第3話 晩餐会の夜
夕刻の鐘が六度、静かに鳴った。
王城の南翼にある宴の間は、昼とはまるで違う顔をしていた。
黄金の燭台が列をなし、壁に飾られた鏡は炎を反射して数え切れない光の渦を生んでいる。
そこに、私と陛下が姿を現した瞬間――空気が変わった。
すべての視線が、一斉にこちらを向いた。
ざわめきが、波のように押し寄せては引く。
誰もが“仮の妃”と噂する私に、どんな表情をすればいいのか分からないのだ。
陛下は一歩進み、私の手を取った。
その仕草は昨日と同じなのに、今夜は一層ゆるぎない。
手の甲に、あのわずかな震えはもうなかった。
「怯えなくていい。ここにいるのは王の妃だ」
耳元で囁かれた声は、低く、静かで――それだけで空気が落ち着いていく。
私は頷き、背筋を伸ばして歩いた。
壇上には、第二王子レオンと、彼の隣に立つ白いドレスの令嬢がいた。
彼女は昨日の宴にもいた少女――侯爵家の娘セシリア。
けれど今夜の彼女はまるで違う。
昨日は花だったのに、今夜は刃だった。
「陛下、そして……“仮妃殿下”」
レオンの声が響く。
その言葉の“仮”が、会場のあちこちで薄笑いを呼ぶ。
「本日は、陛下のご厚意に感謝いたします。私は誤解を解くため、証拠を持参いたしました」
宰相が頷き、侍従が銀盆を差し出す。
そこに置かれていたのは――一通の書簡。
見覚えがあった。
私の家の紋章。父の署名。
「これは、ルミエール伯爵家が外国商会と裏で結託し、王家財務を不正に操作していたという記録です。署名は彼女の父によるもの」
ざわめきが一気に広がる。
毒より速く、言葉が回る。
“裏切り”の二文字が、空気に溶ける。
私の唇が冷たくなった。
父の筆跡――確かに似ていた。
けれど、彼はそんなことをする人ではない。
レオンは淡い笑みを浮かべ、声を低くした。
「陛下。おわかりでしょう。彼女は王家にふさわしくない。
昨日の毒も、彼女が用意したと考える方が自然です」
私は思わず前へ出た。
「それは違います! あの杯は――」
そのとき。
陛下の手が、私の肩を制した。
動かない。声が止まる。
代わりに、陛下が一歩、壇上へ上がった。
「……では、見せてもらおう」
王の声が響くと、それだけで空気が割れた。
陛下は書簡を手に取り、数秒、沈黙した。
その沈黙の重さに、誰も息をできない。
「この筆跡は確かに伯爵のものに似ている。だが――“似ている”だけだ」
陛下は指で紙の端を撫で、光に透かした。
薄い羊皮紙の中に、もう一枚、重ねられた紙が透けて見える。
「インクの下にもう一層。……これは、偽造だな」
会場がざわめく。
陛下は書簡を侍従に渡し、低く命じた。
「リリアナ、解析を」
人混みの中から、黒衣の女が現れる。
彼女――諜報局のリリアナだ。
小さな薬瓶を取り出し、液を紙に垂らす。
瞬間、筆跡が二重に浮かび上がった。
一つは父の筆跡、もう一つは――レオンの筆跡。
「偽造だ。上書きされている。これを仕込んだ者は、王家印の封印術を知らぬ。つまり王族ではない。だが――“王族に命じられた者”だ」
会場が凍る。
セシリアの顔が蒼白になった。
レオンの手が、テーブルの下で震えた。
「な、なぜだ……なぜ陛下がそこまで……!」
「なぜ?」
陛下は静かに問い返す。
その瞳は鋼のように冷たく、けれどどこか悲しげだった。
「レオン。お前は、弟ではない」
その一言に、空気が爆ぜた。
誰もが息を呑む。
レオンが、唇を震わせる。
「な、にを……?」
「お前は先王の弟の子――つまり、俺の従弟だ。
王位継承権を与えられたのは、王家の血が混ざっているからに過ぎん。
お前の父は、そのことを隠していた。
だが俺は、お前を“弟”として育てた。それが間違いだったのかもしれない」
レオンの顔が赤くなり、次に真っ白になった。
彼の周囲で、側近たちがざわつく。
「嘘だ……そんなことを今さら――」
「嘘ではない。王家の血書に記されている。リリアナ、示せ」
リリアナが差し出した封筒を開くと、血の印が滲んだ羊皮紙が現れた。
そこには、先王の署名と印があった。
レオンは、一歩後ずさる。
そして、その視線を私に向けた。
「お前だ……お前が陛下を惑わせたんだ! 俺からすべてを奪う気か!」
叫びと同時に、彼は卓上のナイフを掴んだ。
周囲が悲鳴を上げる。
私の視界が瞬時に狭まった。
だが、刃が振り下ろされるより早く、陛下が動いた。
彼の腕が私を抱き寄せ、次の瞬間、ナイフの刃が床に転がる。
近衛兵が飛び込み、レオンを取り押さえた。
会場の喧噪が、嵐のように過ぎる。
陛下は私を抱いたまま、静かに息を整えた。
彼の肩に、ひとしずく、涙が落ちる。
それが私のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「泣いていい。……今度は、君の番だ」
その声が、まるで赦しのように響く。
胸の奥に張り付いていたものが、ゆっくりと崩れた。
初めて、泣いた。
誰かの腕の中で。
泣いても許される場所で。
陛下は私の髪を撫でながら、低く言った。
「これでようやく、対等になれたな」
◇
晩餐会はその後、静かに幕を閉じた。
レオンは拘束され、セシリアは屋敷に軟禁。
王都は一夜にして噂で満ちたが、翌朝には陛下の決断が発表された。
“仮誓約”を正式な婚約に変更する。
婚姻の日取りは後日。
侍従がその文書を持ってきたとき、私は震える手で封を開けた。
その筆跡は、昨日と同じ。
だが最後に、ひとことだけ添えられていた。
――もう“仮”はいらない。
その短い言葉が、涙よりも重く胸に落ちた。




