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婚約破棄の瞬間、国王陛下が泣きながら「俺と結婚してくれ」と言った  作者: 妙原奇天


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第5話 花嫁宣言

 王都に、鐘の音が響いた。

 高い塔の上から鳴るその音は、長く、澄んでいて、まるで空気そのものを清めるようだった。


 今日が、式の日だ。


 “仮誓約”から三十日。

 その間に多くのことが変わった。

 王都の商会は再編され、第二王子は国外追放。

 そして――国王アドリアン陛下は、涙を見せる王として知られるようになった。


 人はそれを賛否で語った。

 「感情的すぎる」と言う者もいれば、「人間らしい王だ」と微笑む者もいた。

 けれど陛下はそのどちらも否定しなかった。

 ただ一言、こう言ったのだ。


 > 「涙を知る者だけが、人を守れる」


 私はその言葉を胸に抱いたまま、純白の衣装に袖を通した。

 薄いヴェールの向こうで、侍女たちの手が動く。

 鏡に映る私は、確かに昨日までとは違う顔をしていた。


 ――これは、私自身の選択。


 誰に命じられたわけでもなく、誰に救われるためでもない。

 私はこの道を、自分の足で歩いている。


     ◇


 大聖堂の扉が開いた。

 外の光が、一気に流れ込む。

 人々の歓声、楽団の旋律、花びらの雨。

 すべてが夢のようだった。


 私はゆっくりと歩く。

 赤い絨毯の先、玉座の前に立つ陛下が、静かに私を待っていた。

 いつもの王衣の上に、白いマント。

 その姿は、威厳よりも温かさをまとっていた。


 近づくほどに、世界が静かになる。

 心臓の音だけがはっきりと聞こえた。


「来てくれて、ありがとう」

 陛下が囁いた。

 声は小さかったが、誰よりも深く届いた。


「こちらこそ。泣かないって決めたのに、もう危ういです」

「なら、今日くらい泣いていい。俺も、泣くかもしれないから」


 そのやりとりに、笑みがこぼれた。

 そして神官の声が響く。


「国王アドリアン・ヴァルハート。

貴方は、この女性を正式に王妃として迎え、共にこの国を治めることを誓いますか?」


「誓う」


 短いその一言に、迷いはなかった。


「オーリヴィア・ルミエール。

貴女は、この国王を夫として受け入れ、共に歩むことを誓いますか?」


 私の唇がわずかに震えた。

 人前で話すことに、私はずっと恐れがあった。

 でも今、ここでだけは、言葉を選びたかった。


「誓います。

 ――けれど、私は“王妃”としてではなく、“人”としてこの方の隣に立ちます」


 会場が静まる。

 誰も予期していなかった答えだったのだろう。

 私は続けた。


「この国が誇るのは強さではなく、優しさです。

 涙を流すことを恥じない王と、泣けなかった女が出会い、互いに変わりました。

 今日、私はその奇跡を、国の誇りとして語ります」


 息を吸い、胸に手を置いた。


「私は、“涙の王”の妃です。

 そして、涙を知るすべての人々の味方でありたい」


 その瞬間、誰かが拍手をした。

 一人、二人、そして全員。

 大聖堂の中に、音が波のように広がった。


 陛下の瞳に、光が宿る。

 彼はヴェールを上げ、私の頬に手を添えた。


「……泣くな、と言ったのに」

「泣かないつもりでした。けれど、嬉しい涙は止まりません」

「なら、俺も同罪だ」


 ふたりの涙が、頬を伝い、光に溶けた。


     ◇


 式のあと、王都のバルコニーに立つ。

 眼下には、民の海。

 色とりどりの花が舞い、風が香る。

 陛下が手を差し出し、私の指を取った。


「見ろ、オーリヴィア。

 あれが、この国の涙だ」


 彼の指す先――人々の瞳が光っている。

 泣いているのではない。

 笑っているのだ。

 でも、その笑顔の奥にある何かが、確かに“涙”の延長線にあった。


「人は、悲しみを共有するときだけでなく、喜びのときにも涙を流す。

 それを俺は、君から教わった」


 私はそっと、彼の手を握り返した。

「それを私も、あなたから教わりました」


 風が吹く。

 白いヴェールが宙に浮かび、王都の上をひとひらの羽のように舞っていく。

 どこまでも高く。

 まるで、涙が光に変わって飛んでいくみたいに。


     ◇


 夜。


 式が終わり、静かな寝所に戻った。

 部屋には二人だけ。

 蝋燭の火がゆらめき、壁に二人の影が寄り添うように揺れている。


「疲れただろう」

「少し。でも、幸せです」


 陛下は微笑み、椅子に腰を下ろした。

 外では花火の音が遠くに響く。

 祝福の夜。

 けれど、私は彼の横顔を見つめて、ふと問いを口にした。


「陛下。……あなたは、これからも泣くと思いますか?」


「もちろん」

 ためらいのない答えだった。


「泣くことをやめた王は、きっと人の痛みに鈍くなる。

 俺は、涙を恥じない王でいたい。

 君が隣にいる限り、それができると思う」


 私は微笑んだ。

「そのときは、また隣で見ていますね」


「そのときも?」

「ええ。どんな涙でも」


 陛下は静かに立ち上がり、私の手を取った。

 指先に、再びあの温もりが伝わる。


「ありがとう、オーリヴィア」

「こちらこそ、アドリアン陛下」


「……“陛下”はやめてくれ」

「では――アドリアン」


 その名を呼んだ瞬間、彼は穏やかに笑った。

 そして、唇が重なった。

 涙と微笑みのあいだで交わされた、最初の口づけ。


     ◇


 翌朝。


 王都は晴れ渡っていた。

 市場には祝福の声が満ち、子どもたちは花びらを投げて遊んでいる。

 その中で、私はそっとつぶやいた。


 > 「泣いてもいい国は、きっと強くなる」


 そう言うと、隣のアドリアンが微笑んだ。

 彼の目にも、光が宿っていた。

 それはもう、涙ではなかった。

 ――希望の光だった。

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