第9話 虹の誓い
あの日の虹は、今も記憶の中でゆっくりと弧を描いている。
水があふれ出した高原は今や「光の湖」と呼ばれ、
王都に命の流れを運び続けていた。
その湖面に映る空の色は、季節ごとに違う。
春は白、夏は金、秋は紅、そして――冬は、静かな青。
◇
冬の朝。
私は城の回廊を歩いていた。
外は雪。庭の白薔薇が凍りつき、まるで硝子の花のようだ。
足元の石は冷たく、それでも胸の奥は温かかった。
手を、そっと腹に当てる。
その奥で、かすかに動く命。
「……あなたが生まれるころには、
この国の水も、もっと澄んでいるといいわね」
囁くと、腹の奥が小さく震えた。
答えてくれたのだとわかる。
そこに、足音。
アドリアンが暖かい外套を肩にかけながら現れた。
雪を溶かすような微笑みを浮かべて。
「冷えるだろう、オーリヴィア」
「ええ。でも、この冷たさが好きなんです。
世界がいったん、静かに息を潜める瞬間だから」
彼は頷き、私の手を握った。
その掌のぬくもりが、冬を遠ざける。
「……リリアナから報告があった」
「何かありましたか?」
「北方の氷原に、また新しい水脈が見つかった。
“光の湖”から分かれた支流だそうだ。
人々はそれを“涙の川”と呼んでいる」
「涙の川……」
私はその名を繰り返した。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「面白いわね。涙が流れて、やがて光になる。
そしてまた涙に還る……」
「それが、この国の循環なのだろう」
彼の瞳に、穏やかな光が宿る。
長い戦いと策謀を経て、今ようやく彼が“王”ではなく“人”として微笑む。
それを見るたびに、私は思う。
――この人を選んだことに、間違いはなかった、と。
◇
昼下がり、謁見の間には子どもたちの笑い声が響いていた。
孤児院から招かれた子どもたちが、王城の大広間で遊んでいる。
中央には、あの“光の砂時計”が設置されていた。
砂の粒は淡い金色。
子どもたちが声を上げるたびに、光が揺れて、
天井の鏡に反射して虹を作る。
「ほら、また虹ができた!」
「王妃様の涙の色だ!」
笑い声があがる。
私は彼らの頭を撫でながら、そっと言った。
「いいえ。これは、みんなの涙の色よ。
悲しいときも、嬉しいときも流れる水。
その全部が混ざって、虹になるの」
子どもたちが一斉に頷く。
その中に、小さな少年が手を挙げた。
「王妃様、涙がない人はどうなるの?」
私は少し考え、微笑んで答えた。
「涙が出なくても大丈夫。
そういう人は、きっと誰かの涙を受け止める役目なの」
その言葉を聞いた少年が小さく笑った。
胸の奥に温かいものが広がる。
◇
夜。
王の書斎には、蝋燭の火が揺れていた。
アドリアンは机に書簡を広げ、筆を走らせている。
私は窓辺の椅子で編み物をしていた。
針の音が、ペンの音と重なる。
その静けさが、何より心地よかった。
「オーリヴィア」
「はい?」
「この国の未来を、何と呼べばいいと思う?」
突然の問いに、私は針を止めた。
「未来……ですか?」
「涙の国、光の国――その次に来る言葉がほしい。
君が名付けてくれ」
私は少しだけ考えて、答えた。
「……虹の国、でしょうか」
「虹の国?」
「はい。涙と光のあいだに生まれるもの。
どちらか片方じゃなくて、両方を持っている。
悲しみも希望も一緒に抱ける国。それが未来だと思うんです」
アドリアンは微笑み、筆を置いた。
書簡の最後に、ゆっくりと文字を記す。
王国新憲章第一条――
『我らの国は、涙と光の間に立つ虹の国である。』
その筆跡を見つめながら、私は小さく呟いた。
「……虹は、永遠に届かないと思っていました」
「届かないからこそ、美しい。
だが、君となら届く気がする」
彼が私の手を取り、掌を重ねる。
その瞬間――窓の外で雷鳴が鳴り、雨が降り始めた。
激しい音のあと、空が裂けるように光った。
遠くの夜空に、雨上がりの虹がかかっていた。
夜の虹。
月明かりで浮かぶその弧は、静かな誓いのように輝いていた。
アドリアンが私の肩を抱き寄せ、囁いた。
「見えるか、オーリヴィア。あれが、我々の約束だ」
「ええ。
涙があっても、光があっても――
どちらも同じ空に架かるものだから」
彼の唇が、私の額に触れた。
そのとき、胎の奥で小さな命が動いた。
未来が、確かにそこに息づいていた。
◇
後日――王都の記録には、こう記されたという。
王と王妃は“涙の王家”と呼ばれ、
人々に光と微笑の意味を教えた。
そして、その子の誕生の日、空には七日間、虹がかかった。