表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/30

第八話 『介錯』

 真っ白な空間で、俺は一人立っていた。

 見渡す限り何も無い、極めて殺風景な場所だ。それでも、自然と悪い気はしなかった。むしろ有りがたい……とまで思った程だった。


 ふと、俺は何でこんな所に居るんだろうと考える。

 ゆっくり――ゆっくり考える。

 

 そんな時――。


「兄ちゃん!!」

 俺の背中へ、陽光を思わせるようないつもの声がぶつかった。


 振り返ると、此方へ駆けてきた彩音が全身を委ねるように俺へ抱き着いた。

 (なび)く長い髪から広がった華やかな香りに、思わず頬が緩む。何度か頭を撫でてやると、彼女もそれに合わせるように此方へおでこを擦り寄せた。

 それが嬉しくて、同じように俺も彼女を抱きしめた。すると、小さくも愛おしい彼女の身体からじんわりと温もりが染み込んできて、俺の暗く淀んだ胸底に暖色の陽だまりを生んだ。


 幸せだった。……そう、俺は幸せだったんだ。両親を亡くし、二人ぼっちになってしまった今、決して心細さを感じない訳では無い。けれど、彩音が傍に居てくれさえすれば、俺はまだ頑張れる。生きていける。彼女はそういう……俺の心の支えのような存在だった。


 例え俺達が、血の繋がりの無い”義理の兄妹”だったとしても――。



 途端に、世界が暗転した。

 温もりも、それを与えてくれた彼女も、いつしか消えてしまっていた。

 求めるように――手繰(たぐ)り寄せるように、俺は手を伸ばした。何もない闇に向かって、ただひたすらに……。


 刹那、ザーッという不規則なノイズが鳴り始めた。鼓膜が破れるかと思うくらいの、極めて耳触りな轟音だ。

 周囲を見回してみると、少し離れた場所に一台のカセットラジオが転がっていた。この異音はそこから発せられているらしい。

 

――嫌だ……嫌だぁあ!!

 よく聞けば、それは……俺の声だった。


 嗚咽にまみれた情けない声で、スピーカーの向こう側に居る俺は何度も同じように叫んでいた。

 

――気持ちは分かります。でも……此処は耐えてください。

 今度は女性の声が聞こえた。恐らくそれは、イロハさんの声らしかった。

 

 そっか、俺……彩音を人質に取られて……。

 

 胸裏で思い出した直後、意識と記憶がゆっくりと身体へ定着して、眼前へ病院前の情景が再構築されていく。それに合わせて、止まっていた雨粒達が自身の役割を思い出したかのように再び地面を打ち始めた。

 

 俺は右腕を伸ばし、何かを懸命に掴もうとしていた。しかし、その先には何も無い。あるのは変わらない雨空と、深夜の静まり返った街並みだけだ。

 そこにはもう……白塗りの女も、それに連れられた彩音の姿も無かった。


「……彩音――」

 脱力した声でそう漏らした途端、脳裏に焼き付いた彼女の笑顔に、ビキビキと深い亀裂が何本も走った。


 胸の奥がゴッソリと抜け落ちたような、寒気すら覚える酷い喪失感が全身を襲った。肩も重い。吐き気もあった。そのせいか、目の前で起こった事はとても重大なはずなのに、その重さが妙に曖昧で、取るに足らないどうでもいい事のようにも思えてしまう瞬間さえあった。


 俺は自分を落ち着かせるため、一つずつ周囲の状況を飲み込む事にした。

 まずは辺りに目をやる。雨脚は再び強まり始めていた。大粒の雫がバタバタとコンクリートを打ち、近くの排水溝が忙しなく泥水をすすっている。その合唱は騒がしいはずなのに、返ってこの場の空虚さを増長させていた。


 俺の腰には、背後から腕が回されていた。イロハさんの腕だ。

 腹部に強く圧迫されたような違和感がある。恐らくは、暴れた俺を彼女が止めてくれていたのだろう。

 すぐにその拘束は解かれ、自由になった俺はよろよろと前方へ歩み出た。倦怠感が酷く、体重をどこへかければいいのかが分からなかった。安定を探るように身体をゆらゆらと揺らしながら、ただ脚だけを動かし続ける。


