第6話 微笑の王妃(序)
春の王都は、冬の涙を洗い流したあとのように明るかった。
白薔薇の庭を渡る風はやわらかく、噴水の水柱は陽の粒を砕いて、地面に散らばる光の欠片を作っている。
私はその光の上を踏まぬよう、裾を少し持ち上げて歩いた。
王妃になって最初の季節。
学ぶべき“王妃の仕事”は、思っていたよりも多かった。
礼儀作法は知っていたつもりでも、冠の重さは数字で量れない。
それでも、私は歩く。
私が歩けば、その足跡が後からくる誰かの道になる――そう、アドリアンが教えてくれたから。
「妃殿下、まもなく本日のご公務です。お迎えが来ております」
控えの間で、侍女のクララがそっと声をかける。
落ち着いた声色には、こちらの鼓動を半歩遅らせる不思議な力があった。
「ありがとう。準備は?」
「万全に。王室諜報局からの覚え書きも机上に。……それから、リリアナ様がお待ちです」
扉が静かに開き、黒衣の影がすべり込んだ。
鋭い灰色の瞳は、相変わらず“情報の匂い”をたたえている。
「ご機嫌麗しゅう。妃殿下――いえ、今日の呼び名は“交渉の刃”でしたか」
「穏やかではないわね」
「外交はいつだって刃物ですよ。刃こぼれしない微笑を研いでおきましょう」
軽口の裏に、緊張が走る。
机に並べられた書状の封蝋には、見慣れない印章が押されていた。
隣国アーシェルの王紋――青い竜。
「本日、アーシェルの使節団が入城します。名目は友好ですが、実際は“水利権”の再交渉が目的。昨冬の渇水で、彼らの穀倉地帯が打撃を受けました」
「こちらは雪解け水で貯水池が満ちている。……つまり、譲れと言ってくる」
「ええ。それだけではありません」
リリアナは机の端の紙を一枚、指先で滑らせた。
簡潔な箇条書き。そこに、ひとつ見慣れた名があった。
――セシリア・アルド侯爵令嬢。
「国外追放はレオン殿下だけでしたからね。彼女は国境付近で静かに身を潜め、“賢夫人”として隣国の重鎮に嫁いだ噂があります。今日の使節団、実質の指南役は彼女です」
白いレースの袖。刃のような微笑。
晩餐会の夜の、あの光景が一瞬よぎる。
「復讐に来る、ということ?」
「ええ。“言葉”で。――剣より厄介です」
私は頷いた。
剣は一太刀で血の色が出るが、言葉は遅れて骨まで侵す。
だから、こちらの武器も言葉でなくてはならない。
「アドリアンは?」
「国庫と水利の算段を詰めています。妃殿下には“民の前に立って、先に『微笑』で世論を取ってください”とのこと」
先に微笑む。
世論という“海”の潮目を、こちらへ寄せる。
王と王妃の役割分担は、涙と同じだけ繊細だった。
「わかったわ。まずは市門で出迎える。市井の言葉を拾い、自分の言葉に変える。それから――」
「“水を配る”。それが最も効果的です」
リリアナは手短に段取りを告げ、最後に表情をゆるめた。
「ご安心を。刺客はいません。今日の敵は、ただの雄弁」
「なら、なおさら気をつけるわ。雄弁は、人を酔わせるから」
◇
市門は、朝から人であふれていた。
色あせた旗、焼きたてのパンの匂い、鍛冶場の槌音。
そこに、王の車列が入ってくる。
歓声が上がるのとほぼ同時に、井戸の前で小さな喧嘩が起きた。
「順番だって言ってるだろ!」
「うちだって畑が枯れてるんだ!」
