす醜悪なスプリンクラーと化している。こんな人間の尊厳を無視した殺し方をしたのは、ひとえにこの目標を吸血鬼だと思っていたからだ。ならば、マニュアル通りに殺すのが妥当だろう。今回ばかりは運転手のときのように不確定な要素は無い。諜報員から得た正確な情報の下、万全の準備で行った討伐だ。間違いなど、あるはずが無い。
――あるはずが無い、のだが。
なぜ、こうも変化しないのだ! と秋瀬は心の中で苛立たしげに叫んだ。だが、心の中で言ったと思った言葉はそのまま口に出ていたようだ。秋瀬のほうから見て、奥にいる大門がそれに激しく反応して、よろめいた。そのまま情けなく尻餅をつく。
秋瀬はそれを見て舌打ちする。
ロランの言っていた「気になること」とはこれのことだったのか。確かに秋瀬は民間人を傷つけるなと言った。しかし、それは放置しろという意味ではない。
――面倒なことを。
秋瀬はロランを睨んだ。しかしロランはそれに気づかない。ただ難しそうな表情で、ハルカの遺体を眺めている。
確かに今はこちらが優先だ、そう思い秋瀬も見るが、依然変わった様子は無い。ただ、おかしいことと言えば、この死体はどうしてこんなにも傷を負って倒れていないのか。
秋瀬達の前には、立ったまま絶命したハルカの遺体がある。後ろから切りつけた衝撃で倒れてもいいようなものだが、まったくバランスを崩さず、それは立ったまま存在した。
「……もう一度、斬りつけましょう」
そう言ったのはロランだった。秋瀬もそれに頷いて同意し、もう一度剣を構えた。今度は大剣で真横から討つつもりだった。剣を構えると同時に、ずしっと重くなったような感覚がする。これで相手が倒れなかった場合、どうすればいいのか、秋瀬には見当がつかない。
動悸が荒くなっていくのを感じる。それを鎮めていくように、ゆっくりと肺の中の緊張に適さない空気を対外に吐き出し、唇を強く結んで息を止めた。
「――ヒュッ」
細く切ったような息はふたり同時のものだった。振り下ろす瞬間に一気に息を吐き、腕は剣の描く軌道に吸い込まれるようにして力を送る。空気の壁自体を切り裂くように振るわれた一閃は、果たして、目標の身体を砕くことは無かった。
最初に違和感を覚えたのは秋瀬だった。
まったく剣の重みを腕に感じなくなったのである。次いでロランも異常を感じる。ロランは秋瀬の反対側から切り裂くつもりだった。秋瀬はハルカの左側を斬り、ロランは右側から斬る。そうしてハルカの身体は輪切りになるはずだった。しかしそうはならなかったのは、やはり、その刃が止められていたからだろう。
他ならぬハルカの手によって、漆黒の刃は空気に絡め取られたように静止していた。素手で止められた刃は、その皮膚をまったく傷つけず、もともと皮膚に接着でもしてあったかのようだ。
――ありえない。
秋瀬は心の中で呟く。掌で刃を止める人間など。ましてやハルカの容姿は少女のそれだ。
しかし、ハルカは秋瀬達が剣を振るった瞬間に、腕を動かしてまるでボールでも弾くかのように掌をひらいたまま刃の軌道にかざし、そして無傷で止めて見せた。
秋瀬は止められている刃の先を見る。次いで驚愕が秋瀬の脳髄を揺さぶった。なんと秋瀬の振るった神託兵装のほうが僅かに刃こぼれを起こしているのだ。そしてその刃が当たっている皮膚は、黒く変色していた。
「――硬化能力! やはり吸血鬼か!」
秋瀬は後方に飛びのきながら叫んだ。ロランも同時に後ろに飛ぶ。着地した場所は大門の近くだった。大門はロランが自分の真横に飛んできたせいで、余計に腰に力が入らず、立ち上がって逃げることもできない。ひぃ、と情けない悲鳴が大門の口から出た。その時である。
大門の耳にある言葉が届いた。大門は顔を上げ、どこから聞こえてくるのかを探る。その間にも、秋瀬達は身構え、ハルカを睨み臨戦態勢に入る。
