終幕
高校生の頃から書いていたものです。長編も投稿できると知ったので投稿します。よろしくお願いします。
眼球を貫くような月光が射す夜だった。
今宵は雲が厚く、空のほとんどを覆い隠していたが月だけはその雲から切り取られたように存在し、まるで金色の眼球のように街を見下ろしている。
それは人工の光の中で生きる人間の中の、本性さえ暴きかねないほどの鋭い野生の光。時間とともに街の明かり達はまるでその月光のあまりの雄々しさに身が竦み、わずかな自尊心を傷つけられたかのように儚く消失し、街は完全な闇に飲み込まれようとしていた。雲に光が遮られているための闇ではない。それは夜が古来より本質的に持ち続けている、根源的な闇だ。
そして、今夜は初雪だった。
舞い遊ぶような白の結晶は、その身に幾重にも月光を反射して、どこを照らすでもない微小のネオンサインとなっている。そのささやかな光さえ、すぐに呑み込んでしまうほどの完全な闇が、今この街にはあった。
その消え行く人々の灯火、営みから外れた場所、遥かなビルの屋上――いや、正確にはビルではなく塔だ。この街のシンボルタワー。闇に飲まれていく街の中でそれはまるで朽ちた灯台のようである。そして、その場所の屋上。
そこに男がいた。
いや、正確には男だけではない。
もうひとり、体をくの字に曲げ、飛び出さんばかりに見開かれた眼球に今宵の月を映し、断末魔を上げるはずの口は大きくだらしなく開かれ、その喉元に杭のような巨大な牙を突き立てられて、血を絶えず撒き散らしている物体を人間のものだとするのなら、そこにもうひとりいた。
男はごくんごくんと何度も喉を鳴らし、血を嚥下する。遠目に見れば逢引に見えなくも無いこの光景は、その実、生物として最も単純なもの――活動するためのエネルギーを得るための儀式、つまりは食事である。
男が喉を鳴らすたび、噛み付かれた相手の顔から見る見る間に血色が失われていく。月光がゆらゆらと動く二つの影を夜の闇に沈んだ街に映し出す。
その噛み付かれた人間は男か女か、それは分からなかった。髪の毛が長いという特徴から性別を特定しようと思っても、それは見ている先に抜け落ちて灰のように床に積もる。
噛み付かれた相手の手がぶらぶらと揺れている。だが、その枯れ枝のようなみすぼらしい細い棒は、果たして手であったのか。もはや確かめるすべはあるまい。なぜならば、それはたった今ぽっきりと、肩口から本当に枝のように折れてしまったのだから。
もはや男が噛り付いているのは人の姿をとどめてなどいない。この世界で近い物体を探すのなら、ベーコンか、いや、もっと端的に言うのならばミイラだろう。
きしっ、という声を男が上げた。それは声というよりも布がすれるような音である。次いで、かぁっ、という痰を吐くような音。
気づけば人、であったはずのもはや枯れ果てた何者でもない物体が屋上のアスファルトに突っ伏していた。男の口内に長大な牙が納められていく。それはまるで手品のように、男の口の中に入り、次の瞬間には、普通の人間の犬歯のサイズになっていた。
ぐる、と男が狼のように喉を鳴らす。どうやら食事は終わったらしい。
男はつい先ほどまで生きていた物体をその手で掴んだ。そしてずるずると引きずっていく。からからになった物体は、引きずられた先から崩れて行き、その足跡の変わりに砂の線を床に刻んだ。
屋上の縁まで行った男は、そのまま無造作に、もうほとんど元の形だったころの原型をとどめていないものを投げ捨てた。
一秒。
からからに乾燥した物体は落下音も、床への衝突音もしなかった。
男はつまらなそうに肩を竦め、そのまま踵を返そうとした。だが、
「食事は終わったのか」
唐突に男の鼓膜に声が届く。
その声を感じた瞬間の〇,一秒未満。男はさっきまで自分がいた屋上の縁とは反対側の縁まで跳躍していた。
