第2話 仮誓約の朝
夜明け前の城は、驚くほど静かだった。
庭園の噴水がかすかに音を立て、薄青い光が石畳を撫でている。
王都はまだ眠り、王城だけが現実と夢の境目に浮かんでいた。
私はその静けさの中で目を覚ました。
長い夜の果て、まだ心の底は落ち着かない。
昨夜、陛下に告げられた言葉が胸の奥で反響を続けている。
――「三十日、俺の妃として過ごしてくれ」
枕元には白い紙が置かれていた。
筆跡は端正で、しかしどこか急いだ跡がある。
内容は簡潔だった。
仮誓約期間 三十日
双方の意思により解除可能
この期間、オーリヴィア・ルミエールを王妃同等の身分として扱うこと
印章は国王印。間違いなく陛下の署名だ。
私は指先で紙の端をなぞりながら、現実味のない文字を見つめた。
「……夢なら、どれほど楽かしら」
独り言のように呟いたとき、扉がノックされた。
朝の光が差しこむより早く、陛下が姿を現す。
寝不足のはずなのに、姿勢は変わらない。
「おはよう、オーリヴィア。眠れたか」
「少しだけ、です」
「それで十分だ」
陛下は笑った。昨夜よりも穏やかな表情。
王の顔ではなく、ただ一人の人の顔だった。
「今日から、城の人々は君を“陛下の妃殿下”として迎える。だが、すべてが味方ではない。誰かが毒を仕込んだ。城の内部に協力者がいるはずだ」
「……つまり、私を囮に?」
「危険な言葉だな」
「けれど事実でしょう?」
陛下は少しだけ目を細めた。
その視線には、怖れではなく信頼があった。
「囮という言葉は好きじゃない。だが――君ほど強い囮はいない」
言葉の意味を問う前に、陛下は続けた。
「泣かない、ということは、自分の感情を制御できるということだ。毒より恐ろしいのは、感情の動揺だ。君がそこに立つだけで、敵は動く」
静かな声の中に、確信があった。
私はその信頼に息をのむ。
「……では、私は今日から何をすれば?」
「朝食を取って、侍女に髪を整えてもらう。それから王妃の席に座る。それだけでいい」
簡単な言葉だった。
けれど、それが一番難しい。
人の視線という刃の上に座るのだから。
◇
午前九時。
王の朝食会。
広間には王族と重臣たちが並ぶ。
私は陛下の隣、王妃席に案内された。
足元がわずかに震える。
ざわめきが起こり、すぐに沈む。
誰もが視線を逸らせず、しかし目を合わせようとしない。
「おはようございます、陛下。……そして妃殿下」
宰相がわざとらしく頭を下げた。
彼の声には刺がある。
隣で陛下が淡く微笑んだ。
「宰相殿。彼女を“仮の妃”と侮ってはならん。王の言葉は常に本物だ」
その一言で、空気が一変した。
私は背筋を伸ばし、食器を静かに手に取った。
礼儀作法で戦うしかない。
フォークの音ひとつにも、侮蔑と緊張が絡み合う。
それでも、陛下は一度も私から目を逸らさなかった。
◇
食後、陛下は執務に戻り、私は侍女に案内されて離宮の一室へ。
そこには一人の女性が待っていた。
黒髪をきっちりまとめ、灰色の瞳が鋭い。
「初めまして。王室諜報局のリリアナと申します」
名乗り方が軍人のようで、私は背筋を伸ばした。
「陛下より命を受けています。妃殿下の身辺警護と、毒の出所の追跡。表向きは侍女として仕えます」
「毒の出所……何か掴めましたか?」
「一つだけ。毒を混ぜたのは、厨房の者ではなく、宴の給仕に紛れた外部の女。身分証は偽造。出入りを許可したのは――第二王子殿下の書面でした」
空気が凍る。
やはり、すべて偶然ではなかった。
「証拠を王に?」
「提出済みです。ですが、殿下は“陛下の罠だ”と主張しておられます」
罠。
それは、彼が最も得意とする言葉だ。
「つまり、敵はすでに反撃を?」
「ええ。今夜、殿下主催の晩餐会が開かれます。表向きは和解の場。ですが、内部情報では“新しい婚約発表”があるそうです」
新しい婚約。
昨夜、破棄されたばかりなのに。
速すぎる。まるで――最初から用意していたかのよう。
「陛下は、出席を?」
「はい。妃殿下とご一緒に、と」
私は息をのんだ。
つまり、次の舞台はもう整っている。
陛下が泣いた夜の続きが、今夜また始まるのだ。
リリアナは最後に小声で言った。
「妃殿下。陛下は泣いておられましたが、泣く王ほど、危険な王はおりません」
その言葉が、長い影を落とした。
◇
夕刻。
陛下の前でドレスの裾を整えながら、私は自分に言い聞かせる。
――これは“仮誓約”。
けれど、仮であっても、誓いは誓いだ。
鏡に映る私は、昨夜よりも少しだけ強い顔をしていた。
陛下が背後から近づき、囁く。
「準備はいいか、妃殿下」
「はい。陛下こそ」
「俺は最初から、準備などしていない。……ただ君の隣に立つだけだ」
その言葉が、心の奥を不意に温める。
扉が開く。
晩餐会の光と音が押し寄せる。
レオンと、新しい婚約者が待つ場へ。
王と“仮の妃”の最初の戦が、静かに幕を開けた。