 やがて白塗りが立っていた場所まで辿り着くと、ガクンと力が抜けて膝から崩れ落ちた。そして座り込んだまま、地面に規則正しく敷き詰められたタイルを意味もなく眺めた。

 あまりにも綺麗に並んだ四角形の隊列に、何故だか酷く苛立ちを覚えた。その一つ一つは、俺には人の形のように見えた。同時にそれは、どこまでも正常な様にも思えた。


 試しに、その隙間へ自分の居場所を探してみた。けれど、キッチリと噛み合った図形の羅列には、ハマりの悪い異形が入る余地なんて何処にも存在しなかった。

 どんなに甘く見積もったって、俺の外周には四辺も存在しない。よくて三角か、或いはもっと無骨な――。


 そんなふうに思った時、ふと脳裏に、彩音を襲った黒い化け物の様相が浮かんだ。

 世界という大きな箱からしてみれば、俺もヤツも同じようなものなのかもしれない。


 白塗りが言っていた”デブリス”というのは、あの黒い異形の事を言っていたのだろうか。だとすれば、デブリ――つまり、”残骸(ざんがい)”という意味でつけられた名前なのかもしれない。

 残骸……失敗作……あぶれ者……と、そこまで連想して、妙に親近感を覚えてしまった自分に対して、俺は重ね重ね自己嫌悪を募らせた。


「……最初から、無かったんだ。この世界に”俺達”の居場所なんて――」

 喉から漏れた俺の声は、酷く震えていた。


 直後――ポタッッと、一滴の雫が地面を打った。車寄せで雨は遮られているはずなのに、その熱っぽい水滴は次から次へとタイルの表面を湿らせた。

 何滴目かのソレが零れ落ちた時、その音はポチャンとやけに耳に残る残響となって、床や壁に跳ね返る度に静寂の波紋が広がった。

 

 そして、気付けば眼前の景色から一つ、”色”が失われていた。

 

 最初に消えたのは”青色”だった。

 寒色に支配されていた夜の闇からは彩度(さいど)が著しく失われ、モノクロ調に様変わりした街並みは、何時もより少し冷たく――また、狭くなったようにも思えた。


 続けてまた一滴……今度は、”灰色”が失われた。

 明暗のグラデーションから階調数――つまり”色の数”が減り、コントラストが強まった世界からは滑らかさと奥行きが消え去った。

 

 そして、遂には”黒”が失われ、物体の輪郭線すら存在しない、暖色と白だけの曖昧な世界がやってくる。

 

 無味無臭。五感に対して何の刺激も(もたら)さないその世界は、今の俺にとってはとても居心地が良かった。

 もう何も考えなくていい。傷つく事も、辛くなる事もない。それでも……次の瞬間には空しさと淋しさがぶり返して、俺の心を酷く抉った。

 

 それに追い打ちをかけるかのように、白塗りの女が去り際に放った言葉が脳裏で再生され始めた。


――対価は、貴方の一番大切な物でなくてはなりません。故に、日百合彩音の精神体を捕虜(ほりょ)として此方で預かります。一ヶ月後、メインプログラムによって、貴方がこの世界において有益であると判断されたなら、無事に解放すると約束しましょう


 たった一ヶ月で、何が出来るってんだよ……。

 俺は壊れたスピーカーのような声へ向かって、届くはずもない悪態を胸裏で吐き捨てた。


 その後、女は更にこう付け加えた。


――申し遅れました。私は、この近郊を統括するオペレーターAIの”マルメロ”と申します。以後、お見知り置きを。


 マルメロ……白塗りは確かにそう名乗った。

 オペレーター? AI(エーアイ)って何なんだ……? 何かの略称か?


 奴とイロハさんの会話の中にも、聞き慣れない単語が多く飛び交っていた。

 そもそもメインプログラムっていうのは何者なんだ? その他にも、ディメンションだとか、天部(てんぶ)だとか……今の俺には、知らない事が多すぎる。

 

