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異世界を救えなかった異端の勇者−百年戦争異聞録−  作者: 奏楽雅


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第04話:初日

俺とバシリアの、ヴォージュからルーアンまでのタイムリミット付きの旅が始まった。


山道の土はまだ夜露を吸って柔らかく、馬蹄が沈むたびにぐしゃりと小さく鳴った。

バシリアは手綱を軽く操りながら、時々こちらを振り返ってくる。俺が馬に乗るのに苦戦したのを、まだ笑いを噛み殺しているんだろう。

……見えてんだよ、その口元。


ヴォージュ山脈を抜け、ロレーヌ地方へ向かう山間の道へ入った。

バシリアは首にかけた羊皮紙の地図を広げて、馬の上から示す。

「アニェス様。私たちが今いるのは、火刑に遭われたノワール湖近くの辺境の村を出たばかりの道です。ここからルーアンまでは、およそ百七十五リューの長旅になります」

アニェスは馬の首を撫でつつ問いかけた。

「バシリア。俺がなぜ火刑にあっていたかわかるか?」

バシリアは地図を巻き、少し声を落とした。

「……このヴォージュの辺境は、神聖ローマ帝国の影響も受け、中央王権がほとんど及ばない土地柄です。こうした場所では、イングランド軍の命令よりも、地方の狂信的な領主や司祭の権威が勝るのです」


そこで一拍置き、バシリアは俺の方を見た。

「ですが――火刑の直接の理由は、もっと個人的な悪意です」

鞍の上で姿勢を正し、続ける。

「アニェス様は……美しすぎたのです。身寄りのない少女がふらりと村へ現れれば、目をつける者も出ます。

とくに、あの村の司祭は欲深くて……あなた様が言いなりにならなかったことを逆恨みし、“悪魔と会っていた”という噂をでっち上げました。

――すべては、あの司祭の私怨にすぎません」


「あの足元にうずくまってた奴か……」

バシリアは唇を噛み、苛立たし気に眉を寄せた。

「本当に、馬鹿げた話です」

俺は前を見つめたまま問い返す。

「俺は……流れ着いた者なのか? 俺の意識が現れたとき以前の歴史が、この身体にはあるってことか。何か知っているか?」

「そこまでは存じ上げません。ですが……アリス様なら、あるいは」

「そうか……」


バシリアは話を切り替えるように地図を再び取り出す。

「続けます。これから向かうルーアンは、この辺境とはまったく性質が異なります。

あの街はイングランド王ヘンリー六世がフランス王を名乗る“偽りの王都”。兵士の横暴も目に余ります。

ルーアンへ向かうとは――地方の狂気から、今度は王国の腐敗の中心へ足を踏み入れる、ということなのです」


アニェスは、周囲の荒れた森に目を向けた。「支配地と被支配地。線引きは明確なのか?」

「いいえ、混沌としています」バシリアは首を振る。「フランスは三つに引き裂かれています。北はイングランド、東は裏切り者のブルゴーニュ公。そして、辛うじてシャルル七世が居場所を保っているのは、南のロワール川周辺、ブールジュが中心です」


バシリアは寂れた街道を指差した。「さらに、戦争で故郷を焼かれ、畑を追われた農民や元兵士は、生きるために『ルティエ』という強盗団に成り下がりました。彼らは敵味方関係なく、略奪を働く。街道は血で汚され、誰も安全ではないのです」

「つまり、この国には正義も秩序もない。支配するのは、イングランド王でも、フランス王でもない。暴力と飢えだというわけか」アニェスは淡いブルーの瞳を細めた。

バシリアは静かに頷いた。「飢えと暴力が人々の心を壊し、魔女狩りが盛んになった。皆が『不幸の原因』を誰かのせいにしたいからです。あの辺境の村の群衆が、あなた様を火刑にしたのも、そうした狂気の結果です」


「なるほど」アニェスは手綱を握る小さな手に力を込めた。「俺の力は、あの世界を救えなかった。だが、この世界を滅ぼすことなら簡単にできる。その火種が、腐敗の巣窟ルーアンにあるのなら、乗ってやろう」


バシリアは静かに微笑んだ。「あなたの目的のためであれば、ジャンヌ・ダルクがどの王に仕えるかは問題ではありません。歴史の流れを動かし、ご自身の力を示す機会を作りさえすればいいのですから。そのために、私たちはルーアンへ向かいます」



