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第七話 『代償』

「ちょっとだけ、外の空気でも吸いに行きませんか?」

 そう言って、彼女――イロハさんは、俺を病院から連れ出してくれた。


 エントランスから自動ドアを潜って外へ出ると、生温く湿った外気がねっとりと肌を撫で、同時に微かなホワイトノイズが耳に入った。どうやらまた雨が降り始めたらしい。

 雨脚は極めて緩やかだった。けれど雲は濃密に層を成していて、先程のような通り雨という雰囲気ではなさそうだ。


「この調子だと、朝まで降り続きそうですね……」と、赤髪の彼女も俺と同じような事を思ったらしく、目の前の大きなロータリーを見渡しながら少し残念そうに言った。


 病院前の通りを覆う車寄せの向こうには、水しぶきで少し白んだ夜の街並みが広がっていた。

 此処は楓宮(ふうぐう)の繁華街近くにある大病院だ。都市部に面しているだけあって、普段はタクシーや、ギルドの救急搬送車両が忙しなく出入りしているのだけれど、夜も遅いせいか、今は閑散として静まり返っている。


 俺はすぐ側にあるタクシー乗り場に設けられた時計へ目をやった。ぼやりと輝くデジタル表記の黄色い文字盤には、AM0:35と出ている。

 俺達が転移魔法で此処へ到着してから、既に四時間近くが経過していた。しかし……彩音の手術は一向に終わる気配がない。


「……蘭さん?」

 踵を返しながら、碧眼の彼女が優しい声色で俺を呼んだ。

 イロハさんはそれ以上何も言わなかったけれど、少し眉根を寄せながら柔らかい視線を此方へ投げかけていた。

 

 雨に濡れた暗がりの中でも、その碧い瞳は清らかに輝いていた。背丈がほとんど同じなせいで、ただ視線を向けるだけでもピッタリと目が合ってしまって、何となく気不味くなった俺はそっと目を逸らした。

 続けて、じわりと顔の表面が熱くなる。なんだか頭もボーッとし始めた。最初は照れているのかと思ったが、今度は突然気分が悪くなってきて、喉の奥から夕食に食べた何れかが込み上げてきた。


 咄嗟に俯いて唾を飲み込み、俺はなんとかそれを抑え込もうとした。明らかに身体の調子がおかしい。次第に指先や口元がピリピリと痺れ始めて、頭頂部からスーッと血の気が引くのを感じた。


「すみません……。なんか、ちょっと……疲れが出ちゃったみたいで」

 朦朧とする意識の中、俺は纏まらない言葉をなんとか繋ぎ合わせて吐き出した。


 恐らくは、体力も精神も限界が近いのだろう。畳み掛けるような状況の変化に対して、身体が適応出来ていないらしかった。

 気付けば足が震えていて、この場でただ立っているのもやっとだった。それでも、彩音の事を思うと不安な気持ちだけが先走って、独りでに気力がどんどん擦り減っていく。


 イロハさんのお陰で、何とか命は助かった。……いや、助けてもらった。けれど、状況は依然として最悪なままだ。


「……大丈夫ですか?」

 彼女は俺のすぐ傍までやってきて静かに訊ねた。


 返事をしようと口を開く――が、何故か声が出ない。

 喉元を押さえて力を込めるも、ただ吐息が漏れるだけだった。どうやら人間は、消耗し切ると声すらまともに出せなくなってしまうらしい。

 心配そうに俺の顔を覗き込むイロハさんへ、何か返事をしたかった。けれど、どんなに頑張ってもうめき声一つ出てこない。


 初めての経験に、じりじりと焦りが募る。

 声を出す事を早々に諦めた俺は、なんとか視線だけでもと彼女の瞳へ目をやり、返事をしようという意思だけでもと、首を小刻みに縦へ振る。しかし、少し経ってから俺は酷く後悔した。どう考えたって、そこは”横”へ振るべきだっただろ……と。


