第16話:ペトロニラ・ド・ミース
廃屋の壁に走る裂け目から朝光が差し込み、鳥の声が湿った空気を震わせていた。
誰に起こされるでもなく、俺たちは黙々と出立の支度をしている。眠れた者など、ほとんどいない。
昨夜、進むべき指針を決めた。海を渡り、ブリテン島にあるという“鍵”を探す。
……だが、実際のところ話は曖昧そのものだ。
右も左もわからない広いブリテン島で、形も所在も判然としない“鍵”を探せというのか。
冷静に考えれば、砂漠で水晶を探せと命じられるようなものだ。
ジャンヌ・ド・ブリグの協力は必要だと思う。
だがその彼女すら、俺たちはどこを探せばいいのかわからない。
隣ではバシリアが身じろぎし、くぐもった息を吐いた。
昨夜、何度も寝返りを打っていたのを、俺は知っている。
アリスやサラが心配なのだろう。
普段ならラ・イルの豪快ないびきも、ポトンの歯ぎしりも、俺たちを眠りから奪うことはない。
今夜ばかりは違った。
準備が整い、壊れかけた戸へ手をかける。
冷えた木が軽く軋んだ。
その瞬間だった。
「……!」
今の今まで俺の感知に一切引っかからなかった“人影”が、朝霧の向こうに立っていた。
俺の感知能力を搔い潜れる相手である。生半可な相手ではない…
こんな芸当ができる相手が、ただの通りすがりのはずがない。
身構える俺を置いて、バシリアが地を蹴った。
「バシリアよせ!」
俺の叫びは霧に呑まれ、届かない。
人影とバシリアの影が重なり――静止した。
跳躍するように駆け寄る俺の前で、バシリアはその人物に縋りついていた。
相手は、そっと彼女の頭を撫でている。
「は……?」
振り向いたその人影が、かすれた声で言った。
「アニェス様、早くに申し訳ありません。緊急事態のため、伺わせていただきました」
「ペトロニラさん……?」
バシリアを抱いたまま、彼女――ペトロニラ・ド・ミースは軽く頭を下げた。
アリスが語っていた名だ。
黒髪ロングを先端で結っている。瞳は淡いグリーン。雰囲気はバシリアに似ているが、外見はジャンネットと同じくらいの年頃に見える。
バシリアとサラが双子であることは聞いていたが、ペトロニラとの関係までは知らない。
だが、今はそれより――
「ペトロニラさん、大丈夫ですか」
ふらついたペトロニラを抱きとめると、抱きかかえた腕に、力の抜けた身体が預けられた。
衣服はあちこち破れ、焦げた跡もある。
身体には浅くない傷。
ほうほうの体でここまで辿り着いたのは明らかだった。
「大丈夫です……お気遣い、感謝します」
そう言うと、俺に支えられたまま膝をつく。
俺はすぐに《キュア》を唱えた。
傷がみるみる閉じていくが、失われた体力までは戻らない。
すまない、と目で伝えると、彼女は弱い笑顔を返した。「十分です」と。
気配が収まったのを感じたのか、ジャンネットやポトンたちも集まってきた。
「こちらの方は?」ジャンネットが問いかける。
「ジャンネットを助けてくれと依頼したアリスのメイドさんで、ペトロニラさんです」
説明すると、ラ・イルが目を細める。
「バシ姉さんと雰囲気が似てるな」
その一言に、バシリアが顔を上げた。
「……私の母です」
「「「母?」」」
驚愕の声が重なる。
ジャンネットが目を丸くしながら、俺の方を振り向いた。
俺は首を横に振り返す。俺も今知った、と。
「普通ですよ」
ペトロニラは頬に手を添え、平然と告げた。
沈黙が一瞬落ち、それを破ったのは全員の叫びだった。
「「「「魔女って理不尽」」」」
朝の静寂に、俺たちの声だけが鮮やかに木霊した。
***
ペトロニラ・ド・ミース。
アリスの侍女として仕え、拷問の果てに“魔術の自白”を強要され、1324年に火刑にされた。
魔術を理由に火刑に処された、史上最初の“魔女”とされる人物。
だが、彼女は静かに笑いながら俺に告げた。
人の火刑ごときで、魔女は死なないと。
むしろ火刑で命を落とした者たちは皆、冤罪だったと。
そしてその闇は、今後およそ四百年も続くのだと。
そう語り終えると、彼女は最後にこう付け加えた。
「どうぞ、ペトロナとお呼びください」と。
――歴史上の人物だったんだ。
