酔って滑って思い出した日。
「奥様ッ!!」
床に散乱した、飲み終えてその辺に放り投げたワインの瓶を踏んだ瞬間。視界の端で、真っ青をにした侍女の顔が見えて(あ、死んだな)と思った。
直後、ゴチッと骨が硬い木にぶつかる音と共に耐え難い痛みに襲われその場にうずくまり、医者を呼ぶ侍女の声を聞いていた。
直後、膨大な記憶の奔流に押し流され、私はふっと意識を失った。
記憶の中で、エリオノーラ・シュトラウスは『スマホ』でとある『ライトノベル』を読んでいた。
その名も『雷冠の継承者』。
主人公のユリウス・リオン・シュトラウスは、父親に顧みられず、母親に疎まれ、幼少期にあらゆる苦難を受けた。しかし貴族として成年を迎えた次の日、父親が事故で亡くなったことで公爵家の当主となる。
その後、公爵家の宝物庫で雷の精霊の宿る秘宝『裁きの雷冠』を手にし、その継承者に選ばれ加護を受ける。
ユリウスは自分を軽んじた使用人たちを処罰し、公爵家の財産を食いつぶす母があらゆる罪に手を染めていたことをつきとめて、最後には自身の手で処刑する。
そうして自身の過去と決別したユリウスは、若き公爵家当主として自らの尊厳を取り戻していくのだ。
記憶の中のエリオノーラの『推し』は主人公の『ユリウス』だった。
挿絵として載せられていた少しウェーブがかった黒髪と意志の強そうな紫の目の青年の容姿がドストライクだったのだ。
毒親から受けた虐待まがいの尊厳破壊に涙を流し、ざまぁに一緒にスカッとし、公爵子息としての当たり前の権利や尊厳を取り戻していくサクセスストーリーを楽しんでいた。
そして、こんなことも思っていた。『私が母親なら、こんな思いはさせないのに』と。
エリオノーラ・シュトラウスは整理を終えた記憶を反芻しながら目を覚ました。
(いや。私、『雷冠の継承者』の主人公の母親になってるじゃん……)
これが前世なのか、はたまた女神セレイアに慈悲でインストールされた記憶なのかはわからないが、ひとまず前世と仮定する。
そして、今の私の記憶とあの記憶の中で読んだ小説の内容とを照らし合わせると、私はまんま『雷冠の継承者』の主人公であるユリウスを傷つけ、トラウマを植え付ける母親なのだ。
「奥様!目を覚まされましたか」
「ええ、心配をかけたわね……」
「いいえ、奥様が無事で本当によろしゅうございました」
侍女が心底私の無事を喜んでくれてはいるが、彼女は別に私を慕ってくれているわけではない。
私の夫、『雷冠の継承者』でユリウスが貴族として成年を迎えた次の日、事故で亡くなる公爵が怖いのだ。
「少し、一人にしてくれるかしら。考えたいことがあるの」
「……かしこまりました」
ぺこりと礼をしてから部屋を出ていく侍女。その後姿を見送ってから、私は頭を抱えた。
「いや、いやいやいやいや!そりゃ、推しの母親になって推しを幸せにしたいとか思ったことはあるわよ!?でも、それって本当にそうなりたいわけじゃないのよ!!」
ああいうのって、オタク特有の意味のない鳴き声みたいなものでしょう!?
しかも、転生先が『将来殺される母親』って!嫌よ!私は死にたくないわ!!
『雷冠の継承者』で主人公ユリウスの母親は、運命に翻弄された毒親と言う表現が一番近い。
彼女の生家はもう何年も前に傾きかけたクラウゼン伯爵家という家だ。詳細は省くがよくある話で、エリオノーラは実の父親と、その恋人である継母と、半分しか血のつながっていない義姉に虐げられていた。
年頃になると、父に金のために年老いたエロ狸に売られそうになっていたところをシュトラウス公爵に救われたのだが、エリオノーラはその事実を知らずに夫となった公爵を『金で女を買って孕ませたケダモノ』と言って毛嫌いしていた。
そして、その夫に似た顔の息子を愛することができず、むしろ虐げるようになったというわけだ。
そして、その毒親・エリオノーラこと私は、すでに息子をこれでもかと虐げてしまっているのだ……ッ!!
これが虐げる前ならば、仲良し親子♡を目指したけれどそうじゃない!
しかも、超ド級のトラウマイベントである『お前の顔を見るとあのケダモノを思い出すの!!』と言って泥酔した母親に裁ちバサミで顔の皮膚を剝がれそうになるというもの。
そんな母親が『心入れ替えたから仲良くしーましょ♡』って言ってきたら信じられる?私は無理。
「神様……、月の女神セレイア様……ッ!ここから入れる保険ってないですか……?」
『残念ながら。そこに無ければ、無いですね』と私の脳内でセレイア様が穏やかな顔で無情に告げた。
ひどい、誰か私を救ってほしい。妄想にすら見放されたわ。
「せめて……っ、せめて死亡フラグだけ回避しなければ……ッ」
方法は厭わないから、息子からの殺意をやわらげ、夫でも前世の記憶でもなんでも利用して、生き残らなければ!!
「ふ、ふふ…………っ、そうよ……!保険が無ければつくればいいのよ!!」
ふははははっ!!と、自室で高らかに宣言をした私の声を扉の前で聞いた侍女が、慌てて医者を呼んできた。言い訳させてほしい。この時の私はハイだったのよ……っ!!