「……イモン、……ン」
また聞こえた。大門はもしやと思い、変わり果てたハルカのほうを見た。それは依然として見るに堪えない姿だったが、そこから今度ははっきりと聞こえてきた。
大門は目を見開いた。
「……ダイ、モン――、……サン」
それは紛れも無い、ハルカの声だったからだ。くせのあるしゃべり方からしても間違いは無かった。いまや原形を留めていないハルカが、いつもと同じように自分の名前を呼んでいた。
大門はその声で俄かに立ち上がった。
秋瀬達は剣を構える。今度は失敗しない、必ず討ち取ると言う断固たる意思を持って。大門は彼らのただならぬ様子を見て思わず叫んでいた。
「ま、待ってくれ! 何かの間違いだ! あんたらは一体、何をしようとして――!」
その時、制止の言葉をある音が遮った。
それは実のところ声であったが、人が聞くにはあまりにも醜くひび割れていたために、〝音〟としてでしか認識できなかった。地鳴りの如く響いた音は、雷鳴のように長く耳の中で残響し続ける。いや、残響どころかその音は際限なく響き続け、しかし人の耳で聞くには雑音でありすぎたために、最早今聞こえている音が何秒前かの音なのかそれとも今本当に聞こえている音なのかすら判別がつかない。
大門は脳が揺さぶられ続けているかのような、衝撃を感じていた。大門の視界では、まるで永久に動き続ける振り子の一部になってしまったかのように世界が廻り続けていた。
秋瀬は耳が片方無いためか、大門ほどの影響は受けなかったものの、その音には少なからず苦痛を感じていた。眉間にしわを寄せ、ぎり、と奥歯を強く噛んでそれを抑え込んでいる。
「雑音を止めろ! 化け物ッ!」
秋瀬は音源と思われるハルカの下へと駆け出した。
その時、変化が起きた。雑音が止んだのだ。しかし、それは平穏になったと言うわけではなかった。
雑音が止むと同時に、ハルカの身体に変化が現われた。切り取られた首を捜すように、腕が首の辺りを右往左往する。そしてそれと同時に、首の断面から肩口にかけて大きな皹が音を立てて入った。岩を打ち砕いたような皹は見る見るうちに全身へと侵食していく。
さすがの秋瀬もその様子に面食らったのか、ハルカの一歩手前で足を止めた。ロランはその様子を動かずにぼんやりと見、大門は理解することができずに、揺れる視界の中にその光景を入れていた。
罅割れは完全にハルカの身体を覆っていった。その罅割れが進めば進むほどハルカは苦しそうなうめき声を上げる。やがて、その姿が、罅割れのせいではっきり見えなくなるまでその侵食は続き、そして、ついに全身が覆われた瞬間、首の辺りが音を立てて割れた。
「――ア――!」
頭部から切り離されたハルカの首はこの世ならざる痛みに絶叫する。それは見ていた秋瀬達にとっても痛々しい光景だった。
ハルカの身体を破って何かが出現していく。それは最初真っ白い腕の出現から始まった。一本、脆ささえ感じさせる真っ白な腕がハルカの首から出てくると同時に、肩のほうからももう一本、腕が出現する。そしてさらにもう一本、さきほどの腕の出現に併せるようにして秋瀬に斬られた傷がまだ生々しく残る背中のほうから出てくる。さらにもう一本、もう一本と、次々と白い腕が出現し、ハルカの身体を覆っていく。やがて、それらは絡み合い、形を成していく。それらが出現すればするほど、ハルカの身体は卵のように砕けていった。
何本もの腕がシュルシュルと手際よく結ばれていく。そして今、一際強く、産声を上げるように一気に何本もの腕が、花開くようにサークル状の形を描いて、蠢きながらハルカの腹から出現した。その瞬間に押し出されたハルカの欠片が、大門の近くまで飛んできた。
それは、人の皮膚などではなかった。ハルカの着ていたワンピースの色が張り付き、本当に卵のような材質の欠片だった。