 ただ一つだけ、”アーキ”という言葉には聞き覚えがあった。

 それは小学生の頃、まだ俺が魔術の授業に出席だけはしていた時の事だ。”アーキ”という単語について、みんなで考えてみようという授業を受けたことがある。

 当時のクラスを受け持ってくれていた先生は、俺達に向かってこんなふうに説明した。


「アーキとは、この世界を構成する”全て”であり、大気中の何処にでも存在していて、私達を優しく見守ってくれている”神様”のような存在です」


 それを聞いていた生徒は、俺だけでなく全員がポカンと口を開けて小首を傾げていた。

 先生はそんな俺達を見てクスッと一つ笑ってから、「最初は、私もそんな顔になりました」と懐かしむように言ってから、続けて魔術という学問の大枠について話し始めた。


「”魔法”というのは、詠唱――つまり、合言葉のような物を使ってアーキと会話し、その結果を享受(きょうじゅ)する事を言います」


 この時点で、俺にとっては全く想像すらつかない世界の話だった。しかし、他のクラスメイトはその後の実技を経て実際にアーキと対話し、魔術がどういう物なのかを漠然と理解したようだった。

 あの時感じた疎外感を、俺は今でもよく覚えている。まるで、自分だけが世界の外側に弾き出されてしまったような、あの息苦しい感覚を……。


「……蘭さん」

 背後から女性の声が聞こえた。イロハさんの声だ。


 俺はゆっくりと立ち上がって声へ向き直ると、そこには真っ白な世界でただ一人、色と輪郭を保ったままの彼女が立っていた。

 そんなイロハさんの短くなった髪を見て、胸中に蔓延る自己嫌悪へ更に拍車がかかる。何故なら、白塗りの女――マルメロが彩音の精神を持ち出したあの時、俺は最低な事を考えてしまったからだ。

 

 彼女の代償が”髪”なんかで済むのなら、イロハさんがもっと他の部位を差し出せば、或いは彩音の代わりくらいにはなるんじゃないのか……と。


 俺はその瞬間において、本当に救いようのない奴だった。

 日百合蘭という男は、自分の身の周りが助かる為なら、たとえ命の恩人ですら対価として差し出そうとするような、そんな酷い人間なのだ。


 そんな奴が、ましてや……この世界にとって有益な存在になんてなれる訳が無い。

 

 自己完結した後で、俺は彼女が腰に携えている刀に目をやった。

 鶺鴒差(せきれいざし)された二本の刀は、どちらも人を(あや)めるには充分な刃渡りのように見える。

 改めてそれを確認した後で、俺の中に一(つま)みのくだらない願望が過った。でも、恐らくその願い叶わない。しかし追い詰められた今……俺はそれを口に出さずには居られなかった。


「……イロハさん、お願いがあるんです」

 言って、一つ息を飲んだ後、「その刀で、俺を――」と細い声で付け加えた。

 すると彼女は瞼を閉じ、深い溜め息を一つ吐いた後、「……分かりました」と意外な言葉を返し、再び小刀を抜いた。

 

 空気の色が、また一つガラリと変わった。それに合わせて、曖昧だった俺の心も固まったような気がした。


 俺が死ねば、精神を(さら)われた彩音はどうなってしまうのだろう。それだけが心残りだった。しかし……すぐにそれすら、どうでもよくなってしまった。

 俺は救いようのない、ゴミクズみたいな人間だ。ならいっそのこと開き直って、自分の為だけに生きたっていいじゃないか。

 もう充分頑張った。充分苦しんだ。だから、最後に一つだけワガママを言うくらい……。


「そのままで構いません。目を閉じてください」

 小太刀を下段へ構え、俺の目の前までやってきた彼女が囁くように言った。


 介錯(かいしゃく)とは、本来であれば相手を座らせ、背後から首を斬るものなのだろうけど、この際形式なんてどうだってよかった。

 俺は言われた通り、立ったまま目を閉じた。すると、暗くなったはずの視界には(ことごと)く有象無象が湧いて出る。これが死に際に見る走馬灯(そうまとう)というやつなのだろう。


 しかし残酷な事に、こんな時に限って良い思い出ばかりが浮かび上がった。

 アルと一緒に駆け抜けた幼少期や、家族四人で過ごした暖かい日々。それを追いかけるように映ったのは、両親が亡くなった後の、彩音との細やかな時間の数々だった。


 思えば、嫌な事ばかりでもなかったな。

 ……いや、辞めておこう。余計に死ぬのが辛くなるだけだ。

 

「絶対に、途中で目を開けたりしないでください」

 瞼の向こうで、彼女が念を押して言った。


 イロハさんの声を聞いた途端、心臓が激しく脈を打ち始めた。身体中から汗が噴き出し、自然と首元に力が入る。

 なんとかそれを宥めようと、俺は何度も深呼吸を繰り返した。

 意外にもそれはすぐに落ち着き始め、五感に染みついていた感覚がゆっくりと遠ざかるのを感じた。ようやく、身体も死を受け入れてくれたようだった。意識が暗闇へ霧散し、虚ろへと溶けていく。

