少し積もった雪、野良犬の足跡
少しだけ雪が降って、街がうっすらと雪化粧をした。どういうわけか街は静かになり、ちょっぴり気品が出、おしとやかになった。ちょっとしたことなのに、この変わりよう。何でもない空き地でさえも、雪に軽く覆われて街灯の明かりを受けたりすると、いい味わいを出したりする。何故だろう。見る方に理由があるのかな。雪の降る夜は寒いもの、ついつい諦念めいた気分になってしまうんだ。そんな気持ちになる時には、外の景色もどこかしら哀愁を帯びているようにも見えてしまうんだろう。
直ぐ手前に動物の足跡がいくつか現れた。近所には野良犬が一匹(こんなご時世に)住んでいる。時々ちょこちょこ走り回っているから、きっとあいつのものだろう。小さな犬、愛嬌のある犬、だから近所の人達は暗黙の了解でこの犬を守ってやっている。この犬は、車道を不意にちょこちょこと横切って、向こうからやって来た自動車に急ブレーキをかけさせ、そのキキキという音に驚いて立ち止まり、その音のした方向を振り返り、しかし何も理解していない様子でまたすとすとと歩き始める、そんな犬。そんな野良犬がこの近所に住んでいる。(よってこの足跡はそいつのものに違いない)近くに保健所があるけど、大丈夫かな。ちょっと心配だ。けれどあいつは小っさいから、人を噛んだりはしないだろうから、きっと大目に見てもらえるんじゃないかしら、とか僕は常々気を遣ってやっている。ところが当人(当犬?)は全く平気の平左で、いつも呑気に歩き回っている。この眼前雪上の足跡は、やっぱり呑気な足取りだ。
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もう寝る時間、けれどあの雪の上の足跡が思い出されて眠れない。それで暫くはまんじりともしないで布団の中にもぐり込んでいた。頭の中ではあれやこれや考えながら、体の方は静かに横たわっている。あの犬のこと、もしかしたら町内の人が保健所の人にそっと、捕まえないでほしいと頼んでいるのかも知れない。それとも保健所の人が住民から苦情がないからと知らないふりをしてくれているのかも知れない。いろいろと考えてみる。そうやって考えていると、何故か、このままじっと静かに息をひそめていなければならない、なんていう風に思い始めてしまった。出来る限り音をたてないように、しぃー―――
なるべく動かないように、動く場合はなるべく動作を小さくゆっくりと、注意して、そうそう、そうやって今僕は閑静沈黙氏になっているのです。でもこうしていると(夜とは言え)様々な音が嫌でも聞こえて来る。時計の秒針が、規則正しく単調に鳴り響いているし、道行く人達の話し声(叫び声?)がいきなり聞こえてきて僕を驚かしてくれたりする。自動車やバイクが角を曲がって行くし、その際時折何かを踏み弾いてカチンとかカチリとか音を立てたりする。飼い犬や野良猫が鳴いてみたり、遠くの方から街の寝息のようなゴォーという音が流れているのに気付いたりする。(中央線の電車の音がここまで聞こえたりするんだろうか)そうして仕舞いには耳の中で本当にシーンという音が響くようになる。ここまでくると、何となく自分の存在が薄くなって行くように、ぼやけて行くように感じられ、心細くなってきたりもするのです。
猫は今でも野良でやって行けるけど、犬は今ではやって行けない。やっぱり犬は可哀想だ。でもあの犬は大丈夫だろう。小さいし、吠えたりしないし、噛みついたりもしない。今年は雪が降ったりして寒さも厳しいけど、どこかに風雨くらいはしのげる寝床があるんだろう、きっと近所の人達が餌をあげたりして助けてくれるだろう。きっと保健所の人達も見て見ぬふりをしてくれるだろう。そうに違いない。
だからもう寝よ。