私はクララと目を合わせた。
彼女はうなずき、用意していた木樽の蓋を外す。
涼しい水の音が、陽炎を切り裂く。
「みんな、落ち着いて。今日は“王の井戸”を開きます」
声は張らず、しかし遠くへ届くように。
水汲みの列がわずかに静まり、目がいくつもこちらへ向く。
私は井戸の綱を握り、最初の桶を自分で引き上げた。
濡れた麻縄が掌に食い込む。
痛みは、恐れを散らす。
「最初の一杯は、こどもたちに」
最前列の少女に、木椀を渡す。
少女は目を丸くし、次に破顔した。
その笑みは、最短で群衆を伝播する。
「王妃様だ。王妃様が水を――」
ざわめきが形を変える。
“誰が先か”という争いが、“どう分けるか”という相談へ。
列は自然と整い、私が一杯、クララが一杯、衛兵が一杯――一定のリズムが生まれた。
そこへ、青い羽飾りの使節団が現れた。
馬具は立派だが、彼らは馬から降りない。
視線は高いところから水平に投げられる。
列の中に、白い手袋が一対。
セシリアだった。こちらに気づくと、唇だけで笑う。
「まあ。王妃自ら井戸端に?」
「挨拶は水からが早いの」
「水は、契約からが早いものですわ」
刃の音が、微笑の裏で軽く触れ合う。
私は桶を引き上げ、最後の一滴まで注ぎ切った。
「契約は『乾き』から生まれる。だから、先に喉を潤しましょう。話はそれから」
セシリアはまばたきを一度だけし、肩をすくめる。
「――お見事。では、喉を潤す時間を差し上げます。
午後、王城で“言葉の舞踏会”を」
「喜んで」
◇
謁見の間は、夏の光を跳ね返して冷ややかだった。
床の大理石に、青い竜の旗が映る。
アドリアンは玉座に座らず、階段の下に立っていた。
王が“対話”を選ぶときの立ち位置だ。
「遠路ようこそ、アーシェルの使節殿。
水の話をしよう。だが最初に――人の話をさせてほしい」
王の声に、使節の列がわずかに揺れる。
彼らは数字から始めると思っていたのだろう。
アドリアンは続けた。
「昨冬、君たちの穀倉地帯で飢えた村に、わが国の商人が密かに米を運んだ。
彼らは儲けすぎた。――だから、罰した。
人の乾きを利益に換える者を許すわけにはいかない」
ざわめき。
使節の先頭にいた文官が眉をひそめる。
「それを今ここで言われる意図は?」
「人を守るために、わたしたちは時に“正しさ”を曲げる。
君たちが水を求めるのも同じだ。
ならば、取引ではなく“共済”を結ぼう」
共済。
場の空気が変わる。
セシリアが、ようやく一歩、前に出た。
「共済とは――互助? 比率は? 担保は?」
「数字は後だ。まず、原則を。
“水は、命に先行する権利である”――これに署名してほしい。
その上で、貯水池の共同管理、渇水時優先配分のルール、監査団の相互派遣。
具体は、君と私の妃が詰める」
視線がこちらへ飛ぶ。
私は一歩、王の隣へ。
セシリアの瞳が、懐かしい鋭さで細くなる。
「王妃殿下。あなたは涙の王の妃。……では、微笑の刃もお持ち?」
「ええ。鞘に収めたまま、お見せするわ」
「鞘の中身が空なら、笑われますわ」
「空なら軽い。……速く振れる」
セシリアの口元だけが、美しく歪む。
「では、最初の一太刀。
――共済の“水準”は誰が決めるの? あなたたち? それとも我々?