大門は声を上げようとしたが喉に何かが張り付いたようになってただ口を開けただけだった。
腕達は絡まりあい、結び合ってひとつの形を作り上げようとしていた。先端部に当たる指と指が絡まりあい、三角形を作り出す。それに上から何本もの腕が絡まりあったドーム上の物体が被さり、まるで蛇の頭のようになった。そしてそれらを支えるように、何本もの腕が円柱状になり、まるで首のように、先ほど完成した頭を支えた。さらにそれらが自重で倒れないように、何本かの腕はその手刀でアスファルトの地面に穴を開け、そこに腕を潜り込ませ根を張っていく。
そうしてできたのはまるで龍のような形のオブジェだった。首が地面から伸び、地面に植物のように根を張る腕達は常にゆっくりと脈動している。まるで大地から養分を得る巨大な植物のような光景に秋瀬達は息を飲む。
それは頭を上げ、前後を交互に見渡して秋瀬達を観察した。それには眼が無かったが、腕達がわざと隙間を空けたとしか思えない空洞が頭にふたつ開いていた。恐らくはそれが眼なのだろう。
そしてそれは顎に当たる腕達を開いて、頭を空に向け、先ほどの雑音と同じ声で咆哮した。
いまや龍の形になってしまったそれから発せられる声はまるで本物の龍の叫びのようだった。その声は漆黒の闇夜に遠く響き渡っていき、静寂を破壊していく。
卵から産まれた龍が発したその声はもしかしたら産声だったのかもしれない。しかし、そのあり方からして実のところそれはあり得なかった。
なぜならば、それが生まれいでし時は常に新生にあらず、常に再生であるからだ。無数の人間のスクラップからできた生きる機械。血を集め、破壊することに特化した生命体としてあってはならぬ姿かたち。人という生物が得た二足歩行、それによって自由になった腕は創造を生み出した。しかしここにいる龍は、その創造を全身に纏って存在する歪んだ神獣だ。
人の英知を纏った神など存在しない。目の前のそれは、神ではなく、悪鬼の類に違いない。秋瀬は強く、剣を握りしめる。目の前の光景に恐れを抱いている自分を奮い立たせるために、強く強く握った。
ロランはぼんやりと龍の姿を見つめている。恍惚ともいえるかもしれない理性の消し飛んだその表情から唇が僅かに動いた。
「これ、が――」
「使い魔、か」
後の言葉を秋瀬が引き継ぐ。龍の姿をした使い魔はそれに応えるように暗い空へとさらに咆哮した。
秋瀬は腕にさらに力を込めた。気圧されるな、と何度も心の中で呟く。目の前の龍は、使い魔だ、自分達の殺すべき相手だ。
「ロラン!」
秋瀬は呆然としているロランの名を叫んだ。ロランはやっと現実に引き戻されたように、秋瀬の姿を認めた。そして自分のやるべきことを把握し、慌てて剣を握りなおす。
――やるぞ。
声に出さずに、目で合図する。ロランはそれに首肯した。正眼に構え、龍の隙を窺う。だが、そうやって見ているうちにあることに気づき、秋瀬は舌打ちした。
しまった、この場所でこんな巨大な目標相手では周り込むことができない。いくら隙を窺っても相手が巨大で、なおかつこちらは見下ろされる形となっており、地面から足が迂闊に離せないこちらはかなり不利な状況だ。
だが、それは相手も同じである。秋瀬は龍の首根っこを見た。文字通り、地面に縛り付けられている。無数の白い腕が強固な根を張っている。あれでは容易に動くことはできまい。敵はあの場所から動けないと考えてもいいだろう。
秋瀬は剣を構えたまま、考えを巡らせる。このまま突撃するのは簡単だが、相手がどんな攻撃を仕掛けてくるか分からない以上、無謀なことはできない。ロランと同時攻撃をしても、効果的なダメージを与えられる自信は無い。龍の首にあたる部分の腕達は固く結びついており、何本も重なり合っている。あれでは先ほどのように両断するのも難しい。
――どうする?
