第10話:コンピエーニュ
バスティーユからポトンを救い出した俺たちは、
ジャンヌ・ド・ブリグから託された“秘密通路”を使って、ひっそりとパリを後にした。
夜気を切り裂きながら進む石壁の裏道は、
ときおり天井から滴る水音だけが響き、まるでパリの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
地上へ抜けたのは、城壁外の隠された排水路だった。
息をついたのも束の間、ポトンが言った。
「ラ・イルの所へ向かう。あいつなら状況をひっくり返せる」
ここでも俺は「ラ・イル!………誰それ?」とバシリアに聞く、バシリアは「ジャンヌ・ダルクの狂信者です」
「……」バシリア…説明端折りすぎ。
言葉を失っている俺に気づいたかバシリアが説明を続ける。
「ラ・イルは本名をエティエンヌ・ド・ヴィニョルといいます。
“ラ・イル”というのはあだ名で……怒り、烈火、憤怒を意味する呼び名です。
戦場ではその名の通り、炎のように激しく、そして迷いなく突き進む猛将として知られています。
ジャンヌ様を支えた主力の一人で、ポトン様と並ぶ片翼――
二人が揃えば、敵軍でも恐れたほどの勇将です」と説明してくれた。
そういう人物なら、ポトンの判断は正しい。
俺たちはパリ近郊で作戦に従事しているはずのラ・イルと合流することを決めた。
だが旅程としては大きな遠回りになるが――仕方がない。
何処にいるのかはジャンヌ・ド・ブリグが渡してくれたバスティーユの見取り図。
その裏には、まるで付け足しのように小さく書かれていた。
“ラ・イル、現在コンピエーニュ方面にて作戦行動中”
流石は今を見る魔女だと、俺は感心するより笑ってしまった。
「コンピエーニュ。
オワーズ川沿いに位置し、パリから北へおよそ七十キロ。
フランス北部の要衝であり、戦の情勢が動く場所です」
バシリアが教えてくれる。
「急ごう!」
俺たちは馬を飛ばした。
オンブルにポトン、ブロンダンには俺とバシリア。
春の冷えた風を切り裂きながら、野を北へ駆ける。
馬の鼻息と蹄の音だけが、長い一日の距離を刻んでいった。
夜明けとともに薄霧が晴れ、遠くに無数の焚き火が霞み見えた。
あれはラ・イルの陣営だ、とポトンが指さした。
数百の兵がコンピエーニュ南岸のオワーズ川沿いに陣を張り、行き交う兵士の喧騒が、川の流れと混ざって重く響いていた。
戦が、すぐそこまで迫っている――そんな空気が漂っていた。
ポトンを先頭に俺とバシリアが続く
ポトンは見張り兵に要件を伝えると直ぐに
陣内へと案内された。
焚き火に鍋がかけられ、あちこちで白い湯気が立ち、騒々しくとも思える声が陣内を満たしていた。
そんな陣内を俺とバシリアが歩くと、兵士たちの視線が突き刺さってくる。
「なんだ、あのキテレツな服の女は」
「異端者か?」
「ザントライユ様が連れてきたのか」
「ザントライユ様は捕虜になっているはずでは」
「そんなことより、あの白い服の娘可愛い」
「いや黒い方も綺麗だぞ」
「ポトン様の捕虜か?」
(ん、なんだと)俺の眉が跳ねる。
「ザントライユ様の捕虜だってよ」
「へえ、なら俺たちもおこぼれに預かれるんじゃねえか?」
「白い娘は天使みたいだし、黒い方は魔女みたいだな…どっちでもいいが、綺麗だ」
「捕虜なら分け前があってもいいだろう、戦場の掟だ」
「はは、英雄様も女を連れて戻るとはな。俺たちにも回してくれよ」
俺とバシリアの顔が引き攣る。
バシリアは剣柄に手を掛けている。
そして、それ以上に
「……黙れッ!!」
ポトンの怒声が陣営を震わせた。笑っていた兵士たちが一瞬で口を閉ざす。
「この方々は捕虜ではない!俺を救い、ジャンヌ様を救うために来られた天使だ!
