騎兵戦線「矢羽根」
黄昏の時は短い。
地平線に滲む太陽の残り火が、城郭を赤く照らし出した。炎が石組みを舐め尽くしても、黒く焦げることはない。夜の訪れが近づくことで、草原を渡る風が外壁を冷やしていた。
「寒くなってきたな」
見回りの兵士は、重い甲冑を身につけていた。
「早く交代して、酒でも飲みたいところですね」
兜の面頬は上げていた。そうしていないと、視界が悪い。周囲の警戒を任務とする彼らは、周りが見えなくては話にならない。
「まったくだな」
ぶるっと体を震わせた。太陽も任務を終えて、月と交代しようとしていた。
風が唸った。
金属が打ちつけられる大きな音がした。石の床から小さな破片が飛び、兵士の足元に転がってきた。下を見ると、同僚が仰向けに倒れていた。面頬に一本の矢が突き立ち、青い矢羽根が鮮やかに震えていた。
敵襲。
咄嗟に身を伏せようとした時、風の唸りを聞いた。
顔に衝撃を感じた。
それが最後だった。
「二人だけなのか」
楊然は、兵士の遺体を見聞した。顔面に矢が刺さっていた。白鳥の羽根が、三枚挟まれている。青く染色されていた。
「はい。すぐに捜索したのですが、敵の姿は見えませんでした」
集団ではないのかもしれない。数人による攻撃か。
「一人だな」
矢羽根を見ていて気づいた。三枚の羽根ひとつひとつの反りが、左方向だった。もう一矢を見てみると、右向きだった。
矢羽根は同じ方向に揃えるものである。そうすることで、矢に回転力を与え、破壊力を増大させるのだ。
この矢は理に適っていた。だが、おかしい。一般の弓兵が使う矢ではないのだ。通常は、二枚羽根である。三枚羽根は、身分が高い人間が狩りに用いる。戦場で見られるものではない。
襲撃をした人間が、貴人であるのか。違うだろう。身分のある人間が、危険な前線に出てくる可能性は低い。ましてや、一人だ。周りが放っておかない。
弓に特異なこだわりを持つ者と考えるのが妥当だった。
「先にやられたのはこちらだな」
片方の男に目を向けた。矢羽根は左を向いていた。
「甲矢だ」
「わかるのですか」
「ああ。乙矢は二矢目に使う」
右向きの矢羽根を指でなぞった。
矢羽根に使われる羽根は、まず縦に裂く。三枚の羽根から、都合六枚の矢羽根ができる。同じ向きのもの三枚を使い、甲矢と乙矢が作られるのである。したがって、必ず二本で一組となる。
射られた矢は、甲矢と乙矢だけだった。そのことから、敵は一人と考えられた。
草原に生きる男のほとんどはそうだが、楊然も弓は得手だった。それだけでは飽き足らず、弓の造形を愛でたり、矢の収集なども行っていた。
この矢を射た人間は、慣習を守っている。そして、高い技量も持っているとわかる。
夕暮れ時は、視界が狭い。見張りの目はどうしても行き届かなくなる。襲撃者にも言えることだ。
城壁の上に立つ兵士を射抜くことは容易くない。彼らは甲冑を身につけていた。肌を見せていたのは、面頬のわずかな隙間だけである。そこに、矢を命中させる芸当が、果たして自分にできるかどうか。しかも、一矢も仕損じていないのだ。
誰がやった。
先日の戦で、敵兵は散り散りに追いやった。生き残りはいるだろうが、敗残兵として国元へ逃げ帰ったはずだ。今更、この城に攻撃を加える理由が見あたらない。
「見張りを増やす。周囲への警戒を、より強固にしろ」
楊然は、悩んだ末に指示を出した。ひとつの試しをしようと考えた。
黄昏時が来る。
城壁の監視は四人に増えていた。
風の唸りを聞いたとき、四人の兵士の顔に次々と矢が吸い込まれていた。青い矢羽根が四つ、風に揺れていた。
「なんと」
予想通りの出来事に、楊然は感嘆と恐怖を感じた。恐ろしいほどの腕前だ。今日は風も出ていた。その中で、一矢も外さなかったのだ。
矢羽根をじっと見ながら、考え込んだ。
「明日は倍にしろ」
「しかし」
部下が反論するのは理解できた。二日続けての凶事に、誰も見張りをやりたがらないはずだ。脅えた兵士では、役にたたない。
「何も的になれと言っているのではない。奴が来る時間帯はわかっているのだ。見張りの任ではなく、囮に専念すれば避けようもあろう」
そうは言っても、何人かの犠牲は覚悟した。一矢、二矢は諦める。そこから先は、反射神経と運頼みだ。
「埋伏だ」
部下は了解した。城の周囲に兵士を伏せておくことで、敵を捕らえる。時間に律儀な敵を捕縛することは、難しくないはずだった。
「明日だ」
指示を下した後、彼はしばしの間、青い矢羽根に見とれていた。
斜陽が草原を染める頃、兵士たちに緊張感が走った。
馬がいた。蹄に布をかぶせ、口には木の枝を噛ませてある。足音を消し、嘶かないようにする工夫だった。奇襲や偵察に騎馬を用いる場合の常套手段だった。
「子供?」
誰かが呟いた。その驚きは波紋のように広がった。
馬の背には、十四、五の少年がいた。彼の背には、巨大な弓があった。鞍には矢の入った箙がぶら下がっている。遠目に、青い矢羽根が判別できた。
