第十一話 『アガスティアの葉』
片側二車線の広い道路脇では、小高いビル達がお互いの背丈を果敢に競い合っていた。
相変わらず、空にはどっしりと厚い雨雲が居座っていて、穏やかで寂しげな霧雨で深夜の街を濡らし続けている。
イロハさんに言われた通り、仮眠はきちんと取ったけれど……何故だか妙に思考がぼやけていて、視界もハッキリとしない。
そもそも、何で俺は傘もささずに、車道の真ん中に突っ立って雨に打たれているのだろうか……。
よく見れば、周りの様子も少しおかしい。ビルの窓からは灯りが見えるし、街路灯もちゃんと点いているけれど、それにしては全く人の気配が感じられない。
都会特有のガヤッとした環境音すら聞こえず、周囲にはただひたすらに雨音だけが響くばかりだ。
異様な光景に気圧されながらも、俺は顔に張り付いた微細な雨粒を手の甲で拭いつつ――更にもう一つおかしな点に気が付いた。
自分の着ている服が、何故だか先程と全く違っていたのだ。
確か……Vネックのカットソーに、草臥れたチノパンを履いていたはずだけど、いつの間にか白地のゆったりとしたフード付きパーカーに、淡い水色のワイドパンツを身に着けている。
靴だってスニーカーだったはずなのに、オレンジレザーのワークブーツへと変わっていた。
「これは一体……」
一頻り服装の確認を終えた俺は、悶々としながらもおもむろに視線を頭上へと上げた。するとそこには、青色の看板に白い文字で何かが記されている。
悪天候な上に薄暗いのもあって、パッと見ではなんて書いてあるのか分からなかったけれど、よくよく目を凝らせば、大まかにこの近辺の道を記した道路標識であることが分かった。
左を向いた矢印の上には”神戸”と書かれている。
……いや、”かみと”なのか? それとも”かんど”なのだろうか。その下には西方|文字で”kobe”とある。
コベ……? どういう意味なんだろう……。
反対の右矢印には、同じく上に東方文字で”奈良”と記されている。
……いや待てよ? こちらも下に西方文字で”nara”という記載があった。
なら……? これで”なら”って読むのか?
その法則でいくなら、神の戸と書いて”こべ”と読むのだろう。
どちらにせよ、聞いたことの無い地名だ。どう見たって道路案内に見えるし、場所の名前を記しているのは間違いなさそうだけど……。
俺は途端に心細くなって、辺りをぐるりと見渡していつもの”目印”を探してみた。しかし、無かったのだ。楓宮の中心街であれば何処に居たって見えるはずの、あの大きな”楓の大樹”が……。
その代わりに俺の右手には、見上げただけでも首が痛くなりそうな一棟の高層ビルが、異質な存在感を放っていた。丁度高さ的にも楓の大樹と同じくらいだろう。だとすれば、おおよそ三百メートルはある事になる。
間違いなく、楓宮の中心街にここまで巨大なビルは建っていない。
……いや、俺が家にこもりがちになってから新しく建造された――という可能性も無くはないが、それにしたって、こんなに巨大な建造物がものの二年やそこらで建つだろうか?
そんな事を考えている頃には、周囲に充満する濡れたアスファルトのカビ臭さや、皮膚を撫でる厚みを持った風の感触から、明らかに俺の知っている土地ではないという事をなんとなく感じ取っていた。
「天満橋……? いや、これ”Tenmabashi”って読むのか。”ん”は何処行ったんだよ……」
再び道路標識に目をやりながら、心の平静を保つためにあえて声に出して読み上げてみる。
”天満橋”のすぐ隣には”谷町9”とある。9……? この数字は一体何を意味するのだろう。
すぐ下には西方文字で”Tanimachi”と書かれているので、こちらは読み通りのようだ。けれど、やっぱりそんな地名に心当たりなんて無かった。
残念ながら……俺の憶測通り、本当に知らない土地へ迷い込んでしまったらしい。
「何処だよ此処……」
言いながら、ざわざわと込み上げる焦りを宥めるために、とりあえず近場を歩いてみる事にした。
数分もしない間に、大きな十字路を囲うように渡された歩道橋へ差し掛かった。
