第14話:失踪
歩き続ける俺たちの頭上で、6月の風が梢を揺らし肌を撫でてくる。5月とは違う夏へと向かう香りだ。
小氷河期とはいえ、どこか微かに草木の息づきを乗せ、人の営みを拒絶しているわけではない。季節は確かに巡り、世界は優しく生き物を育んでくれている、歩くたび静かに実感していた。
ルーアンからの復路。
俺たちはパリへ向かう東南の道筋を、ひたすら徒歩で進んでいる。馬はルーアンに入る前に放していたため、どんなに疲れても歩くしかない。踏みしめる土は固く、森の影は長く、時折すれ違う旅人の姿さえない。
「ジャンヌさん、徒歩で申し訳ない」
そう口にした俺の言葉には、どうしても負い目があった。英雄として歴史に名を刻む人物を歩かせている現実は、現代人の倫理観が勝手に出てしまう。
「ソレル様。気にしないでください。それと……どうかジャンネットとお呼びください」
振り返った彼女の声は柔らかく、火刑台ではなく陽だまりの下に立つ村娘のものだった。
「ジャンネット?」
首をかしげた俺に、ポトンが当然のように補足する。
「天使様。ジャンヌを親しみを込めて呼ぶ時の言い方です」
「ジャンネット、ね。わかった」
口にしてみると、不思議と距離が縮まる。
俺の中では、シャルル王よりもはるかに名前を知っていた人だ。教科書に出てきた人物というだけで、どうしても畏まってしまう。
だが、救出してからのジャンヌは――いや、ジャンネットは、人並みに笑い、驚き、気遣いもする。ただの若い女性に見える。
救出してからのジャンヌは、普通の女性に見える。ポトンやラ・イルも、戦や神の啓示を受けた後でもなければ、こんな感じだと言っているので、今の姿が素なのだろう。
ジャンヌは、俺を見張るようにミカエルから言われた後は、新たな啓示もないようで肩の力が抜けているように感じる。
ただ、初めて兵舎で会ったときと違い、特別な力を纏っている気はしている。それが何なのかまではわからない。
今後、ラ・イルとポトンとはモーで別れる予定だ。
ポトンにはシャルル王への報告の役目も頼んである。
ジャンヌ・ダルクの火刑が行われたからと言って、100年戦争が終わったわけではない、まだ20年以上も続く長い戦争だ。
それまでフランスに安全な場所、なんて都合のいいものは存在しない。
それをわかっていながら、俺たちは進むしかない。
いっそ俺が武力介入すれば一月掛からずに駆逐しイングランド軍を叩き出すことも可能だし、本国を強襲して滅ぼすことも可能だろう。
でも、そんなことはしない。そんな魔王みたいなこと。
身体は子供でも頭脳は大人――まあ冗談は置いといて。
「アニェス様…アリス様とアクセスできません」
バシリアが胸の奥を押しつぶされたような顔で訴えてきた。
普段は冷静で、こちらが心配になるほど泰然としている彼女が、こんな表情を見せるなんてはじめてだ。
キルケニーの魔女。俺がジャンヌを助けるきっかけになった存在。そしてバシリアの主人。アリスがどうしたというのか…
「アクセス?」
「私は、どんなに離れていてもサラと連絡できるのですが、それが叶いません」
初耳だ。その声は震えていて、気丈に振る舞おうとする意地を見せているが、バシリアの表情を見るとそれが異常事態だということがわかる。
「どうすれば良い?」
問いかけた俺に、彼女はただ首を横に振る。
解決策が浮かばないという事実が、より事態の深刻さを示していた。
「ジャンヌ・ド・ブリグなら何か解るか?」
「どうでしょうか…」
「パリに着いたら会いに行こう。それまで我慢してくれ」
本当は今すぐにでも連れて行ってやりたい。
けれど徒歩移動の旅程は物理的に縮められない。
胸の内で申し訳なさを噛みしめるしかない。
「はい、わかっております…」
そう言いながら、バシリアは気力をそがれたように歩き出す。背が小さく見えた。
「バシ姉さん大丈夫ですか?」
ラ・イルが声を掛けてきた。
……バシ姉さん?バシリアのことそう呼んでるんだ…何とも言えない、妙に微笑ましい呼び方だ。
「天使様、何とかしてあげられませんかね?」