おこぼれだと?分け前だと?貴様ら、信仰を侮辱するにも程がある!」
ポトンの目は炎のように燃え、粗野な傭兵たちも思わず一歩退いた。
「この方々を汚す言葉を吐いた舌、今すぐ噛み切れ!」
ポトンはうがーと言って、剣を片手に傭兵を追いかけ回し始めた。
「ポトン!」
騒動を聞きつけた数人が駆けつけると、その中の身なりの良い人物が叫んだ。
「どうした、何があった、お前捕まってたんじゃないのか」
「おお、ラ・イル殿久しぶりだな」
傭兵を追いかけるのをやめたポトンが男に近づくと、お互いを見つめ合った。
「ポトン!良くぞ戻った!」とラ・イルが肩を抱き、ポトンが「神の御業だ」と応じる。
***
テントに案内された俺たちは、地図を広げた机を挟んでラ・イルの前に立つ。
ラ・イルが視線を俺とバシリアに向ける。
「ポトンよ、さっきから気になっていたが、その白と黒のちんまい娘は何者だ?」
「見てわからんか?」
「???」
ラ・イルが複雑な顔をする。
「どう見ても天使様じゃあないか」
「は?」とラ・イルは顔を俺に近づけてジロジロ見る。
(いや、まあ、実際天使じゃないしね…)
と思いつつ非常に居心地が悪い。
ラ・イルは俺を見た後、ポトンを見てまた俺を見る。
「………」
ラ・イルが困っている気がするのは気のせいだろうか。
「…ポトン良く戻ってくれた」
どうやら、ラ・イルは聞かなかったことにしたらしい。
「ジャンヌ様を助けるため俺は戻った」
「そうか、この部隊もそのために動いているのだが、歯がゆいがこの先に進めん」
ラ・イルの話によるとコンピエーニュから真っ直ぐ西へ行けばルーアンなのだが、途中にイングランド軍が待ち構えていて膠着状態らしい。
「このままでは、助けに行けんのだ」
「5月30日までに着けそうにありませんか」俺は口を挟んでみた。
「5月30日?何かあるのか?」
「ジャンヌ・ダルクの火刑の日ですけど」
ラ・イルとポトンが驚愕の目で俺を見る。
「アニェス様、5月30日のことはイングランドと教会側の極秘事項になっていて、公開、喧伝はされていない情報です」
バシリアが耳元で教えてくれる。
「本当なのか小娘!」
「小娘ではない、天使様だ!」
場内騒然である
「事実です、ジャンヌは1431年5月30日に火刑にかけられます」
「なんてこった…間に合わん」
ラ・イルは机を叩き、わなわなと震えている。
「王はなぜ助けないんだ!」
王に会っている俺には、王の最後の頼みが俺達だとわかっているが話せない。
「報告ー報告ー」
ジャンヌの火刑の話で騒めき立つテント内に、息を切らせた兵士が駆けこんできた。
「何事だ」とポトンが問う。
息を切らせた兵士は、机を叩きながら息を整える。
「南の平野に敵影! クレピーとノワイヨン方面から、数百の騎兵がこちらに向かっています!」
その瞬間、テント内の空気が一変する。
ラ・イルの目が一気に鋭くなった。