午前のうちに山間を抜けると、道は徐々に開けてきた。樹々の間から畑が見え、塩袋を積んだ荷馬車がのろのろと進んでいる。

修道士の一団や、腰を曲げた農婦。戦争で家を失ったのか、家財を抱えた家族連れもいた。


百年戦争のただ中――そういう現実が、嫌でも目に入る。

「お気をつけください、アニェス様。ああいう往来の混ざり方は、野盗も紛れることもあります」

バシリアがぼそりと忠告してくる。


村人たちの視線を背に受けながら南西へ進んでいた。

空気は澄んでいるが、どこか湿って重い。春の訪れを感じさせる牧草の匂いと、遠くの農家で焚かれる薪の煙の混じった臭いが鼻を刺す。


「このままジュラールメ方面へ出れば、中継地点まで距離を稼げますね」

バシリアが淡々と告げる。


「やっぱり今日は走れるだけ走っておかないとだよな。タイムリミットもあるし」


救出までに使える時間は、決して多くない。

ルーアンに着いたからといってすぐ動けるわけでもない。情報の収集、動き方の決定、潜入ルートの確保……。

29日という期間は、余裕どころかギリギリの線だ。


途中、道端の村をいくつも通り過ぎた。

どれも石造りの家が数軒、藁葺き屋根の納屋、馬と牛が数頭。農夫たちが鍬を止め、俺たちをまじまじと見つめてくる。


「……完全に不審者扱いだな。なあ、バシリア。俺たち目立ってないか?」

「そうでしょうか?」


「どう考えても、そうだろ。

この時代にはない衣装だぞ。村を通るたびに見られるし、農作業してる連中まで、俺たちを見て鍬を落としてるし」


バシリアは周囲を軽く見回し、相変わらずの無表情で首を傾げた。


「この時代の婦人服は騎乗に向いていません」

「なら、ズボンでいいんじゃないか」

「だめです」

「なぜ」

「アリス様の意向です」


そう言う彼女は、どこか楽しそうだ。

アリスの顔を思い浮かべると、なぜか自信満々で親指を立てる姿しか出てこない。

なるほど。ズボン禁止も道理だ。


この時代、女性が馬に跨がるだけでも噂になる。

男装などしたら、魔女呼ばわりされる可能性さえある。


男尊女卑と言うより“集団ヒステリー”の方が近い。

少しでも他人と違えば、村という小さな共同体は一気に牙を剥く。


フランスは大国とはいえ、今も昔も農業国だ。

農民は土地に縛られ、領主階級から搾取され、迷信にすがり、外から来た者を本能的に恐れる。

そして集団になれば、強者に媚び、弱者を排除する。


その姿は、俺が生きた“現代”でも、そして“あの世界”でも変わらなかった。

……人間は、どこの世界でも結局、同じなのだ。


「お気になさらず。そもそも彼らは、理解できないものを拒絶しているだけです。弱者が集団になると、勇気を得るのはいつの時代も同じです」


バシリアはどこまでも冷静だった。


それにしても、この時代の街道は思ったよりも整っている。

遠くに見える村落は素朴で、教会と石造りの家々が点在している。周囲には小麦畑や牧草が広がり、柵に囲まれた放牧地には、羊や牛がのんびり草を食んでいる。

初夏の風が渡り、馬の鬣を撫でた。


……だが油断はできない。

石を投げてきた男の顔には、俺たちへの恐怖ではなく、妙な敵意が混じっていた。

異国者、異邦人、そして“知らないもの”。


——この世界は、あの世界のように魔物はいないが、

人間の“怖さ”はむしろ上かもしれない。


***


村の視線と小さな騒動をいくつも抜け、日が傾き始めるころには、俺とバシリアはようやく周囲の景色を眺める余裕を取り戻していた。


森が切れ、わずかに開けた丘陵地帯へ出る。

遠くまで続く畑、まだ冬明けの硬い土を耕す農夫たち。

家畜の匂い、薪を割る音、子どもの泣き声。

どこまでも“日常”が広がる世界に、俺はしばし目を細めた。


「……こっちは平和だな」


「ええ。戦が近づけば、こうした畑は荒らされ、人影も絶えるでしょう」


バシリアの声には慣れた静かさと、うっすらとした寂しさが混ざる。

彼女はメイドとして、この手の光景を何度も見てきたのだろう。


その後も歩みを進め、三十キロ強の距離を稼ぐと、日暮れが近くなってきたこともあり、野営の準備をすることにした。


「この辺で野営しましょう」

バシリアが周囲を見回し、藪の奥に細い川を見つけた。


「焚火、どうする? 狼とか出るんじゃないか」

「最低限だけ、です。長くは焚けません。煙は目立ちますし…この地方は兵の巡回もあります」

「なるほどな」


この時代で夜に焚火を長く焚くのは“ここに居ます”と言っているようなものだった。


俺たちは落ち葉を払って地面を整え、小さな火を起こした。

炎が上がると、パチパチという控えめな音が静寂に響く。


「……アニェス様、今日はよく頑張りましたね」

「子ども扱いするな」

「そんなつもりは…いえ、ありますね」


バシリアはじっと俺を見つめる。

今日ずっと気になっていた。

“俺が初めて馬に跨ろうとしたとき、笑いをこらえていた” あの時の顔だ。


「何か言いたいこと、あるだろ?」

「いえ……申し訳ありません。思い出すと、どうしても頬が緩むので」


あ、やっぱり笑ってたんだな。


「ほっとけ。あんな高さから馬に乗るなんて人生初だしな」

「ええ。でも、あれほど危なっかしい乗り方は初めて見ました」

「だから笑ったんだろ!」

「笑っていません。心の中で小さく微笑んだだけです」

「それを笑ったって言うんだ!」


バシリアは肩を震わせて、しかし声に出して笑わないよう必死で我慢していた。


火の明かりに照らされた彼女の横顔は、普段より柔らかかった。


その後、簡素な干し肉とパンの夕食を取ると、俺たちはすぐ土をかけて消した。


夜空には雲がなく、星々が異様なほど明るかった。


「……こんなに澄んだ空、久しぶりだ」


「戦の煙が届かない地域だけが見られる贅沢ですよ」


遠くでフクロウの声が聞こえ、川のせせらぎが夜気に混じる。


「明日はさらに人目の多い村を通ります。アニェス様、目立たないでください」

「だからこの格好が悪いんだろ」

「……否定はしません」

「しないんだ」

「でも、他の選択肢はありませんので」

バシリアは少しだけ笑って、毛布にくるまった。


そうして、ヴォージュを離れて最初の夜は静かに更けていった。


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