幕間:母の本音を知った日。
二度目の人生を自覚してすぐ地下室から出されたその日の晩。公爵夫人から手紙が届いた。
そこには、かつて一度目の人生の時に足しげく通ったサロンを避難場所として使ってもいいという内容だった。
あの空間は、すべてに疲れ切った僕にとっては何よりの居心地の居場所だった。
突如俺にすり寄ってくるようになった使用人たちも、母親殺しと騒ぐ貴族も、若い公爵だから懐柔できると思い込んでいる業突く張りも。
使う人間がいなくなって二十年近く経ったサロンには色んな物であふれかえっていた。
少し埃っぽいが、それすらも気を落ち着かせた。
公爵夫人からの手紙をもらった翌日、早朝目覚めた僕は早速行ってみることにした。
サロンに入ると、一度目よりも埃っぽかった。
そうか。あの時は、本来の用途として使わないまでも、僕がふらりと訪れることがあったから掃除されていたんだ。でも、今は本当に誰もこの部屋を使っていない。
一度目の時は気づかなかったが、僕は見えないところで支えられていたらしい。
物は、あの頃のほうが散らかっていた。
今でもソファやテーブル。絵画に彫刻、楽器に鎧など。様々なものが置かれてはあるが、あの頃ほど乱雑とはしていない。
五歳児の体には重いカーテンを引っ張り開けると、ちょうど朝陽が差し込んできた。
しばらく、ソファに座ってぼーっと太陽の光を眺めていたが、そろそろお腹が空いてきたと思い、カーテンを閉めてから部屋に戻る。
そういえば、手紙には公爵夫人も時折訪れると書いてあったが、あの人はこの部屋で何を思うのだろうか。
また近いうちに来よう。
「ユリウス様。ゼファル様より公爵邸の管理を任せられております、リュシエン・カサリアンと申します。以後お見知りおきください」
一度目の人生では、終ぞ出されたことがないような豪華な食事に目を白黒させていると、忘れようにも忘れられない男が現れた。
僕がリュシエンと顔を合わせたのは、公爵の葬儀が終わった直後の事だった。
あの男は、分厚い紙の束を手に僕のところへやってきたのだ。
『ユリウス様。こちら、あなたを虐げていた使用人のリストでございます』
などと言って渡して来たその紙のてっぺんに自身の名前を載せているのだから、律儀と言うかなんというか。
日常の細やかな嫌がらせから、命にかかわるようなことまで。実際に被害を受けたはずの僕が首をひねるほどに膨大な量の報告書であった。
それとは別に、現在公爵邸で横行している犯罪についての資料も手渡された。その一番上には公爵夫人の名があった。
彼はそれらの資料を渡すと、僕が貴族社会でやっていけるようにと教師や側近、護衛騎士の紹介斡旋の全てを済ませた。
その間に、僕は彼の導きにより『裁きの雷冠』の継承者になり、母を断罪し、神殿で洗礼を受けたりもした。
信用できる大人など一人もいなかった僕はすっかり彼を信用していたのだが、彼は僕にすべてを教え終わると自らの手でその生を終わらせてしまった。
彼はあくまで公爵の側近だったのだ。僕のことは、公爵の後継者だから気にかけていただけに過ぎなかった。
そんな、師匠のような存在の人が、あの日と同じように笑っている。
「奥様から命を受けまして、ユリウス様に仇なした使用人が一掃されるまで私がお側で仕えることになりました」
「は……?」
「奥様は自信の行いのせいでユリウス様が一部使用人に軽んじられておりますことに対し、遺憾の意を示しております」
「……公爵夫人は、なぜとつぜん僕をうけいれたの?」
当然の疑問であった。
むしろ、この二度目の人生が始まってから、一番の疑問と言ってもいい。
リュシエンならば、この館について一番詳しい彼ならば、知っているかと思ったのだ。