ポトンもバシリアを見て心配そうにしている。
その横でジャンネットが静かにこちらへ視線を向けている。
「…ジャンネットを任せて良いかな?そうだな…3時間ほど…」
「おまかせください」
ラ・イルとポトンは胸に手を添えて深く頷いた。
「ジャンネットも申し訳ないけど…」
「気にしません。どうぞ行ってあげてください」
彼女の瞳は澄んでいて、迷いを抱えつつも、人を支える強さがあった。
その一言に、心がすっと軽くなる。
「じゃあ少しだけ、行ってくる」
「お気をつけて」
ジャンネットの声を背で聞きながら、俺は地面を蹴り出した。
「バシリア!」
「は…いぃ!」
返事が終わるより早く、俺はバシリアを抱え上げた。
お姫様抱っこ。ふわりと浮いたように軽い。
だがその軽さの裏に、焦りと不安が詰まっていることは痛いほど伝わってくる。
次の瞬間、全力で走り出した。
今回はさらに筋力増強。質量軽減。進行方向への真空トンネルを生成し、自身には空気の層を纏う。
複雑な魔法式を同時に走らせるたび、脳の奥がじりじりと熱を帯びるけれど、そんなことを気にしている暇はない。
そこで、踏み込み跳躍する。
あくまで跳ぶの延長だが俺はバシリアを抱えたまま空を駆ける。
「アニェス様!」
バシリアが腕の中で身体を縮める。声は驚きと安堵の入り混じったものだ。
「取り敢えずパリまで急ぐ。できるだけのことしかできないが、それで我慢してくれ」
「あ、ありがとうございます」
バシリアは俺に縋るようにしがみついた。
彼女の指先が震えていて、胸が締め付けられる。
魔法補助を全開にすれば、パリまでは一瞬だ。
城壁の上を軽々と飛び越え、俺たちは市街へ降り立つ。
石畳が足の裏に感触を返し、ようやく現実に戻ってきた気がした。
「アニェス様…」
「ん?」
バシリアが気まずそうに眉を寄せている。
「申し上げにくいのですが……ルーアンへの旅って何だったんでしょうか?」
うん、まあ、そう思うよね。
とは言え、これは非常時専用の手段だ。
軽々しく使っていいものじゃない。
俺だって無闇に魔法を多重発動しているわけじゃない。
すべて経験と綿密な計算の上に成り立っている。
一つでも手順を誤ると、不発どころか魔力暴走の危険がある。
質量軽減や真空生成なんて、普通にやればかなり危険だろ。
まして重力制御魔法なんか、誇張抜きで惑星規模の影響が出かねない。
……流石の俺でも、そんなの使う勇気はない。
***
幾日ぶりだろうか、ジャンヌ・ド・ブリグの住む廃教会に足を踏み入れた。
石壁は相変わらず冷たく、湿気の薄膜が張りついている。
入口の光だけが細く差し、内部を輪切りのように照らしていた。
今さらだが、この時代、本当にジャンとジャンヌが多い。
ジャンヌ・ダルク、ジャンヌ・ド・ブリグ、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ。
どいつもこいつもヨハネ由来だというのだから、名前だけ見れば混線事故みたいなものだ。
まあ、マイクやマイケルが熾天使ミカエル由来なのと似たような話らしいが、こうも並ぶとさすがに頭がこんがらがる。
「ジャンヌ様、おいでですか?」
バシリアが控えめな声で呼びかけ、歩を進める。
だが返事どころか気配すら感じられない。
「…これは…」
奥へ入った彼女の動きが止まる。
俺も続いて中へ踏み込むと、そこは荒らされた痕跡が生々しく残っていた。
棚は倒れ、紙束は散乱し、床には黒い擦り跡が点々と続いている。
「何かあった…んだろうな」
ジャンヌ・ド・ブリグのしたたかさを知っているからこそ、無事に逃げおおせているとは思う。
だが、嫌な予感だけは残る。
視線を落とした先、床に落ちた一枚の紙片へ意識が吸い寄せられる。
灰色がかった無地の紙。オクタヴォ判ほどの小さな切れ端。
手に取った瞬間、紙面に淡い光が走り、文字が浮かび上がる。
その内容を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
「バシリア!」