思考の底に、そんな感想が静かに沈んでいく。
同様に、主人アリスと共にアイルランドより逃亡したバシリアとサラもペトロニラ――ペトロナの娘として記録されているらしい。
まあ…それは本題ではない。
「アリス様が襲われ、サラと共に連れ去られました。私はアリス様の命でジャンヌ・ド・ブリグ様を逃がす役目でしたので……難を逃れました」
「そこまでは大体把握している」
俺は、ジャンヌ・ド・ブリグの紙片をペトロナに見せた。
「ジャンヌ・ド・ブリグに会えないか?」
ペトロナは視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「彼女は今、フランスで最も信頼できる方のお預かりです。モルガンであれ、他の誰であれ、手出しできない場所に。ただ……それだけに、お会いするのは難しく…」
「そうか……。無事なだけで十分だ」
胸の内側で張り詰めていた糸が、かすかに緩んだ。
「だが昨夜、俺たちはブリテン島に渡り、アヴァロンへ向かうと決めた。が…雲を掴むような状況なんだ。手がかりを求めている」
「そのために、私が参りました」
「わかるのか?」
俺がペトロナを見ると、彼女は静かに一つ頷いた。
「バシリア。アヴァロンについて説明しましたか?」
「は、はい。別位相の地であること、アーサー王の眠る場所であることも…」
「そう。ではその続きを説明させてください」
ペトロナは背筋を伸ばし、俺へ真っ直ぐ視線を向けた。
その瞳には、遥かな血脈の記憶が揺れている。
「アニェス様。ケルトには位相の異なる地が複数存在し、それぞれが層を成し、多層構造として重なっています。
最上層がアヴァロン。
王権の再生、戦士の再生、治癒、霊的秩序を司る“王の地”。
中層にはティル・ナ・ノーグ。
永遠の若さ、生命循環、妖精や魔女の力が満ちる“活力の地”。
同じくマグ・メル。
勇気と功績によってのみ到達できる“栄光の死者の国”。
そして最も薄い下層。
人間界に接する膜のような層で、妖精の迷い路が広がり、現実世界と行き来する扉が点在します」
「神話や伝説じゃなく、実在している……そういう理解でいいんだな?」
「はい」
ペトロナは深く頷き、言葉を続けた。
「そして、アニェス様。
アリス様を含め、私どもの血統はティル・ナ・ノーグに所縁を持つ魔女です。
ゆえに、彼女たちはアリス様を“アヴァロンを害する存在”と見なしたのでしょう」
そこで、彼女はひとつ息を整えた。
覚悟を固めていく気配があった。
「アヴァロンが動きました。
アーサー王も、目覚めつつあるのでしょう。
アニェス様。
アリス様救出へ向かう道は……ここからが本番になります」
***
「天使様、ジャンヌ様、どうかお気をつけて。ジャンヌ様の件は、王に必ずお伝えいたします」
ポトンが深々と頭を下げ、俺とジャンヌへ別れの言葉を残した。
「何かあったら、頼ってください。バシ姉さんも……元気で」
ラ・イルがバシリアの手を取って別れを惜しんでいる。何があったお前ら…
ここで、ラ・イルとポトンとはお別れだ。
本当ならジャンネットもポトンに預けるのが安全だった。
だが、ジャンネットは頑として譲らない。
ミカエルに言われた“俺の見張り役”という使命が、どうやら絶対のようだ。
別れというのは、形の大小にかかわらず胸の奥に静かな風穴を残す。
俺は二人に「今までありがとう」と感謝を伝えた。
もう会うことはないだろう。
彼らとの時間は、それほどに奇跡的だった。
二人は現実へ戻り、ジャンヌが失われた後のフランスを護り続ける。
そして俺は、少しでも未来を確かなものにするため、これから動く。
モー方面に向かう、ラ・イルとポトンに手を振り、俺たちは来た道を引き返しブルターニュ方面へと向かう。目的地はドゥアルネネ湾。
再びイングランド、ブルゴーニュ派の支配圏を横切ることになるが……まあ、いつものことだ。
慣れてしまったあたりが、人としてどうなんだろう。
と、意気揚々と進み始めたら、バシリアが呟いた…
「アニェス様。オンブルとブロンダンのこと……忘れてます」
「……」
……うん。
その調子だ。
お前が平常運転に戻ってくれると、妙に安心する。