秋瀬は自分に問いかけた。相手が動けないことを見越して一時撤退し、応援を待つと言う手もあるが、この地区の戦闘可能な人間は秋瀬達だけだ。応援を呼ぼうにもそんなに早くは到着しないだろうし、なによりこの場所から龍が動けないとはいえ、ここ周辺の人間の身が危ういことには違いない。
そしてもうひとつ、面倒ごともある。
秋瀬は腰を抜かして倒れこんでいる大門を一瞥して、舌打ちした。あんなお荷物がなければ、もっと上手い考えが思いつくかもしれないのに。
民間人がこの場にいると言うことは、策の中に救出する手段を加えなくてはならずそれでは討伐だけを考えて動けない。
時間だけが過ぎていく。龍は相変わらず、秋瀬達の様子を窺っている。動かないのか、それとも動けないのか。龍には攻撃の手段が無いのか。まったく判別がつかない。
ただ、龍が動き出す前に仕留めなければこちらが余計に動きにくくなることは、間違いなかった。
息を吸い込み、一気に止める。それによって脳神経を研ぎ澄まし、必殺の一閃を準備する。
秋瀬は頷く。ロランもそれに従って頷いた。ぐっ、と爪が食い込むほどに柄を握り締める。
「――破ッ」
短く声を発する。それが全ての合図だった。秋瀬達は龍の下へ駆け出した。龍も同じように、そこで動き出す。
変化が起こったのはロランの側のほうだった。ロランは自分が蹴っている地面に違和感を突如として覚えた。地鳴りのようなものを感じたのだ。地震か、と最初ロランは思ったが、こんなタイミングで地震が起こることなどありえるのかという疑問が起こり、そして次の瞬間、その地鳴りが地震のものでないことを知った。
ロランの走っていたアスファルトの地面が、突如として捲れ上がったのだ。それはまるで豪奢な絨毯を捲ったような感じだった。灰色の無機質な絨毯は捲れ上がると同時に、軽く波打ち、そして自らの急激な変化に耐えられず、砕けた。
砕けた場所から無数の白い腕が出現し、ロランの足をすくう。龍の根は地面を伝っていつの間にか、真下まで来ていたのだ。それはロランの足並みを乱れさせるには充分だった。
大門はそれに驚き、そして恐怖が臆病さに打ち勝ったのか、先ほどまで腰が抜けていたにも拘らず危なげながら立ち上がって、そのまま情けない悲鳴を上げて逃げ帰って行く。秋瀬はその様子を見て、忌々しげに舌打ちした。
――情けない。
だが、これから先にあの男を守りながら戦う自身の無かった秋瀬にとっては好都合だった。
白い腕はくねくねとうねり、一斉に波打ちながらロランの足場をより不安定にする。
ロランはその中の一本に足を掴まれよろめく。倒れる前に間髪いれず、ロランは手に持ったレイピアでその腕の甲を刺し貫いた。その手はそれで離れたが別の腕がもう一方の足へと掴みかかり、ロランはそれには対応できず、そこで転んだ。そして転がったロランに覆いかぶさるように数本の腕がその身体に絡まっていく。
「ロラン! ――くっそがぁぁぁ!」
秋瀬は叫びながら、龍の首筋を掻っ切ろうとした。横薙ぎに一閃、充分に近づいて放たれた一撃に秋瀬は、殺ったという確信があった。だが、その一撃では龍に傷ひとつついてはいなかった。逆に秋瀬の大剣のほうの刃毀れがひどくなっている。
どういうことなのか。
見ると龍の首筋が先ほど秋瀬が斬った形に合わせて黒く変色していた。そしてそれは侵食するように、龍の全身へと回っていき白い腕達はいずれも黒く染められていく。
――硬化能力。
それもかなり強力なものだった。腕一本一本の強度は、恐らく並みの吸血鬼程度だろう。それならば秋瀬の剣が通らないはずが無かったが、問題なのはその硬化した腕が一本ではないことだ。何本も硬化した腕が重なり合えば、それはかなりの強度となる。表面の一本がたとえ切り裂かれても次の一本がそれを防ぎ、たとえその二本目の腕が受けた衝撃が相手にとって致命的なものでも、さらに奥にある何本かがその衝撃を吸収するために結果的には中枢は無傷となる。