左側の通路から階段を上がると、橋の上は意外にも広々としていた。下から見た通りに十字路をぐるりと一周できるような構造になっていて、所々から近隣のビルへ連絡橋が伸びている。
俺は通路の内側に設けられた手摺へ肘をついて、丸く縁取られた十字路をぼんやりと眺めた。次に周囲を取り囲むビル群へ目をやって、一棟ずつ順番に視線の先で撫でていく。
とても大きな街だ。普段は多くの人で大層賑わっているのだろう。楓宮の繁華街も、休日は人酔いしそうなほど混雑しているけれど、流石にここまでの都会という訳ではない。
王都ノーブルも、此処に負けないくらい近代的な建物が立ち並んではいるものの、こんなにまで徹底したコンクリートジャングル――といった印象は受けなかった。
本当に此処は何処なんだろうか……。
そんなふうに心細さを募らせながら、空虚な夜景を眺めつつ、今一度記憶を遡ろうとした――その時だった。
視界全体にガサッと歪なノイズが入り、途端に景色から色彩が完全に失われた。同時に雨は動きを止め、空中で無数の水滴が静止する。
「これって……さっきマルメロが現れた時と同じ――」
呟いた刹那、俺の耳を聞き覚えのある声が貫き――全身の皮膚が凍りついた。
「ごめん……なさい……。ごめん……なさい……」
それは、間違いなくイロハさんの声だった。
彼女はいつの間にか十字路の中心に座り込んでいた。
誰かを膝枕しているように見える。けれど、この位置からはそれが誰なのかまでは確認出来なかった。
俺は急いで階段を下り、車道へ出て彼女の元まで駆け寄ろうとした――が、抱えられた”彼”が一体何者なのかが分かった瞬間、俺の足はその場に張り付いたように静止した。
「ごめん……なさい……」
何度も――何度もイロハさんは同じように繰り返しながら、普段の彼女からは想像もつかない程の大きな声で、嗚咽にまみれた泣き声を上げ続ける。
「イロハさん……?」
呼びかけてみたが、彼女は俺に見向きもしない。
「い――イロハさん……!!」
もう一度――今度はもう少し声を張り上げてみる……が、結果は同じだった。
その後も何度か声をかけてみたが、無視されている――というよりは、俺の声が完全に届いていないような、そんな奇妙な手応えの無さだった。
「どうなってんだよ……これ……」
目の前の信じ難い光景も相まって、心の渕からはドロリと恐怖心が溢れ出し、全身を鋭い悪寒が駆け巡る。
一体、これは何の冗談なのだろうか。
知らない土地で見知った顔が居たと思えば、その人に抱えられて凍り付いたように青くなっていたのは、紛れも無く……俺だったのだ。
イロハさんに抱えられた俺は、どういう訳か全身が酷く傷ついていて、左腕が肘の下あたりから欠損していた。少し視線を他方へ巡らせると、彼女から二メートル程離れたところにソレは転がっていた。
落とされた左手には”彩”が握られている。恐らくは、何者かと戦った末にこうなったのだろう。
あまりに衝撃的な様相に一瞬視線が釘付けになり、生々しさにやられたのか、突然食道の奥から口内へ胃液が上がってくる。
咄嗟に俯いて口を押さえたが、構わず指の隙間からボタボタと地面へ零れ落ちた。
続けて何度か大きく咳き込んだ後、肩で息を吸い上げてなんとか肺へ酸素を送り、一回、二回、と数を数えながら、大きく、深く深呼吸を繰り返す。
そこで俺は、ようやく目の前の光景が何を意味するのかを理解した気がして、意を決してもう一度彼女へ目をやった。
やはり――そこに居たイロハさんの髪は、短いままだったのだ。つまりこの光景は、俺とイロハさんが出会った後の出来事という事になる。
始めは、イロハさんが経験した過去の――と言っても、俺からすれば未来の出来事だけど――光景を見せられているのかとも思ったけれど、それにしては俺の容姿が若すぎる。というか、今の俺とさほど変わらないようにしか見えない。
「……って事は、また夢?」
身体の力が抜けるのと同時に、吐息に合わせて言葉が漏れた。
