第4話 王と令嬢の夜明け
夜が白みはじめるころ、王城はようやく静けさを取り戻していた。
晩餐会の混乱が去り、兵の足音も消えた廊下を、私は一人で歩いていた。
手にしたロウソクの炎が、壁に揺れる。
まるで自分の心の震えを映しているようだった。
“仮誓約”は、正式な婚約に変わった。
陛下はその報を、夜明け前に文書で通達したという。
けれど私はまだ、実感がなかった。
婚約破棄の夜に泣けなかった私が、いま涙の跡を残したまま、王妃の名を持っている。
皮肉でもあり、奇跡でもある。
中庭へ通じる扉を押し開けると、淡い朝靄が漂っていた。
白薔薇の庭園。夜露の粒が光り、花々の香りが、朝の冷気に溶けていく。
そこに、陛下がいた。
長衣を羽織ったまま、石のベンチに座り、遠くの塔を見ている。
夜明けの光に照らされた横顔は、もう「国王」ではなかった。
ただ、一人の男だった。
「……眠れなかったのですね」
声をかけると、彼は振り向いた。
微笑ではなく、安堵の息。
「君も、だろう?」
「はい。――こんな夜のあとでは」
「まったく同感だ」
陛下は私の隣を軽く叩いた。
促されるままに腰を下ろす。
空気は冷たいが、肩越しに感じる距離は不思議と温かかった。
しばらく沈黙が続いた。
鳥の声が遠くで鳴き、風が白薔薇を揺らす。
静寂がひとつの音楽のように、やさしく流れていた。
「……陛下」
「なんだ」
「昨夜、私を庇った理由を、もう一度伺ってもいいですか?」
彼は少し目を閉じた。
長いまつげの影が頬に落ちる。
その沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、“王”として泣いたんじゃない」
淡い声だった。
どこまでも静かで、深い。
「国王という立場で、涙を見せたことは一度もなかった。
民の前では、強くあることが正義だからな。
だが、あの夜――お前があまりに静かで、あまりに孤独に見えた」
彼は、遠くの空を見た。
朝焼けがゆっくりと広がり、白から橙へと色を変えていく。
「俺は、王として“正しさ”ばかりを選んできた。
だがあの瞬間、初めて“正しくないことをしたい”と思った」
「正しくないこと?」
「ああ。感情で選んだんだ。王としてではなく、一人の人間として。
……それが涙の理由だ」
胸の奥が、じんと痛んだ。
王という存在が感情を選ぶとき、それは罪にも救いにもなる。
「陛下……泣くことは、弱さではないと思います」
そう言うと、彼は苦笑した。
「君がそれを言うのか。泣かないことで自分を守ってきた君が」
私は小さく息を吐いた。
「ええ。だから、ようやくわかりました。泣くというのは、誰かに心を預けることなんですね」
陛下の瞳が、朝の光を映す。
やさしくも、まっすぐに。
「君が泣いた瞬間、俺は救われた。
あの夜までは、俺の涙には意味がなかった。
でも君の涙を見た瞬間、“王である前に人であること”を思い出したんだ」
その言葉が、白薔薇の香りに溶けていく。
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「不思議ですね。婚約破棄から始まった物語なのに、今は……心が満たされています」
「破棄がなければ、出会えなかったからな」
彼の手が、私の手を包んだ。
その温度が、約束の証のように思えた。
「オーリヴィア。――これからも泣いていい。
王妃として、ではなく、一人の女性として」
「はい。では、陛下も。
……泣いてはいけませんよ、王として」
「それは難しいな。君といると、人の心を取り戻してしまう」
軽い笑いが生まれる。
夜明けの風が吹き抜け、白薔薇の花弁が一枚、二人の間に舞い落ちた。
私はそれを指先で受け止め、そっと彼の掌に渡した。
「これが、今の私の涙です」
「……受け取ろう」
陛下は花弁を胸元にしまった。
その仕草は、どんな宝石よりも慎重で、美しかった。
◇
その日、王都は“新しい朝”を迎えた。
新聞には「国王、婚約を正式発表」「第二王子、国外追放」の文字が並ぶ。
だが、私が見たのは紙面ではない。
朝市の人々が笑い合い、子どもたちが手を振る。
その中に、陛下の姿が見えた。
公務の途中、わずかに振り返って――目が合う。
彼は微笑み、口の形だけでこう言った。
「もう泣かせない」
その言葉を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙はもう、痛みではなく、誓いの形に変わっていた。
私は微笑み返し、心の中でそっと答える。
「でも、あなたが泣くときは、私も隣にいます」
朝の光が強くなり、王都を照らした。
涙の夜を越えて、私たちはようやく同じ場所に立った。




