第五話 『邂逅』
……今、コイツは何て言った?
突然起こった出来事に、気が動転してしまって頭が追いついていない。
動揺する俺を見て楽しんでいるかのように、ソレはケタケタと笑って見せた。
機械的なノイズ混じりの低い声は、おおよそ生き物が発する物とは到底思えなかった。体は球形をしているが、その輪郭は酷く朧気でハッキリとしない。立っているのか、浮いているのかすらも定かではないが、丸い胴体から尻尾のような物が垂れ下がっていて、接触した地面は何故か真っ黒に変色している。
顔と思しき部分も見える。それは三つの光る点で構成されていて、目とも口ともとれるような三つの模様が、時には互いを追いかけてクルクルと回転し、時には形を変えて交わったり、また分かれたりした。
体表は、もはやこの世の物とは思えない表情を見せていた。
それは星空のようで、また海中のようでもあった。基本的に黒一色で――と思いきやボヤリと明るくなったり、次には極彩色のモヤが現れたりする。
「……夢ジャナクテ、本当ニ良カッタネ……」と、異形は改めて同じような事を口ずさむ。
そして……続けて「タダ、異形ダナンテ……酷イナァ」と、俺が何も言っていないにも関わらず、唐突に付け加えて言った。
「……は――はぁ?」
思わず、俺は顔を歪めて声を漏らした。
身の毛がよだつとは、まさにこういう事を言うのだろう。
いくら魔法が蔓延るこの世界でも、”相手の心を読む”なんて魔術は聞いたことがない。俺が知らないだけという可能性も無くはないけれど、仮にそんな物が存在するのだとすれば、恐らくはもっと早い段階で人間なんて滅んでいるに違いない。
そんな事は魔術素人の俺にだって容易に想像できる。
しかし、コイツは……次にこう言って見せた。
「正解、ゼーンブ見エテル」
冷ややかな汗が脇腹を傳うと、後を追うように一滴の雨粒が俺の肌を打った。
見れば、星空はいつの間にか隠れてしまっていた。漆黒をふんだんに抱えた雨雲が波模様を描き、穏やかだった風も途端にざわめき始める。
刹那、豪雨がやってきた。
急激に湿気を吸った空気が霧がかり始め、眼前におぞましく佇む”絶望”を包んでボヤリと霞ませる。
「な――何なんだよ、お前」
背筋にベッタリと張り付く悪寒を押し殺し、俺は恐る恐る訊ねた。
ヤツは、何も答えなかった。
黙ったまま身体を不規則に左右へ揺らし、顔なのかも定かではない部分をこちらへ向けて不気味に笑い続けている。
そのあまりにも異様な様に、俺の身体は芯から震え上がっていた。まるで目の前のソレは、俺達が本当は”見てはいけない何か”であると、思考ではなく身体が感じ取っているかのように……。
「……所デ、イイノ? ソノ子、死ンジャウヨ?」
ヤツの言葉に促され、俺は恐怖心で貼り付けになっていた視線を彩音へと戻した。
彼女は口から大量の血を吐いて嘔吐きながら、険しい表情で必死に痛みに耐えているようだった。瞳からは生気が薄れてきている。このままだと……コイツの言うように、長くは持たないだろう。
「彩音……」
患部はもはや傷ではなく”穴”だった。
恐らく、この異形に背中から貫かれたのだろう。血の勢いは一項におさまらず、赤黒い飛沫が吹き出す度に彼女の喉が悲痛なうめき声を上げた。
「なんで――なんで彩音が……こんなめに……」
ただ――嘆く事しかできなかった。
何をどうすればいいのか、考える程に思考が泡となって消えていく。続けてドロドロと涙が溢れて、苦しんでいる彩音に対して何もしてやれない無力さが、そのまま圧となって俺を脳天から押し潰そうとした。
そんな役立たずな俺に、彼女はか細い声で言った。
「……に……ぃ……ちゃ……」
「……彩音!? どうした!? 彩音‼」
声へ返事をすると、彼女は酷く嘔吐きながらも……吐息で言葉を作って訴えかける。
「……に……ぇ……て……。……お……ぇ……が……ぃ……。……に……ぃ……ちゃ……だけ……ぇも……は……ゃ……く……‼!」
俺のシャツを手でギュッと握りしめ、同じように彼女は繰り返した。
「……ぉ……ぇ……が……ぃ……。……に……ぇ……て……」
「逃げろって……そんな――そんな事、出来る訳ないだろ!!」
「……ぉ……ぇ……が……ぃ……」
目の前がチカチカする。もはや何を見てるのか、何を聞いてるのか、何を思っているのかすらも曖昧になってきていた。
恐らく、精神が極限状態に耐えきれないと判断した俺の身体が、自ら認識力に制限をかけ始めているのだろう。意識が朦朧として、身体の震えが更に酷くなっていく。
それでも、彼女の容態は残酷に酷くなる一方だった。
彩音の身体はどんどん冷たくなっていく。まずい……このままだと本当に――。
そんな俺達へ追い打ちをかけるように、雨脚は更に勢いを増す。
……ダメだ。もう――もう助からない。
俺は、心の中で確信してしまった。
仮にこの状況から走って逃げられたとしても、一歳しか違わないほぼ同じ体格の彩音を抱えたまま病院まで行くなんて不可能だ。運良く近場でタクシーを拾えたとしても、最寄りの病院までは車でも早くて二十分はかかる。だからと言って、魔術師ギルドへ連絡して救急搬送してもらおうにも……そもそも此処へ到着するまでの間に、俺達はこの異形に襲われて――。
どう足掻いたって……俺達二人が助かる道は無い。
急に、大声で叫びたくなった。叫んで、のたうち回って、小さい子供が駄々をこねるようにそこら中を暴れまわってやりたかった。
どう考えても異常だ。何も見たくない。何も聞きたくない。もう、何も――。
そして俺は、ついに考える事を放棄した。
「……ごめんな。ごめんな……彩音。兄ちゃん、もうダメだ」
「……ぁ……め……! ……に……い……ちゃ……!!」
懇願する彼女の頬を、俺は濡れた手でそっと撫でた。
すると、彩音は俺の胸中を察したように訴えるのを辞め、此方に身を寄せて静かに涙を零した。
「……独りになんかしない。置いてったりなんかしない。ずっと――ずっと一緒だ」
掠れた涙声で言いながら、俺は彩音をそっと抱きしめた。
眼前の闇は、助かる事を諦めた俺達を見て再びケタケタと笑うと、悍ましいその身体の一部をグニャリと練り上げ、巨大な鎌を作り上げて天高く振りかざした。
不思議な事に、怒りや憎しみは全く沸いてこなかった。こうなる事が最初から分かっていたかのように、あっさりと受け入れられてしまったのだ。
俺達は恐らく、生まれる場所を間違えたんだと思う。……いや、そうに違いない。だからもし、違う世界にもう一度生まれ変わることが出来たなら、ここで苦しんだ分だけ、次はきっと――。
そう切に願って、目を閉じた――直後だった。
――伏せてください……!!