すると、彼はほんの少し困ったような顔をしてから、セレイア教の教えの一節を諳んじた。
それは、『家族を大切にせよ。しかし理不尽を許すな。愛するものは側にいる。それを忘れなければ女神の救いは訪れる』という内容の一節だ。
それがいったい何なのかと考えていると、リュシエンは続けてこうも口にした。
「奥様は女神セレイア様より天啓を受けたとおっしゃっています」
「女神、セレイア様の……、天啓…………」
それからだ。元から興味のあった公爵夫人に気を引かれたのは。
もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
僕が一度目の人生で求めた闇の精霊の抱擁と、光の精霊の導き。公爵夫人はその光の精霊の導きを受けて変わったのかもしれない。
そしたら、もしかしたら。僕があの日望んだように、何者にも脅かされない確かな守護が与えられるのかもしれない。
それはひどく魅力的なものだった。
サロンを利用するようになって一週間。僕は、公爵夫人が毎朝朝食前にその部屋で懺悔していることを知った。内容はいつも僕に関することだ。
『女神セレイア様、わたしの過ちを、穢れを、貴女の泉にて洗い流し給え。どうか癒しと赦しを。もう一度、歩む力をお与えください』
窓から差し込む朝日に向かい、公爵夫人が床に膝をついてそう祈る。セレイア教の教会でもないのに毎朝懺悔の文言を唱えていた。
そして、その後は決まって僕の名前を呼び、弱い母で申し訳ないと泣いていた。
最後にはいつも僕の安寧をセレイア様に祈っていたのだ。
彼女の言葉を聞くたびに、ドクドクとまだ小さな心臓が早鐘を打つ。
一度も、こんな風に心配してもらったことなどなかったから。
無償の愛と言うのはかくもくすぐったいものなのかと、全身を掻きむしりたくなった。
公爵夫人が僕の存在に気づいていないのをいいことに、僕は毎朝公爵夫人の声を聞きにサロンを訪れていた。それが一週間、二週間と続くほどに、僕の心に彼女の言葉が降り積もる。
そんなある日。公爵夫人が公爵を伴ってサロンを訪れたのだ。
公爵はすぐさまこの部屋に僕がいることに気が付いたようだったが、母に声をかけられてすぐに頭の中から僕の存在を追い出したらしい。
あぁ、そうだ。公爵夫人があんなに変わっていたから忘れていたが、公爵はこういう人だった。
僕のことなど眼中にない。いつも公爵の瞳は公爵夫人に向けられていた。
あの人は時折屋敷に帰っていたようだけれど、公爵夫人の顔を見に行くことはあっても、一度も僕のところには来なかった。
あの人から贈り物をもらったことも無ければ、声をかけられたこともなかった。
そういう意味では、たとえ悪い意味であったとしても、僕に興味を持っていた公爵夫人の方がマシだ。
僕にとっての公爵とは、シュトラウス公爵家当主を指すただの記号でしかないのだ。
二人の話は僕が一度目の人生で知ったような内容だ。
公爵夫人が生家に虐げられ、趣味の悪い老人に売られそうになったのを公爵が助けたとか。そういう話。
公爵の全て自分が悪いとでも言いたげな物言いに心の中が冷めていく。
なぜ、それを理解しながら一度目の人生では動いてくれなかったのか。
あの人が動いていれば、僕も公爵夫人もあんなに苦しむことはなかっただろうに。
そんなことを考えているうちに、ヒートアップした二人の言い合いは公爵の言葉で終止符が打たれた。
あぁ、そう。公爵にとって、僕は本当に『イラナイ子』だったんだな。
ぴしりと心にひびが入った心地がしたが、直後。公爵夫人の柔らかな声がそれをきっぱりと否定した。
そして、彼女が公爵に告げた『わたしの大切な子』と言う言葉が頭の中にこびりついて離れない。
期待しても、いいのだろうか。
彼女に愛されていると。
期待してもいいのだろうか。