夢の中で、「これは夢だ」と気付ける事はそう多くない。たまにこういう妙にリアルな夢を見る事があるけれど、大抵そういう時は何か大事な内容だったり、印象に残っている過去の出来事の追体験だったりする。
ともすれば……今見ているこの光景も、何かのメッセージである可能性が高い。
そこまで思考して、俺はふと思った。
もし俺が、今此処でこの惨状をを生んだ何者かの手掛かりが掴めれば、この夢が現実になる前に回避できるんじゃないか――と。
俺はすぐ行動に移した。
まずは周囲の通路や物陰へ目をやったが、人影や魔獣の気配は何処にも見つからなかった。次に空を見上げたけれど、そちらも雲ばかりでそれらしい物は確認できない。
「一回戻ってみるか」
自分へ指示を出すように一人で呟いて、踵を返して駆け出そうとした――その瞬間、背後の彼女が漏らした一言が、俺の身体を芯から震わせた。
「お父さん……」
少しの沈黙の後、彼女はその言葉に続きを付け加える。
「お父さん……ごめんなさい……私……酷い事を……ごめんなさい……」
先程確認した通り、この近くには彼女と俺の死体以外には誰も居ない。なら必然的に――そういう事になる。
――一つ目は、私の素性についての詮索はしないこと
彼女が言った注意事項を思い出しながら、再び俺の身体へ悪寒が舞い戻り、一つの懸念が顔を出す。
もしこの光景が、俺が今ここで彼女の正体を知ってしまったせいで起こった結果なのだとしたら……と。
頭頂部が冷え、首筋を傳って腹部まで冷気が降りてくる。
同じくして、脳裏にイロハさんの言葉が次から次へと溢れてきて、それらが順番に一本の線で紡がれていく。
――私に剣を教えてくれたのは、蘭さん――あなたです。
――あなたの事なら何でも知ってます。優しくて、家族想いで、正義感が強くて、でもちょっぴり淋しがり屋で……。誰かが困ってると放っておけなくて、すぐに自分を身代りにしてボロボロになるんです
「そんな……そんな事って……」
目頭が熱くなり、手が震える。
茫然と立ち尽くす中、記憶の逆流は尚も続いた。
――あなたはこれから、悲しくなる事も、淋しくなる事も、辛くなる事だって……沢山あるかもしれません。でも、その度に思い出してください。あなたは、決して独りなんかじゃないって事を……。あなたを慕う人達が、あなたの周りには沢山居るんだって事を……
――どうか、あなたの記憶の片隅に、私と過ごしたあの日々の欠片が、ほんの少しでも残っていますように……。最後があなたの前で、本当によかった……。幸せな時間を、有難うございました
初めてイロハさんと出会ったあの夢。俺は今までずっと、あれは過去に起こった出来事なのだとばかり思っていた。けれど、もしあの夢さえも、これから起こるはずだった光景なのだとしたら、彼女――イロハさんは……。
――私は、この指通りのいい黒の乱れ髪も、ハイライトが蒼く輝くその藍色の瞳も、何時ものくしゃっと笑う笑顔も、全部大好きです。だから、いつまでもそのままのあなたで居てください
――私だって同じです。もし許されるのなら、あなたとこのまま、ずっと――
俺の心を包んでいた殻に、音を立てて深い亀裂が入った。必死に抑え込もうとするも、中から溢れようとする感情の勢いは留まるところを知らず、ついには熱を帯びた雫となって体外へ放出された。
「……なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか……?」
俺は、夢の中で彼女に投げかけた質問ををそのまま復唱した。
そしたら、脳裏に浮かんだ彼女もまた、同じようにこう言ったのだ。
――……そんな事したら、きっと――優しいあなたは、私の事まで助けようとしちゃうでしょ?
「当たり前だろ……!!」
彼女に背を向けたまま、街路灯の光に照らされた道路に向かって俺は叫んだ。
しかし、ここで少し状況が変わってきている事に気付く。
夢の中の俺は、イロハさんが自分の娘だという事を、恐らくはあの直前まで知らなかったようだった。
やっぱり、俺が彼女の正体を知ったせいで、未来が書き換わろうとしてるのか……?
