例えば、こんな都市伝説
若堀君は働き者です。
朝から晩まで、土曜も日曜も祝日もなく、よく働きます。
他に楽しみはないのか?などと周囲の人から言われるほどです。
ですが、その若堀君にも最近ささやかな楽しみが出来ました。
お風呂です。
何だ、そんなことかなどと思ってはいけません。
何しろ、若堀君は毎日帰りが遅いため、入浴するにもひと苦労。あまりに夜遅い時間だと、マンション隣室の住人に迷惑になるからと遠慮することもあるくらい。
だからこそ、彼にとって入浴できる日は、心身ともにリフレッシュするのにとてもよい儀式でもありました。たまに自分のものではない長い髪の毛が湯船に浮いていることもありますが、そんなことは些細な問題です。あと、むやみに照明が点滅することもありますが、だからといって管理人にいちいち文句をいうのも面倒なので我慢しています。ただ、時折深夜五階の彼の部屋のベランダから彼の部屋を覗くなどという悪戯をする者がいて、これだけはちょっと困っていますが……。
ところで、お風呂です。
彼が最近楽しみにしているお風呂ですが、それは銭湯のことです。
最近では、地方でもあまり見かけなくなった銭湯。
彼は、仕事帰りにその銭湯に寄るのを楽しみとしていたのです。
若堀君がその銭湯を楽しみにしているのは、勿論広い湯船でのんびり出来るからとか、風呂上りのコーヒー牛乳が楽しみだからとかいうことも理由ではありますが、最大の理由は、夜遅くともその銭湯が開いていることでした。
何しろ、彼の帰りは遅いのです。深夜、終電にまで及ぶことも珍しくありません。
そのような時間帯に開いている店は、コンビニエンスストアやファミリーレストラン、居酒屋、スナックなどを除けば、ほとんどありません。
そんな時間帯に開いている銭湯。
若堀君にすれば、まさにオアシスのような存在です。
最初のうちこそ、躊躇したものの、いつしか仕事帰りにその銭湯に寄って行くのが若堀君の日課となっていました。
ただ、明るい時間に同じ場所を通っても、その銭湯を見つけることがどうしても出来ないのは不思議でしたが。
ある日のこと。
いつものようにほぼ貸し切り状態で銭湯を満喫していた若堀君。
シャンプーをしていた折、ふと横から知らない子供から声をかけられました。
「ねえ、”だるまさんが転んだ”って言ってみて」
小さなか細い声でした。
若堀君は、自分以外にもお客がいたことに驚きましたが、なによりもその声が子供の声であることに戸惑いました。
何しろ、時刻は午前零時を過ぎていたのですから。
それでも、(ああ、これは何か事情を抱えた子供なんだな)と思った若堀君は、その子供につきあってあげることにしました。
「だるまさんが転んだ」
若堀君がそう口にし、振り返ってみると、彼の背後には何人もの子供達がいました。
いつの間にこんなにたくさんの子供達が入ったのだろう?と不思議ではありましたが、若堀君が気になったのはその子供達の顔色の悪さでした。しかも触ってみると、みんなビックリするくらい身体が冷えています。
若堀君は、子供達全員を湯船に入れ、自分も一緒になって肩まで浸かって百まで数えました。そして、風呂上がりには全員に牛乳を奢りましたが、飲み終えた若堀君の目の前で子供達の姿は綺麗に消えてしまっていました。
いつものこと。
若堀君が銭湯から出てくると、出入り口のところでいつも立っている女の子がいました。
綺麗な顔立ちと長い黒髪の印象的な女の子でしたが、いつも陰鬱な表情をしていました。ついでに言うと、いつも同じ服を着ています。
若堀君がそばを通ると、いつも「彼、まだ出てこないの……」と暗い声で呟きます。
男湯にはいつも若堀君以外にはお客さんはいなかったのですが、(ああ、従業員の人とつきあっているのかな?)と若堀君は深くは考えませんでした。
ある日のこと。
いつものように貸し切りで湯船に浸かっていると、足下をなにかが通り過ぎました。
水中でのことな上に、若堀君はいつも細かい書類に目を通しているので、メガネがないとものがよく見えません。ましてや風呂場ではメガネを外しています。
だから、若堀君は、ことの次第を番台のおばあさんに伝え、あとで浴槽をちゃんとチェックするように要請しました。
とりあえず、他のお客にまで事が及ばなければいいが、と若堀君は思いました。
ある日のこと。
若堀君が鏡の前でシャワーを浴びていると、鏡の中に見知らぬ女の人が映っています。
不思議に思った若堀君。
じっと見ていると、その女の人は若堀君の顔を見てニタ~ッと笑うと、ずるずると鏡の中から這い出してきました。ただ這い出してきただけではありません。その女の人は、若堀君にしがみついています。しがみついている間も、ニタニタとした笑いは絶やしません。
びっくりした若堀君は、その女の人の手を引いて番台に一直線。
番台脇の通路から、女湯の方に戻って貰いました。
そして、さらにある日のこと。
いつものように貸し切り状態で風呂を満喫した若堀君が帰ろうとした時、普段はほとんど口を利かない番台のお婆ちゃんがひと言呟きました。
「まったく……あんたには負けたよ……」
若堀君には何のことか、よく分りませんでした。
番台のお婆さんから声をかけられたその次の日のこと。
いつものように一風呂浴びようと思った若堀君でしたが、お目当ての銭湯が見あたりません。銭湯があったと思しき場所は、雑草が生い茂った空き地でした。
(昨日を最後に取り壊されたのかな?)と若堀君は思い、最近の建築業者の仕事の速さに感心しました。
そして、やはりというか、寂しさも感じます。
それでも若堀君は、気を取り直して、「仕方ない、今日からまた家で風呂に入ろう」と自宅へと向かいます。
なにしろ、明日もびっしりと仕事の予定が詰まっているんですから。
怪異を怪異と知り、恐れることは、実は幸せなことなのかもしれません