第20話:レンヌ
夜営は静かだった。
焚き火は落とされ、馬の鼻息だけが闇に溶けている。
見張りは俺一人。
ティートンは少し離れた場所で、ただ夜空を見上げて座っていた。逃げようとする気配はない。夜露を受けるブロンズの髪が、やけに月明かりを弾く。
「……眠らないの?」
不意に、彼女が言った。
振り返ると、こちらを見てはいない。
「見張りだからな」
「そう」
一拍。
その間に、風が草を撫でた。
「あなた、優しいのね」
ティートンは微笑まなかった。事実を並べただけの声だった。
「でもそれ、長くは持たない」
俺は何も言わない。否定もしない。
「村を救って、やり方を残した。
私たちなら……違う選択をした」
「治して、去った。そう言いたいのか」
「…いいえ」
初めて、こちらを見た。
その瞳に後悔はない。ただ、積み重ねた年月の重さがあった。
「かつて――黒死病が世界を覆ったとき。
癒しを司る九姉妹として、救いの手を差し伸べようとしたときがあったわ。
でも…村を救えば、次の村が押し寄せる。
癒しは選別で、世界を歪める。
救済は管理と、世界を壊さないために、私たちは救わないことを選んだ」
「それで、世界は救えたのか?」
問いは静かだったが、夜気がわずかに張り詰めた。
ティートンは答えなかった。
代わりに、別の話を始める。
「姉妹は九人。全員、同じ考えじゃないわ。
誰かはあなたみたいだったし、誰かは……もっと冷たかった」
焚き火の跡を指でなぞる。
「癒しは武器になる。
だから、誰を癒すかで、争いになる」
「亀裂があった?」
「最初からよ」
笑みが、ほんの少しだけ歪む。
「それでも、私たちは敗れた。
世界に負けたんじゃない。
“動かない”と決めた自分たちにね」
俺は彼女を見つめる。
「後悔しているようには見えない」
「後悔はしないわ。
でも……あなたを見て、思い出しただけ」
「何を?」
「もし、あの時。
あなたみたいな子がいたら、違ったかもしれないって」
沈黙が落ちる。
遠くで梟が鳴いた。
「逃げないのか?」
俺が聞くと、ティートンは肩をすくめた。
「逃げる価値があるならね。
今は……観察中」
「俺を?」
「ええ。
優しさが、いつ刃になるか」
月が雲に隠れ、彼女の表情が闇に溶ける。
「捕虜扱いは、構わないわ」
「でも覚えておいて。私は挫けていない」
「敵か、味方かも?」
「それは、あなた次第」
夜が、再び静かになる。
俺は見張りの位置に戻り、空を仰いだ。
背後で、衣擦れの音が一度だけした。
逃げるためではない。姿勢を変えただけの音だった。
その夜、
俺は初めて――
捕虜としてではなく、一人の“魔女”と話した気がした。
***
「アニェス様。レンヌが見えてきました。
ここはブルターニュ公ジャン五世の勢力圏です。
名目上はフランス王国寄りですが……」
バシリアは言葉を選ぶように、わずかに間を置いた。
「現実には、イングランドとも停戦や融和関係を保っています」
「どういうことだ?」
「……とても曖昧で、張りつめた空気のある都市です」
説明するバシリア自身も、うまく言い切れずにいる。
「そのおかげで、イングランド軍の常駐はありません。
ですが、密偵や連絡役はいます。
街道の検問は比較的緩いですが……」
そこでペトロナが言葉を引き取った。
「露骨な反英の行動は危険。
つまり、余計なことをしなければ比較的安全。
ですが、何かあっても守られる保証はありません」
「なんかフランスってどうなってんだ?」
俺の率直な感想だ。
「イングランドもフランス人の王家出身だから俺んだって言い出したのが始まりだよな」
「はい。フランスで1328年にカペー朝が断絶したため、傍流のヴァロワ家のフィリップ6世が即位いたしました。それに対して、フランス王女を母に持つイングランド王のエドワード3世は、当初は承認していましたが、対立が深まり、1337年にフランス王位の請求を正式に主張しました」
「1360年のブレティニー条約で、エドワード3世はフランス王位の請求権を放棄したわ」
ティートンがペトロナの話に加わった。
「その代わりとして、エドワードはフランス西部に広大な所領を得ました」
「請求権を放棄した代わりに得た所領だったのに、シャルル5世が再征服戦争を仕掛けてきたのよ」
うん、パーティ内で100年戦争が始まった…
「その後、フランス国内で有力貴族のアルマニャック派とブルゴーニュ派が内部抗争始め。その混乱に乗じてイングランドが戦争を再開しました」
「イングランドは1415年のアジャンクールの戦いで大勝して。1420年のトロワ条約でイングランド王家がフランス王位を継承することが決まったわ」
「で、今に至ると…」
続きそうなので俺は締めた…
「アリス様が、アニェス様からこの話を聞かれた場合、このように言うように言われております。
倒産寸前の老舗のフランスホールディングス株式会社があり、アルマニャック、ブルターニュ、アンジュ―、その他中小関連企業がありました。
そこに、敵対的買収会社イングランド社が現れ、パリ本社ビルを占拠。
乗っ取りに協力する巨大関連会社として元はフランス社の一角だった、独立採算制の巨大企業、ブルゴーニュ社がイングランド社と結託。