言葉の最後を聞かせる暇もなく、俺はバシリアの手を掴んで外へ飛び出した。
そして、次の瞬間。
廃教会が炎に呑まれた。
轟音と炎の柱。
爆ぜるような音が大気を震わせ、橙色の火が一気に広がる。
背後から吹きつける熱風が、肌を焼くように撫でていった。
俺もバシリアも、その光景に言葉を失う。
ただ、燃え上がる廃教会を見つめるしかなかった。
「何が…」
バシリアの声は、震えた吐息のようにか細い。
俺は紙片を差し出す。
そこには、ただ一言。
“逃げなさい”と書かれていた。
たった七文字。それだけで十分すぎる危険の匂いがした。
「何が起こっているのでしょうか…」
バシリアの問いに、答えられるような知識は俺にはない。
この時代の闇の深さも、権力の裏側も、魔女とされる者たちの棲む影も、どれほどのものか実感できていない。
だが少なくとも、この場に残っても何も改善しないのはわかる。
俺はバシリアの身体を再び抱き上げ、大地を蹴った。
煙を背にして跳躍し、空気の流れを切り裂きながら前へと進む。
考えるのは後だ。
まずはジャンヌ・ダルクの下へ戻り、状況を整理するしかない。
炎の光が遠ざかる。
どうにも、嫌な予感しかしない。
***
それから数日。
パリを大きく迂回しながら進んできた旅路も、ようやくモーが目と鼻の先に迫っていた。
けれど道のりが近づくほどに足取りは重くなる。
一番の理由はバシリアだ。元気がない。表情に影が差したまま、歩くたびに心が少しずつ削れているように見えた。
その沈黙が、周囲の空気までも灰色に染めている。
「バシリアさんは…大丈夫でしょうか」
ジャンネットが、また同じ問いを口にした。
気遣う声は柔らかいが、その内側には不安が積もっている。
俺は、同じ答えしか返せない自分にわずかな苛立ちを覚えながらも、口を開く。
「休めるところまで行ければ、ゆっくりさせてあげたい」
反射のような、何度も繰り返した言葉。
だが、状況は好転しない。
アリスの失踪も、ジャンヌ・ド・ブリグの行方も、手掛かりはゼロ。
あの廃教会の惨状が襲撃を示すのか、それすら俺の憶測にすぎない。
捕らえられたのか、逃げたのか、あるいは全く別の出来事なのか。
今の俺たちは霧の中を歩く旅人みたいなものだ。方向だけはわかるが、足元は見えない。
俺としてもアリスの不在は、今後に関わる。あの世界への道はアリスしか頼れる人がいない。
そんな考えを巡らせていたときだった。
懐から取り出したジャンヌ・ド・ブリグの紙片に、淡い光がにじむ。
浮かび上がった新しい文字を見て、思わず息が止まった。
“モルガン・ル・フェイ”
(?……意味がわからない…)
人名なのか、地名なのか、俺にはこの情報が何なのか、判断しようがなかった。
だが、只事ではない重みがあることは、直感でわかる。
「バシリア」
呼ぶと、彼女は弱々しい歩みでこちらに近寄ってきた。
「はい…」
「大丈夫か?」
「申し訳ありません。どうか、お気になさらずに…」
気丈に振る舞おうとしているのが逆につらい。
頬はこわばり、瞳には疲れが宿っていた。
「休んだほうがいい。そんな調子じゃ…」
「大丈夫です。問題ございません」
いつもの毅然としたバシリアの口調だが、中身が伴っていない。
「……ジャンヌ・ド・ブリグの紙片に文字が出たんだ。見て、判断してくれ」
俺が差し出すと、バシリアは驚くほど素早く奪い取るようにして紙片を手に取った。
そしてその内容を見た瞬間、彼女の肩が震えた。
「モルガン・ル・フェイ…」
声というより、漏れた息に近い。
その名を呟いた彼女の瞳に、静かな火が宿る。
「意味はわかるか?」
問いかけると、バシリアは紙片を握りしめたまま、かすかに震える声で答えた。
「最強のイングランドの魔女です」
その言葉は呪詛のように重かった。
バシリアの胸の奥に渦巻いている感情が、声に滲む。
憎しみ。
怒り。
恐怖。
そして――失われた大切なものを奪われたときのような、鋭い痛み。
「まさか、ここで出てくるとは…」
彼女の瞳は揺らぐ炎のようだった。
憎悪がはっきりと見て取れるほどに。