いや……そもそもこれは夢だ。俺の汚い願望を形にした、出鱈目なビジョンである可能性だってある。けれど、彼女が本当に自分の娘だと仮定すれば、これまでの言動全てに辻褄が合ってしまうのも事実だった。
――……今だけは、まだ――何時も通りお姉さんで居させてください
心の中のイロハさんはそう言って、あの時見せた満面の笑みを俺へ向けた。
途端に、俺は馬鹿らしくなって考えるのを辞めた。
簡単な話だ。結局のところ、今の俺には本当のところを確認する術は無いのだ。なら――やる事はたった一つしかない。
俺はギュッと拳に力を込めて、再びイロハさんの方へと向き直った。彼女は尚も膝に抱えた俺を見つめながら、悲痛な泣き声を上げ続けている。
何があっても、彼女をこんなふうに悲しませてはならない。悲しませたくない。
そう心に深く刻んだ時――誰かに、腕を優しく握られたような気がした。
……。
…………。
……………………――。
「蘭さん……? 大丈夫ですか?」
視界の先では、イロハさんが眉を顰めながら此方を覗き込んでいた。
瞼を擦って、彩音のベッド脇へうつ伏せた上体を起こす。
病室には、既に日の光が煌々と差し込んでいた。乳白色の壁にかけられた時計の針は、午前九時をさしている。
「魘されてましたよ? ……もしかして、また悪い夢でも?」
心配そうに訊ねてくる彼女へ、俺はどんなふうに答えたものかと頭を悩ませた。
ありのままを話す――なんて事は出来るわけがない。ただ、変にはぐらかせば、返ってイロハさんに余計な心配をかけてしまうかもしれない。
そんなふうに逡巡しながら、何とかこの状況を切り抜けようと言い淀んでいると……彼女はそれを見兼ねてかクスクスと笑った後、「そんなに慌てないでください。無理に聞いたりしませんよ」と助け舟を出してくれた。
「実は未来のあなたも、そうやってよく魘されていました」
「え――そうなんですか……?」
意外な言葉に俺が訊き返すと、彼女はコクリと頷いて続けた。
「プラーナの波長というのは、精神のフィルター代わりにもなってるんです。それが無いあなたは、自然界に存在するアーキが持つ微弱な波長にさらされ続けています。恐らくはそれが原因でしょう」
そう言う彼女は、手の平の上で微細な光の粒を操作して、キラキラと輝く楓の葉を形作った。
「私の生まれ故郷には、”アガスティアの葉”という伝承があります。何でもその葉には、今後起こりうる事柄に関しての”予言”が記されているそうで、その不思議な葉が風に揺れる度に、大気に充満するアーキの対流へ予言が溶け出るんだとか」
人差し指を立て、光る葉を遊ばせながら流暢に説明する彼女は、一転して困り眉になりながら続きを付け加えた。
「と言っても、母から聞いた受け売りなので、本当なのかは分からないんですけどね……。ただ、未来のあなたはその予言を、時折夢として見ると言っていました。そして――」
一拍置いた後で、彼女は少し真面目な表情を作って言う。
「夢で見た予言は、大抵の場合現実になる――とも……」
俺は息を飲みながら、夢の光景をもう一度最初から思い出す。そして、「イロハさん」と声をかけて、彼女の気を引いた後で一つ質問を投げかけた。
「あなたが俺達を助けてくれたみたいに、俺にも――未来は変えられますか……?」
それを聞いて意外そうに目を丸くした彼女は、少しの間考え込んだ後で答えた。
「難しい質問ですね……。例えば、私が暮らしていた未来に起こった出来事は、これから何をどうしたって変える事は出来ません」
彼女は言いながら、部屋の窓にかかった薄いカーテンを開け放つと、そこから見える楓の大樹を指さした。
「蘭さん、あの樹を見てください」
言われた通り、立ち上がって俺も窓辺から大樹を眺めた。
「幹から伸びた枝は、各々が違う方向へ向いて伸びていますよね? あんなふうに、一度枝として分かれてしまえば、後からそれが交わることはありません」
断言するも、彼女はそこへ「ですが――」と付け加えて続ける。
「まだ分かれていない枝の伸びる先を選ぶ事は、私にも、もちろん――あなたにも出来ますよ」
そう言って、イロハさんは此方へ柔らかい笑顔を向けた。
彼女と出会ってから、まだそう長く時間は経っていない。けれど、その表情はどうしても俺にとっては特別な物に思えてしまって、ただ笑顔を向けられただけでも喉元が熱くなる。
俺は鼻からゆっくりと息を吸ってそれを宥めてから、同じように笑みを作って一つ頷いて見せた。
今までの俺は、身の周りで起こる事からただ逃げてしかいなかった。そんな奴が、この先に起こるであろう未来を変えるために踏み出そうとしている。
自分なんかに出来るだろうか……なんて考え始めれば、未だに足が竦むけれど、目の前で優しく微笑む彼女となら、或いは――。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
部屋の隅に置かれた刀を赤い帯へ差しながら、イロハさんは俺へ声をかける。
それに何と無い言葉で返事をしながら、最後に――と、俺は彩音の手を優しく握って、心の中で彼女へ語りかけた。
――絶対に助ける。だから、兄ちゃんの事、見守っててくれ
その刹那……手を、微かに握り返されたような気がした。
それが気の所為だと気付くまでには、恐らく数秒とかからなかったけれど、なんだか本当に彩音が返事を返してくれたような、そんな気がしてならなかった。
俺は頬を緩ませながら、「……行ってきます」と呟くように言って、短くなった赤い髪を揺らす背中を小走りで追いかけた。