男は声の主の姿を認める。
声の主は若い男だった。だが、髪の毛は変わった色をしていた。老練のような灰色なのだ。長身痩躯で、こちらを見つめるその眼の虹彩は暗闇の中でもそれと分かるほどに赤い。それに対比して、服は暗闇に紛れるような黒である。その黒服の表面に赤いものが飛散していた。遠目からでも分かる。それは血液のシミだ。
包帯らしき布で巻かれた杖のような棒を持ち、目は優しそうに細められている。だが、その眼差しの奥に男は年齢以上の威厳を感じ取った。
「何者だ」
男はそう言おうとしたが、声が出ない。いや、言葉など、この男は当に忘れてしまっているのだ。それは本人も気づいていない。
変わりに、うう、という獣のような呻り声が喉から漏れた。
黒衣の男はそれを見、哀しそうに眉を寄せる。
「言葉も忘れたか、可哀想に。もっと早くに、君を見つけるべきだった」
さも残念そうに語る。黒衣はビルの縁に立つ人の形を取った異形の姿を改めて見つめた。
黒衣を睨む男はぼろのような、本当に布切れでしかない衣服を纏っていた。だが、それとは正反対の見事な銀色の長髪が月光を浴びて輝いている。男はまるで能面のようなのっぺりとした表情のない貌をしていた。肌も白いために余計に仮面でも被っているかのように思える。その白すぎる顔は、今は先ほどの食事で赤く穢れている。
そしてその仮面の下の男の赤い眼は、優しく見つめる目の前の黒衣とは対照的に、憎悪と嫌悪、見知らぬものへの警戒で濁っている。だが、それでもその眼は男の内の野生を隠し切れず、表情をほとんど殺したような貌からでも煌々と闇の中で光っている。そう、まさに煌々と。
黒衣はその眼と真っ直ぐに向かい合った。そして、目を伏せ、呟く。
「……吸血鬼としての性が君をそこまでしてしまったのだな。本当に哀れだ。今、私が終わらせてやろう」
黒衣の眼から優しさが消えた。次いで微笑も。後に残ったのは、冷たい眼差しだけである。
「や……め、ろ」
男が始めて言葉らしい言葉を発する。黒衣はそれを聞き、静かに応える。
「やめない。今、解放してやる」
強い口調。その瞬間、きしりと何かが擦れたような音が耳に届いた。一体何の音か。黒衣は確認しようとする。だが、そう認識した時には強烈な痛みが彼の右腕に走っていた。まるで熱した鉄の棒でも押し当てられて、それで肉でも抉られたかのような痛み。
黒衣は右腕を見る。
そこには、人間の腕とは思えないほどに引き裂かれ、血を撒き散らす壊れ果てた自分自身のかつて右腕であった部分があった。
次いで、衝撃が彼の身体を弄った。まるで猛スピードで走る車に追突され、そのまま引きずられていくような痛み。意識さえも持っていかれそうなほどの鋭い衝撃に、身体の全機能が悲鳴を上げる。
今になって黒衣は自身に起こった出来事を理解した。撲たれたのだ。
身体がよろめく。しかし、彼は倒れなかった。杖で、なんとか持ちこたえたのだ。だが、息つく間など与えられはしない。
ぐる、と後ろから獣が唸るような声。続いて首筋に冷たい手の感触。それに黒衣が気づき振り返ろうとした瞬間、視界に大写しになった男の裂けた赤い口腔内があった。獣のように縦に大きく開け、男は黒衣の喉元へその牙を突き立てた。
肉が裂け、牙は血管に達し、そのまま男は血を啜り始める――はずであった。
だが牙は血管どころか何一貫いていなかった。ただ、男の牙は何も無い場所を穿っただけである。
男がそれに疑問を浮かべるまでに、背中に衝撃が走った。ドン、という鈍い音。何か、細い鈍器で背中を殴られたような音が男の脳内に残響し、男は吹き飛ばされた。咄嗟の判断で制動をかけようと床に手を伸ばす。次いで身体が前に倒れこむ。それと同時に腕に力を込め、男は回転しながら勢いを殺し、着地した。
何が起こったのか、男には理解ができない。だが、確かに自分が何者かに攻撃されたことは分かった。では、何者かとは、誰なのか。