周囲へ”風鈴の音色にも似た声”が轟いたと共に、上空から眼前へ紅い閃光が迸る。
突然降ってきた声で我に返った俺は、訳もわからないままに彩音の上へ覆いかぶさる形でその場に伏せた。すると、雷鳴のような轟音と共に地面が激しく揺れ、辺りを砂煙が覆い尽くした。
……――。
少しの間、何も見えなかった。先刻の雷鳴のせいか、音もボヤついていてハッキリとしない。
俺は微かな視界を使って、彩音が無事かを確認した。衝撃による外傷は……無さそうだ。
一つ安堵した後で、俺は恐る恐る顔を上げた。煙幕は次第に取り払われていき、俺達の前に人影が浮かび上がる。
そして、そのシルエットが鮮明になった頃――俺は目を疑った。
「……よかった。間に合って――」
見覚えのある後ろ姿は、肩で息をしながらそう漏らした。
背中まで伸びた発色の良い赤髪。楓の葉があしらわれた袖の長い羽織姿。腰には大小二本の刀。そして、先刻響いた”あの声”。
それは間違いなく、いつかの夢で見た――。
「イロハ……さん……?」
俺は目の前の背中に向かって、自分でも全く覚えのない名前を口にしていた。
途端に彼女は踵を返し――目を丸くする。
澄んだ碧眼に色白の肌。上半身には二部式の白い着物。淡い空色のショートパンツを身に着けた彼女は、間違いなく夢で見たあの女性だった。
だけど、俺は彼女から名前まで聞いた覚えは無い。なのに、何故――。
「まさか、そんな――」
俺と同じく表情を凍り付かせた彼女はそう言うと、すぐに目を閉じて俯いて、続けて半眼になってほんのり哀愁を纏わせると、そのまま異形の方へと向き直った。
「ゴメンナサイ……許シテ……ゴメンナサイ」
左半身がズタズタになった黒い塊は、態度を一変させて必死に彼女へ許しを求めていた。
そんな惨めな姿に彼女は何も返さず、腰から短い方の刀を引き抜き――振り放った。
さっきのような衝撃は無かった。ヤツも無事のようだ――が、小振りな刀身なのに樋鳴りが凄まじい。
密度のあるその音はスーッと辺りへ伸びていき、まさに鈴の音のような穏やかな音が俺達を包み込んでいく。
「ゴメンナサイ……!! 許シテェエ……!! 嫌ダァア……!! オカァサァアン……!! オトォサァアン……!!」
異形はまるで子供のように叫んで、全身を激しく震わせながら懇願する。尚も構わず、彼女は何もしないままに刀を鞘へゆっくりと収め始めた。
刹那――。
「――閻魔」
彼女がそう唱えると、響くカツンという金属音に合わせて先刻の紅い閃光が再び駆け抜け――乾いた轟音と共に異形は跡形もなく爆散した。
「……趣味が悪いにも……程があります」
一瞬の沈黙の後、彼女は静かにそう言った。
すぐに赤髪を靡かせながら向き直った彼女は、此方へ駆け寄って彩音の容態を確認し始めた。
「……よく頑張りましたね。応急処置します。その間に、蘭さんは病院へ行く準備を――」
言いながら、彼女は懐から魔石を一つ取り出して患部へと翳す。
石の表面は黄緑色に発光し始め、不思議な文字列が辺りを周回するように魔法陣を形成していく。円形から溢れ出た魔力の光はキラキラと飛散して、傷口を包み込みながら患部を徐々に塞いでいった。
魔法が扱えない俺からすれば、まるで奇跡を目の当たりにしているかのような、そんな気分にさせられる光景だった。
「蘭さん――!!」
碧眼の彼女の声で、ハッと我に返った俺は無意識に「はい……!」と返事をしていた。
「大丈夫、まだ間に合いますよ。手当が終わったら転移魔法の準備をしておきますので」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げてお礼を言った後、まずは血で汚れた服を着替えるために風呂場へと足を急がせた。
この一時間ちょっとの間に、色んな事がありすぎた。
それに、彼女の俺に対する自然な接し方は、まるで俺の事を以前から知っているかのようだった。名前も名乗った覚えなんて無いはずなのに……。
夢の事といい、俺の口から出た「イロハ」という名前といい、もしかすると……俺と彼女は以前に何処かで?
確実に”何か”が動き出している。そんな予感が、俺の心臓を更に高鳴らせた。
……。
…………。
……………………――。
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