これでは手の打ちようが無い。いまや黒い鱗に覆われた龍を見ながら秋瀬は何とか損傷を与えられる手を考えていた。
――何度も同じ場所に攻撃を打ち込めば、あるいは……。
そう考え、駆け出そうとするや否や、龍の首筋が崩壊した。いや正確に言うならば崩壊したのではなく、その部分を繋ぎあっていた手が離れたのだ。
好機と思い、そちら側に周ろうとするが、それはその実、決して好機などではなかった。秋瀬がそちらに周りこんだ瞬間、黒く変色した腕達は一斉に秋瀬のほうへと襲い掛かった。
黒い腕は一見硬そうに見えるが、それらはまるでゴムのように柔軟に秋瀬を索敵し、伸縮した。それはまるで黒い触手であった。龍の首筋から放たれた不意の攻撃に、秋瀬は成すすべなく身体を撲たれた。一本一本は細いにも拘らず、洪水のように一遍に何本もの腕が押し寄せてきたためにその衝撃は計り知れなかった。
秋瀬は衝突の瞬間に剣でかろうじて防御したために、前方からのダメージは少なくて済んだが、それでも吸収しきれない衝撃は秋瀬の身体を弄り塀の際まで一気に後退させられた。
秋瀬はすぐに次の攻撃へと移ろうとする。その時、視界の中に不可思議な物が入ってきた。
それは先ほど秋瀬が斬りおとしたハルカの頭だった。それが何の支えも無く、まるで宙吊りにでもなっているかのように秋瀬の目の前にあった。
この世ならざるかのようなその光景に秋瀬は動くのも忘れて、呆然とそれを見ていた。
それがいけなかった。
ハルカの頭に突如として亀裂が入る。元々身体ほどの面積がないためにすぐにその亀裂は頭全体に侵食し、そして秋瀬が危険だと察知する前に、それは爆砕した。
それはさながら手榴弾のようだった。
卵の殻のように頭が割れ、中から無数の腕が触手のように秋瀬の無防備な身体を襲った。それらの腕は龍の指令を既に受けていたのか、すべて真っ黒に変色し、硬化していた。一瞬の間に、まるで津波のように真っ直ぐなだれ込んできた腕達を防ぐすべは無く、秋瀬の身体は電車に衝突されたように、衝撃で宙に浮く。それでも胸を締め付けるように追突し続ける腕達に押され、遂には背中が塀を破り、民家を破壊しながら突っ込んだ。
凄まじい激痛が、全身を弄った。腕達は秋瀬が民家に衝突した瞬間、速度を落とし攻撃をやめた。秋瀬は仰向けになりながらも顔を起こし、腕達がどうしたのかを確認する。
腕達は、龍の首の根から伸びた同種の腕達に絡め取られ、既に同化していた。
秋瀬はまだ身体に加重がかかっているかのような感覚を覚えながらも、必死に両手で身体を起こし、攻撃に転じようと立ち上がろうとした。
だが、その時秋瀬は覚えず膝を折った。立ち上がろうとするが力が入らず、剣を構えることができずに地面に杖のように突き立てて身体を凭れ掛けさせる。
先ほどの一撃が思ったより身体に響いていた。肺はまるで上から押しつぶされているかのようになって、俯いて窮屈な呼吸しかできない。全身に激痛が走り、足が、腕が、まるで自分のものではないように言うことを利かない。
その時、不意にけたたましい叫び声が秋瀬の耳に届いた。それはロランの叫び声だった。秋瀬は顔を上げ、声のしたほうを見た。
ロランは黒い腕に絡め取られ、押し潰されていた。何本もの腕がロランに覆いかぶさっているせいでロランは呼吸もままならず、もちろん身動きなど取れない。うつ伏せのまま、何百キロもの重みが全身を締め付け、生々しい骨折音が絶え間なく響き渡る。脚も、腕も、背中も、全身が磨り潰されていくような痛みにロランは顔をしかめ、それでも意識を失うまいと決死で持ちこたえている。