フランスホールディングス株式会社は、外資が買収しに来ていて、社内の有力部門は独立も視野に入れて瓦解寸前だったところ。外部から来た天才コンサル兼現場エースのジャンヌ・ダルクが現れた…だそうです」
「なるほど、なんとなくわかった…」
「私には意味が解っていませんが…恐縮です」
ちなみに、ペトロナとティートンが、フランスとイングランドに別れて言い合っていたが…フランス人はジャンネットだけだったりする。俺?俺はフランス人形みたいななりだが日本人だ。
***
レンヌは、城壁は低く、石も新しい。
戦地の街に見られるような緊張はなく、門前には荷車と徒歩の旅人が並んでいる。
槍を持った兵が二人。
鎧は揃っているが、動きに切迫感はない。
「次」
声も淡々としている。
バシリアが一歩前に出た。
「巡礼です。シャルトルから来ました」
兵士は俺たちの服装を見る。
白のドレス、黒のメイド服。視線が一瞬だけ止まる。
「……珍しいな」
それだけ言って、荷を指さす。
「中を」
ペトロナが鞍袋を開く。
パン、干し肉、水袋。
帯剣が二振り。
「護身用です」
「まあ、今の世の中な」
兵士は肩をすくめる。
「滞在は?」
「一晩だけ」
「なら問題ない。
日が落ちたら外は歩くな。盗みが多い」
それ以上の詮索はなかった。
通行証も求められない。
城門をくぐると、バシリアが小さく息を吐いた。
「……拍子抜けですね」
「ここは“疑うより流す”街です」
ペトロナの声も低い。
市場は賑わっている。
魚、塩、布。人の声が重なり合い、活気がある。
俺たちは買い物のふりをしながら、耳を立てる。
干し魚を並べる女が、客に小声で言う。
「この前、東の街道で徴発があったそうだよ」
「イングランドかい?」
「さあね……
腕章はしてなかったって」
別の男が口を挟む。
「ブルゴーニュの連中じゃないのか」
「いや、フランス王党派だって話もある」
誰も断言しない。
そして、誰も深く追及しない。
布商人が俺たちに話しかけてくる。
「旅の方か。
この先へ行くなら、南へ回りな。西は面倒が多い」
「面倒?」
「……軍じゃない連中が多い」
それ以上は言わず、布を畳む。
ジャンネットが俺の袖を引いた。
「ここでは……みんな、はっきり言わないんですね」
「言えない、が正しいかもしれません」
バシリアの声は静かだ。
「どちら側とも言えない人々」
市場外れの井戸端。
水を汲む老人と若者が話している。
「王はどっちだと思う?」
「さあな。遠い人だ」
「イングランドは?」
「来なけりゃそれでいい」
若者が水桶を持ち上げる。
「俺たちは畑を耕して、パンを焼けりゃいい」
老人が頷く。
「勝った側に頭を下げるさ。
生きてりゃ、それでいい」
俺は胸の奥が少し重くなる。
英雄も、聖女も、
この人たちの暮らしの中では、遠い。
バシリアが言う。
「レンヌは戦っていません。
だから壊れてもいない」
「でも……」
「だからこそ、踏み込めないのです」
ペトロナの言葉は、結論だった。
ジャンネットは何も言わなかった。
宿は城門から少し離れた、石と木の混じった建物にした。
外の喧騒が嘘のように、扉を閉めると音が落ち着く。
暖炉には小さく火が入っている。
六月だが、夜はまだ冷える。
主人は無口で、必要なことだけを告げた。
「食事は今のうちだ。
夜半は戸を開けるな。ノックがあってもだ」
理由は言わない。
それで十分だった。
俺たちは角の卓につき、パンを割り、煮豆を分け合う。
ワインは薄いが、悪くない。
周囲の客も同じだ。
誰も声を荒げず、政治の話もしない。
隣の卓では商人らしき男が言った。
「明日は南へ出る」
「東じゃないのか?」
「……南だ」
それで会話は終わる。
方向に意味があるが、言葉にはしない。
食事を終え、部屋へ上がる。
二人部屋を二つ。
俺はジャンネットと同室になった。
窓を開けると、遠くで鐘が一度鳴った。
時を告げる鐘だが、急かす音ではない。
「静かですね」
ジャンネットが言う。
「うん。嵐の前、って感じでもない」
「嵐が来ない夜も、あります」
ベッドに腰掛け、彼女は手を膝に置く。
「レンヌの人たちは……選んでいないようで、選んでいるのだと思います」
「何を?」
「生きることを。
正しさよりも」
それは責める口調ではなかった。
むしろ理解している。
廊下を誰かが歩く音がする。
足取りは普通で、急がない。
戸は叩かれない。
悲鳴もない。
夜は、そのまま進んでいく。
俺は白いドレスの裾を整え、靴を脱ぐ。
「……こういう夜、久しぶりだな」
「怖くない、という意味ですか?」
「違う。
何も起きない夜が、ちゃんと夜をしてる」
ジャンネットは少し考えて、頷いた。
「そうですね。
祈らなくていい夜です」
灯りを落とす。
窓の外では、見張りの兵が一人、
槍を肩に預けて歩いている。
その姿は、守るためでも、脅すためでもない。
ただ、そこにいるだけだ。
俺は目を閉じる。
こんな選択も生きるためだ。生きて無ければ選択することすらできない。
生きること自体戦争だから。
それを、誰も口にはしない。
だからこそ、この夜は、
何も起きないまま、終わった。
…夜中に寝ぼけたティートンが俺の布団に潜り込んできたぐらいだ
…なるほど“眠りのティートン”だ。