「…分かった。全員、戦闘準備!」
「この部隊の人数は?」
「300程だ」
ポトンの問いにラ・イルがこたえる。
物見の兵士を急遽増やし、陣内では武器の確認、弾薬の整備が始まる。
「撤退経路は確保せよ、状況次第ではすぐに退く!」
ラ・イルの号令が低く響く。
俺たちは息を呑みながらその様子を見守るしかなかった。
外では、平野を駆ける敵の蹄の音が次第に近づく。
「こんなに早く動くとは…!」ラ・イルがつぶやく。
戦場はあっという間に囲まれつつあった。
「どうする」
「モー(アルマニャック派拠点)まで撤退するしかないか…」
「しかし、ジャンヌ様が…」
ラ・イルの撤退判断にポトンが苦渋の顔をする。
「仕方あるまい、ここから撤退することさえ至難だ」
「むぅ」
川を背に半包囲されつつあり、脱出ルートもままならない。
敵から弓矢が放たれ始めた。
こんな平野では避ける場所がない。
「が」
「ぐぁ」
味方兵士が、苦悶の声を残し倒れていく。
見ていられなくなった俺は一人、南方の敵に向かって歩み始める。
「天使様、そちらは危ない。お戻りください」
「アニェス様…」
敵指揮官は、奇天烈な格好をした女が近づいてくるのを確認すると、弓兵に狙うように指示を出す。
「……止まれ!」
敵将の怒声が飛んだが、その声に“怯え”が混じっているのが分かった。
弦が一斉に鳴り、矢が俺めがけて殺到する。
キィン。
空気が歪む。
矢は目の前で軌道をねじ曲げられ、次々と逸れて地に突き刺さった。
「なっ……!?」
「矢が、避けた……?」
「魔術だ!悪魔の業だ!!」
前列が揺れ、後列の兵士たちはすでに膝を震わせている。
そのとき、俺の背後から声が上がった。
「始まった……アニェス様の舞台だ」
バシリアが、微かな誇りと安心を滲ませて呟いた。
「な、何が起こった…」
ラ・イルを始め、味方からも驚愕の声が上がる。
「言っただろ、天使様だと」
「じょ、冗談ではなかったのか?」
「なんだ、信じなかったのか?」
ポトンの話を信じなかったことを、この場でラ・イルは後悔したようだ。
ポトンは即座に周囲へ指示を飛ばす。
「全軍、散開して待機!あの子の周囲だけ距離を取れ、巻き込まれるぞ!」
そして――
「……うーむ」
ラ・イルは腕を組んだまま、眉一つ動かさず俺を見つめていた。
戦場で鍛えこまれた目が、俺の魔術の“格”を正確に測っている。
「ジャンヌ様といい、この娘といい……どうなってやがる、近頃の神は…」
皮肉とも賞賛ともつかぬ声だった。
――俺は詠唱に入る。
雲が黒く渦を巻き、空気が震えだした。
ゴロォ……ン……
天から落ちる前兆の唸りが、兵も馬もまとめて沈黙させる。
「……来るぞ」
ラ・イルが誰ともなく呟いた。
バシリアは祈るように胸の前で手を組み、
ポトンは固唾を飲んで見ている。
俺が手を掲げ、ひとこと。
「――《サンダー》」
ドオオオオオオオン!!!