――助け、なければ……。
秋瀬は痛みに耐えながら、腕を右耳に伸ばす。だが、その目標は右耳ではない。右耳の位置に埋め込まれた「聖痕」だ。
腕を僅かに上げるだけでも痛みが全神経を貫通していく。聖痕まで伸ばすだけだ、と何度も腕を上げようとするが、あと一歩のところで力なく腕が落ちる。そうしている間にも、ロランは無数の腕達に抱かれ、空中へと運ばれていく。
その時、突如として龍の頭が動いた。ロランを押さえ込む根に当たる腕達は、そのまま腕を高く上に伸ばして、まるで龍に献上するかのごとくロランを頭の前に差し出した。龍の頭がロランへと近づいていく。
――喰うつもりか。
秋瀬は直感した。いま助けなければ、ロランは死んでしまう。それだけは、回避しなければならなかった。折角、ロランと分かり合えるかもしれない、と思えたこんなときに、喪失は無情にも訪れるのか。
秋瀬の脳裏に、過去の記憶がフラッシュバックする。赤く焼け爛れた景色、黒い死神、微笑む神父――。もう目の前で、何もできずに人が死ぬことは我慢できない。
秋瀬はもう一度、聖痕へと手を伸ばす。ぷるぷると痙攣しているかのように腕が振るえ、無理やり伸ばそうとすれば筋肉を引き千切られるかのような鋭角的な痛みが貫いた。それでも秋瀬は腕に力を込め、聖痕へと指をかけた。
そしてそれを軽く押そうとするが、指に力が入らず押すことができない。
その間にも、ロランへと龍の頭は近づいていく。秋瀬は必死で押そうとするが、指に電流のような痛みが走り呻くばかりで、完全に押し込むことがやはりできない。
龍はその巨大な口を開けた。龍の口腔内は、まさに暗黒だった。何一つとして光が入らず、逆にすべての光を飲み込んで闇の中に溶かしてしまうような漆黒がそこにはあった。龍が唸る様な声を上げる。それと同時にさらに大きく口が開かれ、最早ほとんど動かないロランを、自分自身の腕ごと――飲み込んだ。
その瞬間、秋瀬の理性が弾けた。
痛みなど最早関係が無かった。神経が強く引き千切られる嫌な音が右手から響いたが、秋瀬は構わなかった。ただ、護れるのに護らないことが、彼にとって何より苦痛だった。
秋瀬は破壊しかねないほどに、聖痕を強く押し込んだ。
秋瀬のいた場所で、何かが擦れるような音がする。それとほぼ同時に、ロランを先ほどまで縛り付けていた腕達が付け根から斬殺された。それはまるで鎌居達のように一瞬の出来事だった。切り裂かれた腕達が龍の口からぽろぽろと落ちていく。龍は焦ったように頭を動かして周囲を見渡した。しかし、どこにも自分の一部を切り裂いたものは発見できない。
龍の眼で確認するには、それはあまりにも速過ぎたのだ。
次いで首筋に異常を感じる。みしみしと樹木が切り裂かれるような音と共に、龍の首筋の全神経が断絶されていく。おかしい、と龍は感じた。硬質化は既に行われているはずである。それが、こうも容易く切り裂かれていくなどありえない。腕達が何本も重なり合って、地上最硬度の皮膚と化しているはずの肉体が、紙切れのように斬激を受け切り取られていくなど。
しかし現実は首に重なった何本もの腕を切り裂かれているのは事実だ。龍は急いでその部分の修復をしようとするが間に合わない。
ならば、と龍はまだ切り取られていない場所に損傷していない腕を集めた。龍の首に巨大な喉仏のような突起が出現する。そして再度硬質化を行う。喉仏は今までの皮膚よりもなお、どす黒い塊と化した。
果たして、そこで斬激は止まった。刃がそれ以上進まず、なおかつ内側から刀身を腕に絡め取られその部分から刃を抜き去ることもできないため、秋瀬はそこで立ち止まった。龍が首を動かし、秋瀬を見つける。