 

 そうだ、それでいい。やっと、楽になれる。

 ごめんな、彩音……。


 ……――。

 

 次の瞬間、俺の左頬へそっと手が添えられた。その時点で何かがおかしいとは思ったのだけれど、一度遠ざかった感覚はそんなにすぐには戻ってこなかった。

 やっとの思いで意識を叩き起こし、俺は冷静に考えてみる。彼女に左腕が無いのだろうという事には、俺も少し前から気付いていた。しかし、だとすれば右腕で刀を握るしかないはずだ。当然、今彼女の手は塞がっている訳で――。


 じゃあ、今俺の顔へ触れている手は一体……。

 心の中で自問自答を繰り返しているうちに、その答えはすぐに俺を襲った。

 

 柔らかく、そしてしっとりと濡れた物が、俺の唇へ重なった。

 直後、添えられた手は俺の顔を強引に引っ張り出す。更に深々と組み合った花弁の奥では、蜜のしたたる熟れた果肉がねっとりと絡みついてくる。

 深く――次に浅くなって、また求めるように吸いつく。一つソレがのたうつ度に、彼女から漏れ出る甘い吐息が頬を撫で、口内で混ざりあった唾液が喉の奥を熱く焼いた。


 頭の中心がかき回されて、閉ざしたはずの瞼の裏が真っ白になっていく。

 いい加減、別の意味で事切れてしまいそうになった俺は、たまらず言いつけを破って目を開けた。

 

 するとそこには、頬を真っ赤に染めながら目を細めたイロハさんの顔があった。


 俺と目が合うと、彼女は花唇(かしん)をゆっくりと離す。次に目だけで優しく微笑んで、もう一度だけ軽く――そして優しく唇を重ねた後で「……少しは、目が覚めましたか?」と、悪戯な笑みを浮かべながら囁いた。


 頬が膨張して、そのまま爆発でもするんじゃないかと思う程の恥ずかしさに、俺は思わず目を彼方此方へ向けてやり過ごす。

 ついでに視界に入った世界は元通りになっていた。色も、輪郭も、いつの間にか消えてしまっていた音さえも、全てが鮮明に感じ取れる。

 

 しかし、今はそんな事に気を取られている場合じゃない。

 成す術無く狼狽(うろた)え続ける俺を見て、イロハさんは頬を緩めながらクスクスと笑うと、右腕で俺を優しく抱き寄せて額と鼻先をピタリと合わせ、その感触を味わうかのようにまた吐息を一つ漏らした。


 こんなの、女性経験がほとんど無い俺にだってわかる。

 俺は完全に、彼女のおもちゃにされていた。


「突然ごめんなさ。でも、錯乱した貴方を宥める為には、こういうのが一番効果的かと思って……」

 彼女はまた甘い声で囁くと、続けて俺に語りかけた。


「あまり、自分を責めないでください。貴方は何も悪くありません。……でも、そんな蘭さんにも、一つだけ間違っている事があります」

「間違っている事……?」

 訊き返すと、彼女は一つ頷いた後で再び口を開いた。


「貴方は、何も持ってない訳ではありません。魔法が使えないからといって、全てを失ったふうに仕立て上げているのは、恐らく、貴方自身だと思います」


 確かに……そうかもしれない。けれど俺には、そう思ったのと同じくらい無責任な言葉にも聞こえてしまった。

 さっき会ったばかりの人に、一体俺の何が分かるって――。


「分かりますよ」


 彼女が突然発した言葉に、俺は思わず目を見開いた。


「説明すると長くなってしまうので、それはおいおいということで……。とにかく、貴方の事なら何でも知ってます。優しくて、家族想いで、正義感が強くて、でもちょっぴり淋しがり屋で……。誰かが困ってると放っておけなくて、すぐに自分を身代りにしてボロボロになるんです」


 彼女は少し照れくさそうにしながら、俺の返事も待たずに続けた。


「私は、そんな貴方を助けるために此処まで来ました。遠い遠い未来から――」

「未来……?」


 訊ねると、彼女はまた一つコクリと頷いた。


「さすがに、嘘っぽいですよね……? もちろん、すぐに信じてもらおうなんて思ってません。まだ、お話出来ていない事も沢山あります。それをお伝えした後で、ゆっくり考えていただいて構いませんので」


