第三話 『それからの二人』
……。
…………。
……………………――。
……あれ? ここは一体――。
眩しさに促されて目を開くと、そこは何の変哲もない何時もの自室だった。
寝転んだままに小首を傾げ、おもむろにベッドから上体を起こす。眠りが浅かったのか、頭にはじんわりと鈍痛が纏わりついてきて、目も腫れぼったくて開きづらい。
俺は半眼のまま、しっとりと闇に濡れた部屋を見渡した。
窓辺ではオレンジを湛えた薄いカーテンがそよ風に揺れていた。見たところ、もう日が傾き始めている。確か、一通り家事を終わらせて、昼過ぎくらいにベッドで横になって、その後……。
そんなふうに記憶を遡っていると、何処からか腹の底をつつくいい香りがした。それはカレーっぽくもあり、ポトフのようにも思えた。
同時に……じゅわりと口内へ唾液が溢れてきて、胃のあたりがヒリヒリと痛み始めた。そういえば、朝も昼も何一つ口に入れた覚えが無い。
流石に何か食べないとな……なんて思った頃、ようやく冴え始めた頭の片隅で、どうやら”また”夢から覚めたらしい事を自覚した。
「デコピンで起こされて……アルと一緒に……それから――」
散らかった思考を整理するために、わざと声に出して言ってみた。しかし、考えれば考える程に今見ている目の前の光景にすら説得力が持てなくなってきて、首元から背骨を伝って粘着質な悪寒がゆっくりと降りてくる。
……試してみるか。
思って、意を決し――俺は右の頬を力いっぱいつねってみた。
すると、ちゃんと痛みを伴ったと共に、ドッと胸底へ安心感が垂れ込めた。
とはいえ……あわよくば、この地獄のように繰り返される日常が、現に化けた幻であってほしかった……とも思ってしまっていた。
……何時まで引きずってんだよ。いい加減、現実見ろって。
そうやって自分へ毒を吐いた俺は、肩を落としながら一つ深く嘆息する。
すかさず「幸せが逃げてくわよ」と、隣からあの金髪女が生意気につっかかってきそうなものだけど、今となっては……そんな余計なお世話すら聞くことも叶わなくなってしまった。
何故なら――彼女はもう、此処には居ないのだから……。
俺はベッドから足を放り出して立ち上がると、さっきまで見ていた夢の続きを何と無く思い出しながら、傍らの勉強机に飾ってある木製のフォトフレームを手に取った。
楓宮三島道場、五大国統一大会、優勝。
写真の隅に明朝体のフォントで刻まれた文字を胸裏だけで読み上げて、そこに写った懐かしい面々を左から順に視線の先でなぞっていく。
そして俺は、「最後くらい、笑って写れよな……」なんて一人でボヤきながら、写真の右端に立つアルの仏頂面を指先でツンとつついた。
時が流れるのは早いもので、あれからもう……二年が経つ。
あの日、アルは意気込み通りに次々と快勝を重ねたが、決勝で当たったチームの次鋒相手に惜しくも敗れ、彼女にとっては不本意な形で大会は幕を下ろした。
つまるところ、俺達幼馴染同士の初恋は、ついぞ報われることは無かったのだ。
一応言っておくと、それが原因で疎遠になったという訳ではなかった。
彼女は――ある日を境に、俺達の前から忽然と姿を消したのだ。前触れも無く、一夜のうちにして……。
当然、街の治安を管理する”魔術師ギルド”へ捜索願いは出した。しかし、アルの家庭は少し訳ありで、保護者と呼べる人も既に亡くなっていた事もあってか、そこまで大々的な捜索すらも行われないままに……彼女は”行方不明”として早々に処理されてしまった。
その理不尽なくらい粗末な対応に、「いくらなんでもあんまりじゃないか?」と、俺を含め、街の人達も声を上げたのだけど、結局のところ再び捜索が行われる事は無かった。
……俺のせいなんだろうか。あの時――彼女から言い寄られたあの時、俺が素直にアルの事を受け入れていれば、或いは……。
そんなふうに考えなかった日は無い。けれど、かく言う俺の人生だって、他人の事なんて気にしてられないくらいには捻じ曲がりつつある。
今思えば、あの恋は報われなくて正解だったかもしれない。
こんな別れが正しかった――なんて思いたくはないけれど、もし仮に俺達が結ばれていたら、恐らくは今よりもっと悲惨な事に……。
そうやって自身を諦めさせる為に思考した――その時だった。
「……兄ちゃん?」
背後から響いた物腰柔らかな声が、俺を後悔の渦から引き上げてくれた。
振り向くと、いつの間にか妹が入口のドアを開けて立っていた。
「もう帰ってたのか。おかえり、彩音」
俺が呼びかけると、妹の彩音はハッと明るい笑みを浮かべてゆっくりと此方へ歩み寄る。
暗がりから夕日のもとへ躍り出た彼女は、オレンジ色のハイライトに照らされて、何時もより幾分輝いて見えた。
俺より頭一つ分くらい背の小さい彼女は、胸元まで伸びた真っ白な髪の間から小顔を覗かせて、そこに浮かべた大きな瞳にルビー色を煌めかせる。
ハイソックスとスカートは、学校から帰ってきてそのままなのだろう。丈の短い裾からすらりと伸びた細い脚が、紺色との対比によって余計に色白さを際立たせていた。
全体にドレープのかかった灰色のショルダーシャツからは、少し骨ばった華奢な肩をさらけ出し、彼女の佇まいに奥ゆかしさを演出している。
その姿は、まるで――。
「……母さんに似てきたな」と、俺は彩音の凛とした姿を見て素直な感想を述べた。
「ほんと……?」
言いながら彩音は少し頬を赤くしつつも、身体をくるっと一周させた後でしなを作ってにっこりと笑ってみせた。
何気ないやりとりの後、ふと俺の中に一つの疑問が浮かんだ。
彼女が通っている学校から家までは、歩いて大体一時間程かかってしまう。その為、部活動へ入っていない彩音でも、授業を終えてすぐに帰路へついたとしても……家へ到着するのは四時半近くだ。しかし、彩音はその服装からして、「さっき帰ってきました」というふうではなさそうに見える。だとすれば――。
……え? 今、何時なんだ?