そして頭を支えている首の密度を変化させた。今のままでは頭が秋瀬に攻撃を与えるには少し首が短い。だから龍は首で重なり合う腕の密度を減らし、その分だけ首自体を伸ばしたのだ。
龍の首は身をくねらせながら秋瀬へと大口を開けながら向かってくる。その身体の一部が地面に擦れて、巨大な蛇が通ったような跡を刻んでいく。
秋瀬は龍を睨みながら、もう一度聖痕を強く押し込んだ。
――脳が加速していく感覚がする。
時間が何倍にも引き延ばされ、じりじりと思考が白熱化していく。先ほどまで筋肉に感じていた痛みは感じない。神経が研ぎ澄まされ、全身の運動がクリアになり自分自身を客観的に感じることができる。
限界値を認知しなくなった筋肉は、限界を通り越した力を発揮する。聴覚はほとんど働かない。この状態に至った場合、聴覚よりも第六感とも言える部分が大幅に強化される。すなわち、思考ではなく本能による戦闘。どのあたりに攻撃がくるなどが空気の振動、僅かな筋肉の動きから解る。
これが、「聖痕」の能力。一時的に人間を吸血鬼と同等の生物へと変化させるインプラントである。
龍の頭が秋瀬の間近へと到達する。そして、その漆黒の喉へと秋瀬は呑み込まれる、はずだった。龍も、制動しもう一度首を上げる瞬間までは、呑み込んだと確信していた。しかし、自分の中のどこにもそんな感覚が無い、と知った瞬間、龍は先ほどまで秋瀬がいた場所が鋭く切り裂かれていることに気がついた。理解がそれを促したのか、その瞬間に傷口から鮮血が迸り、龍は痛みに悶絶するように吼えた。
しかしその程度で秋瀬の破壊は終わらない。秋瀬はさらに龍の背のほうへ周りこみ、そこに一閃を加えた。黒い皮膚を秋瀬の漆黒の剣が火花を上げながら奔る。秋瀬は獣のように叫びながら、この世でもっとも硬い皮膚を横薙ぎに裂いていく。しかし、硬質化した龍の皮膚は、秋瀬の大剣に予想以上にダメージを与えていたらしい。火花を上げ、すさまじい摩擦音を上げながらも龍の皮膚を斬っていた刀身が、その瞬間、まさに不意打ち気味に、半分に折れた。
切っ先は龍の皮膚に抉りこんだまま停止し、摩擦音と火花が止む。それを龍は好機と感じ取った。
龍の頭が思い切り宙を見上げる。秋瀬はその様子を黙って仰いだ。そして龍は空中で静止した頭を、まるで金槌のように、凄まじい速度で振り下ろした。重力を何倍にも加重したような、隕石のごとき一撃だった。衝撃で手前の民家が根こそぎ吹き飛んでいく。落ちた場所はアスファルトの砂塵が舞い、地割れのような音が夜の静寂を破壊しながら響き渡った。
――潰した。龍にはその確信があった。龍はゆっくりと頭を上げ、まだ砂塵が残ってよく見えない落下地点を見下ろした。そこには秋瀬の圧死した死体があるはずだった。しかし、蛙のように潰れているだろうと思われた死体は予想に反してそこには無かった。
龍はすかさず、周囲へと手当たり次第に触手を射出した。民家の塀が崩れ、電柱に突き刺さる。この砂塵のなか秋瀬は攻撃してくるかもしれない、それを予期しての行動だった。他にも何本もの黒い触手が、蠢き、少しでも触れればすぐさま攻撃できる態勢へとなっていた。
しかし、秋瀬は攻撃しては来なかった。死んだか、と龍は思った。もしかしたら家を吹き飛ばした瞬間に、死体も四散したのかもしれない、と。触手を収めようとすると、そこで龍は唐突に中空へと気配を感じ取った。
龍の頭に開いたふたつの空洞はすぐさまその気配の方向へと視線を向ける。
そこには風にはためく黒衣があった。折れた剣を地面へと向けて、龍のほうへと墜ちてくる黒衣の隕石――秋瀬だった。
いつの間に跳んでいたのか、龍には分からなかった。秋瀬は真っ直ぐ、龍の頭へと凄まじい速度で墜ちてくる。龍にはそれを防ぐ暇は無かった。迎撃手段を練っても間に合わない。触手を一斉に宙へ向けようとしたが、それすら遅すぎた。