天地が裂けた。
閃光が敵前列のすぐ脇へ突き刺さり、
土が爆発し、衝撃で周囲の草木がなぎ倒される。
間髪入れず、焦げ土と鉄の匂いが鼻を刺した。
直撃させるつもりはなかったが、フルプレートを着た兵士などは巻き込まれ、煙を吹いて倒れている。
「ひっ……!」
「雷だ!雷が降った!」
「ありえん、天候が……人の力で……?」
「魔女だ!魔女がいる!!」
「魔女?いや悪魔だ」
「フランスにはジャンヌ以外にも魔女が良いるのか」
「白い悪魔だ」
敵陣は蜘蛛の子を散らすように混乱し、
悲鳴、怒号、馬のいななきが入り乱れる地獄絵図となった。
「……化け物め……」
敵将が吐き捨てるように呟き、完全に戦意を失ってゆく。
その背で、味方側の反応もまた静かに広がっていた。
バシリアは安堵の息を漏らし、
「……アニェス様の前に立つ者など、誰もおりません」
ポトンは口元に苦笑を浮かべた。
「戦場ってのは、時々こういうことが起こるから面白い」
そしてラ・イルは、低く笑った。
「よし分かった。
あれは……ジャンヌに続く、“もう一つの奇跡”だ」
落雷の余韻が消えゆく中、
俺は静かに手を下ろした。
敵陣はすでに崩壊している。
「今だ、撤退を!」
俺は敵の混乱を見て指示を出す。
「わかった。南に向かって撤退!全軍俺に続け」
ラ・イルは、騎乗すると直ぐに撤退指示を出す。判断が早い、良い武将だと俺は思った。
「アニェス様!」
ブロンダンに乗ったバシリアが俺を拾い上げ、ラ・イルらと共に怯んでいる敵兵の合間を抜け脱出する。
南方に抜けた俺達は、廃城となっているピエールフォン城まで後退した。
ブロンダンから降りた俺とバシリアを
ラ・イル始め兵士が目を丸くして待っていた。
「本当に天使様だったのですか?」
俺は苦笑いしつつ首を振る。
「いや、天使とは違うけど、まあ、そんな感じかな」
ラ・イルは黙って俺を見つめたまま、拳を握りしめる。
その背中に、妙な敬意と驚きが入り混じった空気を感じた。
「…俺達は貴方様に救われました。なら、今後は貴方様を守るために、俺もこの部隊も動くことに致します」
(え、なんか凄く重くない?)
後ろを向くと、ポトンとバシリアが腕組みをして頷いていた。
と、まあそれはいいとして…
「今の戦況だと、軍を率いてルーアンというのは無理かな」
ポトンとラ・イルが俺の言葉に頷く。
「どうしますか、アニェス様」
もとより、俺とバシリアで助けに行く予定だったので戦力が必要かと言えば不要だ。
「ポトンさん、ラ・イルさんだけ一緒に来て頂けますか?敵中突破になりますが…」
問題はジャンヌを説得できる人材が欲しいだけなので、少人数のほうが逆に都合がいい。
「喜んで。どこまでもお供致します」
「同じくこの命お預け致します」
ポトンとラ・イルは片膝をついて従う旨を表す。
もう暗くなり始めていたので、明日早朝出立することにしてピエールフォン城で夜を過ごすことになった。
***
夜になり曇天だった空も、雲が晴れ月と数多の星が輝いている。廃城の残っていたテラスに俺は立つ。
コンピエーニュからルーアンまで約150キロ。後少しで目的地に着く。
ジャンヌ・ダルクとはどんな人物なのか、教科書でしか知らない人物に思いを馳せる。
「アニェス様、どうかなさいましたか?」
「バシリア。いや、ジャンヌ・ダルクってどんな人物かなって」
「猪突猛進のヤベー奴とお聞きしております」
「え?」
バシリアを見返すと、小首を傾げてくる。
「ヤベー奴だそうです」
二度言われた。
「救国の英雄じゃないの?」
「結果からすると、そうなりますが。オルレアン戦から、常軌を逸した行動で、敵中に突っ込み勝利をもぎ取るヤベー奴だと聞き及んでいます。
ただ最強のバフキャラなのは確かです
兵士も市民もバーサーカーにしてしまいます…カリスマといえばカリスマなのですが…」
「バシリア様」
ポトンが静かにラ・イルと共に歩み寄ってくる。
「その評価は、イングランド側の評価です」
「ジャンヌ様は、彼女は慎み深く、年齢の割にしっかりしており、よく話を聞いてくださいます。
しかし、神からの啓示に反することは決して受け入れないところがありました」
「戦術面では、敵の弱点を見抜く、タイミングによっては的確に撤退を行います。無謀ではなく、確信と士気操作のプロでした」
「ジャンヌ様は、戦にに参加したくないと言われていました。嘘をつけない、誰に対しても礼儀正しい、捕虜を殺すことには強く反対するそんなお方でした」
「…そうか、早く会いたいな」
俺にとって教科書に出てくる歴史上の人物、この目で見て人となりを知りたいと思った。