そこまで考えて、壁の掛け時計を確認した俺は、自分の怠惰っぷりに思わず唖然とした。
「ろ、六時半!? 寝すぎだろ……。ごめんな、すぐ飯の支度するから――」
「あ、ううん、大丈夫。……私こそごめんね? ドア、勝手に開けちゃって」
そう言って、彩音は控えめな笑みを浮かべながら続けた。
「実は――さっきも声かけに来たんだけど、兄ちゃん寝ちゃってたから、代わりにご飯作っといたんだ。……お腹、空いてる?」
「……ありがと、すぐ降りるよ」
俺が後ろめたさに顔を歪ませながら答えると、また彼女はにんまりと笑顔になってコクリと頷き、先に階段をトテトテと降りていった。
両親が家を留守にする事が多かったのもあって、俺達兄妹は幼少の頃から身の周りの事をほとんど二人で分担してこなしている。と言っても、”ちょっとした事情”で家に居る事の多くなった俺が、最近はほとんどを買って出ているのだけれど……。
「……ホント、ありがとな。彩音」
俺は一人で小さく呟いて、沈んだ気分を紛らわす為に出窓を開け放ってからスリッパを履き、外へと出た。
二階のバルコニーから望む楓宮の田舎町は、眩い茜色で彩られていた。所々に昔ながらの木造住宅が建っていて、その隙間を埋めるように田んぼや楓の木の森が広がっている。
少しの間、そんな長閑な景色をぼんやりと眺めていると、家の前の通りを男女二人のちびっ子がじゃれ合いながら駆けていくのが見えた。
「――風よ!」と、男の子が唱えながら指先で木の葉を遊ばせる。
「――水よ!」と、もう一人の女の子も同じように唱えて宙へ水玉を浮かべて見せた。
そんな二人に、何処か昔の俺とアルの面影を重ねてしまった俺は、どうしようもなく切ない気持ちになってしまって、また一つ嘆息する。
俺も、あんなふうに出来たら――。
思って、俺はバルコニーの手摺に肘を突きながら右手の人差し指を宙へと翳す。そして、張りの無い声で「――ウィンド」と恐る恐る唱えてみる。
当然、その先では何も起こらない。直後に頬を柔らかい風が撫でていったけれど、ただの自然に吹く風に間違い無かった。それでも――そんな分かりきった偶然でも、「……ん?」と、一瞬期待してしまったりする自分に嫌気がさして、次に残ったのは途方もない空しさだけだった。
こんなふうにどうしようもなく荒んでしまった俺にも、さっきのちびっ子達のように夢を胸に抱きながら心を踊らせていた時期が確かにあった。それはほんの細やかな夢だったけれど、確かに……俺はそうなりたいと本気で思えたんだ。
「……なれるもんなら、なりたかったな。父さんと母さんみたいに、立派な――」と、そこまで言いかけて、これ以上自分が傷つかないように……と、右手で頬をパシリと優しく叩き、余計な思考を頭の外へと追いやった。
人生が捻じ曲がりつつある――という話の続きをしよう。包み隠さず言ってしまうなら、俺は今、中学校を休学している。
十四歳になった今でも、俺は相変わらず魔術に対しては一切の”無能”だ。
小学生の頃は仲間外れで済んでいたこの体質も、中学生にもなると不便を通り越していよいよ”障がい”と化していた。
進級と同時に授業のカリキュラムは魔術を主体とした物になっていき、何かに付けて魔法への適正が当たり前に要求され始めた。
当然俺は置き去り状態で、同級生と過ごす時間も段々と少なくなっていった。そうなれば、思春期の人間関係なんてのは本当に脆い物で……。
それからの学校生活には、言うまでもなく生きづらさしかなかった。
所謂ところの、”いじめ”というやつにも遭遇した。今でも外出の度に周囲の目が気になるし、街では心無い同級生に悪絡みをされたりもする。
そんな俺にも、アル以外に”幼馴染”と言える仲が少なからずあったおかげで、今もこうして辛うじて日常生活を送れている。
学校の教員はというと、俺に対して基本的には極めて優しいものだった。
けれど、俺の体質はこの世界の何処を探しても前例が無いらしく、先生方も大層頭を悩ませているようだった。そんな大人からの手厚い気遣いが、いじめなんかよりも遥かに決定打となって――今に至る。
……結局、俺はどうするのが正解だったんだろうな。
居ないはずの誰かに問いかけるように胸裏で呟きながら、再び考えを頭から追い払うように自分の頬を軽く叩いた。