秋瀬の視線と龍の視線が中空で対峙する。そこで秋瀬は初めて龍の顔を間近で見た。黒い龍の顔は憎悪で歪み、秋瀬を獲物としてしか認識していなかった。秋瀬も自分では分からなかったが、それに負けずと劣らない狂暴な顔をしていたのだろう。脳内が白熱化したのは、聖痕のせいだけではなかったのかもしれない。
龍はそこで秋瀬に向かって咆哮した。
「――黙れ」
殺されるものと殺すもの、龍から放たれるむき出しの殺意を断絶するように、秋瀬の剣は龍の眉間へと深く食い込んだ。
龍が最初に感じたのは衝撃であり、痛みではなかった。もし、もう少し時間があれば痛みも感じたであろうが、秋瀬はそんな時間は与えなかった。
速度によって破壊力を増した秋瀬の突きは、龍の眉間へと深々と入り込み、秋瀬はそのまま抜き取らずに、力任せに横に裂いた。
龍の眉間から鮮血が噴射し、痛みに龍は頭を振って呻いた。凄まじい速度で頭を振る龍から、落ちるまいと秋瀬は今しがた裂いた龍の傷口に手を突っ込み、剣を握ったまま踏ん張る。秋瀬はさらに体重をかけ、龍へと刀身を刺し込む。龍が苦痛に耐えられずに、頭を先ほどと同じように、地面へと振り下ろす。
一撃。それでも秋瀬は落ちなかった。龍が首を上げる瞬間にさらに、今度は縦に斬った。
痛みに耐えられず苦しげな叫び声を上げる。それに反応したように、頭を構成していた黒い腕達が頭頂部を分解させ、一斉に秋瀬へと襲いかかった。
秋瀬は逃げようとしなかった。腕達が絡まって、肋骨や肩や、脚を締め付けたが、それでも締め付けられている分、落ちる心配がなくなったからか先ほどより強引に、荒々しく眉間を斬り始めた。
一文字、十字、斜、横薙ぎ、突き――型も流派もバラバラの剣技が咲き乱れる。
黒く硬質化した皮膚を斬るには中々に骨がいる。聖痕の発動で筋肉が限界値を大幅に超えているとはいっても、予想以上に力が要った。一閃当てるたびに摩擦で火花が散り、その度に半分に折れた刀身はさらに削れて行った。
斬れば斬るほどに腕達の締め付けも激しくなっていく。そして何度目かの斬激の後、遂に秋瀬はその場に膝をついた。腕が振るえ剣を握ることすら儘ならないほどに身体が疲弊しきっている。肺が、心臓が、否、すべての器官が、限界を超えたことを主張するように秋瀬の身体を様々な痛みが一気に貫いた。秋瀬はたまらず、その場で吐血した。
――聖痕の限界か。
力が入らず、秋瀬は剣を手放した。秋瀬の攻撃が止んだと見るや、腕達はさらに何本も秋瀬に覆い被さり、押し潰そうとしてくる。
――ここまでか。
やれることはし尽くした、と秋瀬は目を閉じようとした。
その時、出し抜けに龍が咆哮した。まるで悲鳴のような激しい声に秋瀬は目を開けた。秋瀬には何が起こったのか理解できない。ただ、秋瀬を押し潰そうとしていた腕達から急に力が抜けたことだけは確かだった。
そして緩やかな浮遊感が今度は秋瀬の身体を襲った。ふわりと上半身が浮くようなこの感覚は重力に従って落ちているのだということが分かった。
そして一秒もしないうちに、秋瀬の予測どおり龍の頭は地面に力なく落下した。瞬間、荷重が秋瀬の背に圧し掛かってくる。臓器を押しつぶされる衝撃に呻きながらも、秋瀬は気を失わなかった。
やがて、龍から生気といわれるものが消えていくのが分かった。段々と腕の締め付けも緩くなり、遂にはほとんど自分にもたれかかっている程度になった。その腕達を軽く退かせ、ほとんど爆撃されたようになってしまった辺りの様子を見ながら呆然とした。理解が追いつかない。自分の攻撃が致命傷になったとは思えず、何も分からぬまま呟いた。
「――何が、起こっているんだ……?」