息を呑んだ。見間違えようのない青は、仲間を死に追いやった色だった。
騎兵は散歩でもするかのように、のんびりとした足取りで進んでいた。城へ、真っ直ぐ向かっていた。
「殺せ」
衝動が湧いた。
仲間の仇を討つ。相手が子供であろうとも、関係なかった。一方的に殺された兵士には、家族がいた。親や子供がいた。
「やろう」
一人が剣を握った。城の指揮官である楊然の指示は、捕らえろというものだったが、相手は騎馬だ。逃げられる可能性が高い。ならば、今のうちに取り囲み、殺すべきだった。
「やるか」
戟を伏せた兵士が頷いた。甲冑は脱いである。金属製の鎧は、音を立てるからだ。
草原が波打った。
風が出てきた。太陽が落ちようとしている。
黄昏。
少年はおもむろに弓を構えた。
埋伏兵たちが間合いを詰めた。
箙から青の矢を引き抜いた。次の瞬間、一矢が解き放たれていた。
悲鳴が聞こえた。
二矢。
早い。
一矢目が到達したかどうかという時、二度目の弦が弾かれていた。
「行け!」
小隊長の号令に、男たちが駆け出した。
祥青は三矢目を放った後、異変に気づいた。慌てて手綱を操り、馬を方向転換させた。動作がぎこちない。まだ、騎馬の扱いに慣れていなかった。
だが、弓は別物だ。箙から引き抜いた矢が、兵士たちの身体に吸い込まれていった。回転する鏃が、喉笛、心臓、眉間を貫いた。貫通力が甚だしかった。身体の向こう側に、鏃が顔を出したものもあった。
倒れる同胞に、埋伏兵の勢いが弱まった。そこに容赦なく、矢が射かけられた。
「突っ込め!」
小隊長の指示で、兵たちは勢いを取り戻した。接近すれば、弓は使えなくなる。
祥青は射続けた。的が自分から近づいて来る。狙いは外れないが、矢の回転は弱まった。
兵士たちが剣を振るい始めた。何回かに一回は、払い落とされた。
祥青は急所を狙うことをやめた。狙いすぎることで、軌道を読まれたことに気づいた。動き止めることを優先させ、足を狙った。標的は小さくなるが、距離が味方する。無駄な矢を射ることなく、文字通り、足止めする。
「あ」
突如、祥青の乗った馬が竿立ちになった。すぐそばの地面に矢が突き立っていた。飛来した矢に驚いたのだろう。
祥青は鞍から転げ落ちてしまった。すぐに立ち上がろうとしたが、痛みに腰が折れた。脚から血が滲んでいた。
「餓鬼め!」
馬から落ちた少年を見て、兵士が仲間の死体を乗り越えて、剣を振りかざした。ほんの数歩駆ければ、剣先が届く距離だった。
祥青は恐怖を覚えた。降って湧いた死の気配に、筋肉が緊張した。弓弦を引く手が震えた。なんとか指を開くことはできたが、矢は兵士の肩を掠めただけだった。
「死ね」
剣が祥青を捉えようとした時、兵士が横に吹き飛ばされた。
馬だった。
「お前」
祥青を振り落とした馬が、兵士に体当たりしていた。
「くそ――」
呻く兵士に、馬は容赦なく蹄を下ろした。兵士は絶命した。最後の一人だった。
「助かった」
祥青は鼻面を押しつけてくる馬を撫でた。一人で戦っていたわけではなかったのだ。馬と人が一体となって戦う。それが、騎兵なのだ。
祥青は脚を引きずり、馬の背に這い上った。脚にはきつく布が巻かれていた。何日か前に負った矢傷だった。
引き時だった。矢も尽きていた。これ以上、襲撃を続けるのは危険だった。取り囲まれてしまえば、逃げられない。そのことが、今日の戦いでよくわかった。一騎だけで、城を攻めるのは無理なのだ。
「あの人なら」
祥青は、ひととき一緒に駆けた女性のことを考えた。凄まじい剣技と、騎馬術を持った騎兵だった。彼女ならば、単独で城を攻め落とすことも可能かもしれない。噂では、事実として語られてもいた。
だが、彼女はいない。つい先日の戦線で、味方の将を逃がすため、たった一騎で敵軍に立ち向かった。それ以来、行方知れずだった。最後の戦闘相手は、今、城に駐留している軍だった。
少年は、敬愛する女騎兵を捜し出すために、軍を離脱した。そして、手がかりはないかと、城攻めを思いついたのだ。結局、何もわからなかったのだが。
楊然は、駆け去る騎兵に向けた弓を下ろした。矢は当たらなかった。馬を驚かせただけだった。
「腕の差か」
人の上に立つようになって、弓を握る機会は減った。腕が鈍った理由にはなるが、そうではない何かを、あの騎兵に感じていた。
「年とは思いたくない」
騎兵は若かった。比較してしまうと、年を感じる。
二の矢は握らなかった。乙矢は次の機会だ。それまでに、腕の錆を落とそうと考えた。
騎兵の鎧姿は、先日戦った央の国のものだった。たった一騎で何をしようとしていたのか。
「まさかな」
捕虜救出のためではあるまい。あの戦いで彼の国が犠牲にした、たった一人の兵士を救いに来たわけではないだろう。
生きていることも知らないはずだ。生きている、と言えるかどうかは別として。
楊然は、青い矢羽根の乙矢を箙に落とした。