多数決? 力? それとも、泣き落とし?」
背後で、諸侯の息が詰まるのがわかる。
リリアナが柱の陰で、わずかに頷いた。
ここだ、と。
「“乾きの声”が決めるわ」
「乾きの声?」
「王都の井戸でも、あなたの国境でも、誰が先に喉を鳴らしたか。
記録官を置き、渇水時には“最も時間の長い乾き”から順に配る。
――人は、泣くより先に喉で叫ぶから」
ざわめきが広がり、やがて納得の波に変わる。
セシリアが肩を震わせて笑った。本当に愉快だというふうに。
「詩的ね。詩は契約にならない」
「詩は、契約に魂を入れる。
魂のない紙は、渇きの熱で丸まってしまうのよ」
沈黙。
最初に動いたのは、使節の長だった。
彼は年老いた目を細め、深く一礼した。
「……よろしい。まず“原則”に署名しましょう。
数字は、涙でも笑みでもなく、算盤で。
――ですが、今日は詩で始める価値がある」
セシリアの視線が、氷から水へと溶けた。
その変化は、一瞬だけ、昔の彼女の年相応の表情を連れ戻した。
私たちはそれを見逃さない。
◇
協議は夕刻まで続き、紙束は山になった。
最後の一枚に印が押され、使節団が辞去したあと、謁見の間にはやっと風が通う。
アドリアンは玉座の階段に腰を下ろし、天井を見上げて息を吐いた。
「やれやれ。言葉で戦うのは、剣より疲れる」
「刺し傷は後から痛むから」
「君がいなければ、詩で刺してくる相手には勝てなかった」
「あなたが“原則”を先に置いたからよ。
数字は後――それが人の順番」
彼は笑い、額に手を当てた。
「ありがとう、オーリヴィア。……そして、もう一つ」
「なに?」
「“涙の王”なんて、いつの間にか国中で呼ばれている。
君は何か、呼び名が必要じゃないか?」
私は少し考え、首を振った。
「呼び名は、後からついてくるもの。
今は――“微笑の王妃”でいいわ。誰かが、そう呼び始めるなら」
「誰か、ね」
彼は立ち上がり、私の額に軽く口づけた。
近くで、リリアナが気配だけで咳払いをする。
「妃殿下。お二人の蜜の時間に水を差すようで恐縮ですが」
「なにかしら」
「交渉は終わりました。しかし、戦は続きます。
アーシェルの帰路、国境で“水車の事故”が起きる手筈だった――という報が。
仕掛けは未遂。こちらの手の者が止めました」
アドリアンの眼差しが、鋼に変わる。
「誰が?」
「王都の商会“黒い井桁”。旧レオン派の資金源。
乾きで人を動かす手口は、まだ生きています」
私は深く息を吸った。
冬の匂いが、春の空気にほんの少し混じる。
「なら、次は『井桁』を潰す。
――涙の出ない“乾きの網”を」
「具体は?」
「市門で見たわ。人は、水の列で争う。
列を“見える化”するの。
王都じゅうの井戸に“砂時計”を置く。
待ち時間がどれだけか、誰にでもわかるように。
そして、待ち時間の長い井戸ほど“王の水車”から水を回す。
数でなく、時間で配る」
リリアナの口角が、わずかに上がる。
「面白い。時間は嘘をつきませんからね。
『黒い井桁』は数字をいじれますが、砂は誤魔化せない」
「それに、砂時計は美しい。子どもたちが眺める。
美しいものは、人を守るのよ」
アドリアンが笑い、頷いた。
「明日から始めよう。……“微笑の王妃”の初仕事だ」
私は自分の胸に手を置いた。
ここはもう、涙のためだけじゃない。
笑みのために、脈打っている。
◇
夜、白薔薇の庭。
星は水面に落ち、風は静かに葉を撫でる。
私は噴水の縁に座り、濡れた指先に星を一つ載せた。
それはすぐ、零れ落ちた。
「……泣いてもいい。笑ってもいい。
どちらも、人を守るなら」
独白のような声に、背から足音。
アドリアンが、静かに隣へ座る。
「明日、砂時計職人を呼ぶ。
王都じゅうに、君の“時間”を置こう」
「私の?」
「君はいつだって、待つのが上手かった。
泣かないで待つのは、強さだ。
でもこれからは――泣いても、笑っても待てる国にしよう」
星が、噴水の波にほどける。
私は頷き、彼の肩に額を寄せた。
「ええ。……私たちの“第二の誓い”ね」
遠くで、夜回りの鐘が一度鳴る。
涙の王と微笑の王妃の季節が、静かに深まっていった。
――次話「砂時計の街」へ続く――