「嘗めてもらっては困るな」
男が先ほどまでいた場所から声が聞こえた。月光が、その場所を静かな青で照らし出す。
そこには男に腕を潰されたはずの黒衣が立っていた。しかも先ほどとさほど変わらぬ面持ちで、優しげな笑みさえ浮かべながら。
「腕を潰された程度で私が動けぬとでも?」
そう言って、彼は痛みを感じていないのか、ぼろぼろに引き裂かれている右腕を差し出す。その時になって気づいた。黒衣の右手首から先は無かった。彼は歯で噛み切って杖の包帯を解き始めた。
解けた先から夜の闇より深い漆黒の、細く鋭い刃が現れる。彼は巻かれていたすべての包帯を解いた。
そこにあったのは闇を凝縮したような色合いの長刀であった。鍔が無く、他に何の装飾も無いその無骨な黒い刀は、そこに本来あるべきものであったかのように、黒衣の手に、姿に、ひとつのシルエットとなって馴染んでいた。黒い刃は月光を受け、刀身が薄くぼやけたような光を発している。
黒衣はそれの先端を無造作に床に突き刺し、左手で髪に隠れた右耳の辺りを探った。男は立ち上がる、それと同時に黒衣が髪をかき上げる。
彼の右耳があるべき場所には耳が無かった。代わりに円形の蓋のような金属が埋め込まれていた。彼は親指でその部分を軽く、押し込んだ。
ほぼ同時に、ちり、というコンクリートをほんの僅かに擦ったような音。だが次の瞬間、黒衣の姿はつい今しがた攻撃に移ろうとしていた男の、まさに目の前にあった。
男はあっけに取られる暇も、もちろん攻撃に転じる時間も無い。なにせ黒衣が踏み込み、刀を振り上げるのと、男が彼を視認するのはほぼ同時であったからだ。
男の脳が危険と判断し、次の動作に移るまでの僅かな時間。彼の刀は男の左腕を肩口からばっさりと斬り捨てた。
――斬られた。
気づき、痛みを感じるまでのタイムロス。黒衣は身体を反転させ刀を右脇に挟むと同時に、懐から小型の黒いナイフを取り出す。そして反転の勢いを殺さずに男の足の腱を投擲したナイフで裂いた。男はよろめき、バランスを崩す。その鳩尾へと強烈な蹴りが食い込んだ。
屋上の床に叩きつけられ背中に衝撃が走り、やっとそこで身体の機能が付いてきたのか、斬られた場所に強烈な痛みが走った。
男はそれでもすぐに立ち上がろうと右手を床につき、力を加えようとする。その時、右手の甲に何かが飛来した。飛来すると同時に放たれる痛みに、男は顔をしかめる。
右手の甲には、再度投げられたナイフが甲を貫き、床に突き刺さるほどに深々と突き立てられていた。
今になって、切り捨てられた左肩から勢いよく血が噴出し始める。それはすぐに男の倒れている床に巨大な血溜まりを作り上げた。
黒衣を纏った男は服についた汚れを払うような動作を見せてから、今までの速度が嘘のようなゆったりとした速度で男の下へと近づいてくる。男は立ち上がろうとするがナイフがまるで杭のように刺さっているせいで床に磔にされているような形となり、身動きが取れない。
凄まじい殺陣によって男の能面のような美しい顔は砕けていた。そしてそこから男の本当の顔が覗いていた。
その顔は痛みと憤怒に歪み、ゆっくりと近づいてくる「人間」に対する憎しみの篭った眼で睥睨している。
黒衣が刀を掲げる。その刀身は中空に浮かぶ月の光を遮り、その月を真っ二つに貫いていた。
彼の眼が男の視線と交錯した。その眼にはまた優しさが浮かんでいた。
「や……めろ。……れむな」
男は口を動かし、拙いながらも言葉を発しようとする。その目から、何かが零れ落ちる。
赤い涙だった。血の涙が頬を伝い、床に落ちる。
黒衣は目を強く閉じ、何かを口の中で呟いた。
その瞬間、男の眼がかっと見開かれ、静寂を切り裂く叫びが木霊した。
「私を、哀れむな!」
その叫びを切り裂くように、漆黒の刀身が振り下ろされた。