 そう言って、彼女は俺から少し距離をとると、真っ直ぐ俺と目を合わせて不敵に笑う。


「ひとまず、これから一ヶ月の安全は保証されました。その間、私が貴方を全力で支えます。いきなりこんな事言われても困っちゃうかもしれませんけど……マルメロが提示した条件をクリアするためにも、私と一緒に、もう一度だけ前を向いて歩いてみませんか?」


「……歩くったって、俺には――」

 言い淀むと俺を、彼女は「いいえ、あるはずです」と、俺の言葉を強く否定した。


「正確には、”あった”はずですよ? 明確にハッキリと、”こうなりたい”という願いが――」


 背筋を、サラリと柔らかい何かで撫でられたような気がした。悪寒という程でもなかったが、全てを見透かされているような、嫌に落ち着かない感覚だ。


 しかし、最初は半信半疑だったけれど、その言葉で”何でも知ってます”というのが出任せではない事を思い知らされた。


 確かに、俺は一つだけ”願い”と呼べる物を持っている。けれど、それは未だかつて誰にも打ち明けたことのない願いだ。あのアルにさえ、一度たりとも話した事なんてなかった。

 俺はずっとそれを心の奥底へしまい込んできた。それが叶わないと知ってるから剣道に打ち込んだし、それが報われないと分かってるから学校にも行かなくなった。


 そんな願いを今更口に出すには、まず今までそれを諦めてきた自分を完全に”否定”する必要がある。

 ……と、そこまで考えて、皮肉にもそれが先程達成されている事に気が付いてしまった。


 無言で顔を顰め、俺が一つ嘆息すると――碧眼を煌めかせる彼女は前触れもなく悪戯っぽい笑顔を作って、俺に向かって控えめなウィンクを飛ばす。


 嘘だろ……? 冗談じゃないぞ……。俺はそう思いながら息を飲んだ。

 その表情の真意は俺には分からないけれど、恐らくこの状況全てがイロハさんの思惑通りなのだろう――という事だけは何となく感じ取れた。


 俺は彼女のしたり顔をぼんやりと眺めた。出会ったときから思っていたけれど、彼女の容姿は異様なまでに整っている。美麗とも言えるその姿からは、周囲を華やかに――そして(あで)やかに染め上げるような不思議な雰囲気が漂っていた。


 そこでふと、俺の胸中に不安が過る。

 実は、俺はその色香に惑わされていて、目の前の出来事全てが幻だった――なんてこと無いよな……?


 思いながら一度目を擦り、全身に張り付いた火照りを振り払うために身震いをした。

 何故ここまで俺の事を知っているのか、そして何故俺なんかにここまで尽くしてくれるのか――命の恩人を疑うのは少し気が引けるけれど、一見怪しいと思える部分は多々あある。


 ……とはいえ、この人が助けてくれていなければ、俺も彩音もバケモノに襲われて死んでいたはずだ。なら、いっそ全てを受け入れてしまって、彼女の手で――正しくは口でだけれど――今までの自分を殺された事にしてしまってもいいのかもしれない。

 何に対しても向き合う勇気が持てなかった、どうしようもない過去の自分を、(ゆる)してしまってもいいのかもしれない。


「さぁ、まずはきちんと声に出して、一歩踏み出しましょうか。貴方は、一体何になりたかったんですか?」

 空色の瞳を一層煌めかせながら、笑顔のまま彼女が俺へ訊ねる。


「……俺は……」


 一度溜めを作って、彼女の瞳を見た。するとイロハさんは、何も言わないままに再びコクリと頷いてくれた。


 手に汗が滲んだ。心臓も激しく波打っていた。

 当たり前だ。なにせ……五歳の頃に諦めた夢を、九年経って今更掘り返そうというのだ。今まで見向きもしなかっただけに、そんな簡単に出て来てくれる訳がない。


 それでも――。


「俺は――」

 言いかけて、後に続かなかった言葉をもう一度丁寧に手繰り寄せ、次の一息で吐き出すように言う。


「父さんと母さんみたいな、立派な――魔剣士(まけんし)になりたいです」


 赤紙を揺らす彼女はまた一つ頷いて、「なれますよ。必ず――」と俺へ微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