 それを見兼ねたのだろう彼女は、俺の手を引いてタクシー乗り場に置かれていたベンチへ座らせてくれた。すると、腰を下ろした刹那――みぞうちの奥を誰かに鷲掴みされたような激痛が走り、俺は吹き出すように嘔吐(えず)いた。自分でも驚いて咄嗟に息を吸ったが、なだれ込んだ空気が喉の奥を鋭く突いて、反って酷く咳き込んだ。

 そこでようやく、呼吸すら満足に出来ていなかった事に気付かされた。


「私の声が聞こえますか?」と、左の耳元で彼女の声が鳴った。俺が何とか頷いて返すと、続けてイロハさんは「一度息を整えましょう。ゆっくりで大丈夫です。肺を空っぽにするイメージで、息を吐いてください」と囁いた。


 言われるがままに、俺はそっと息を吐いた。

 

「今度も同じです。ゆっくり吸って――」


 また声に合わせ――吸う。

 そして、再び吐く。

 

 同時に彼女は、俺の背中を丁寧にさすってくれた。

 何度かそれを繰り返しているうちに、ようやく視界が明るくなって――目の前すらほとんど見えていなかった事を自覚した。

 

 しかし……意識が鮮明になるに連れ、腹の底から真っ赤なモヤが沸々と湧きあがってきて、次にそれは細く棚引いて蜷局(とぐろ)を巻き、身体の内側を貪るように這い回った。

 あの時と同じだ。彩音を抱えたまま何もかもが行き詰った瞬間、衝動に任せてひたすらに激昂したくなった――あの時と……。


 ここまで追い詰められて、俺は初めて思い知ったのだ。

 俺はこの瞬間において――この世界において、どうしようもなく無力だという事に……。


「何で……俺なんだよ……」

 思わず、ほろりと口から言葉が漏れた。


「もっと――もっと他に居るだろ……。なのに、何でこんな……何にも無い俺なんかから……」


 誰に言うわけでもなく、ただ喉に詰まった言葉を外へと吐き出す。

 背中をさする手は、そんな俺に対して無限とも思えるほど優しかった。ゆっくりと首元から背筋を伝い、下がるとまた同じように撫で上げる。

 それに促され、腹の底へ沈殿していた言葉が、ドロドロと俺の口から溢れ出た。


「大事なんだ……大切なんだ……」


 また息を吸い上げ、嗚咽の共に吐き出す。


「返せよ……返してくれよ……!!」


 俺が力無く叫ぶと、ぼんやりと湿り気を吸った声は車寄せに反射して、辺りへ酷く空虚に響いた。同じくして、身体の内側に溜まった赤いモヤは俺の胸元まで上がってきて、淀んだ空しさへと変わっていく。

 言ったって、何も変わらない事は分かっていた。それでも……俺の口からは、まるで留め具が壊れたかのように情けない言葉が溢れ続けた。


「頼むから――お願いだから……もう、これ以上……俺から奪わないでくれ……」

 俺は懇願するように呟いた。続けて頭の中へ沢山の顔が浮かんだ。父親の顔、母親の顔、彩音の顔、そして……アルの顔。

 

 正直に言ってしまえば……俺という愚かな人間は、自身の体質を舐めていたのだ。

 息も出来る。物だって食べられる。話すことだって出来る。剣だって握れる。魔法が使えないからといって、人間としての生活は――もちろん相応の補助は必要だったけれど――ある程度こなせていた。

 

 しかし、この期に及んで気付いてしまったのだ。俺は独りぼっちでは何も出来ない事に……。

 ただ生きる――それだけの事さえ、彩音が居なくなってしまったら、もう……。

 

 そんなふうに彩音の顔を脳裏に浮かべた刹那――ソレは、俺達の前に現れた。

 同時に、空気が持つ色がガラリと変わった。色と言っても、決して視覚的な情報ではなく、温度や湿度といった体感覚でもなく、もっと根本的な何かが”静止”したような、そういう冷淡な変化だった。


 俺が異変に気付いた直後、イロハさんは黙ったままベンチから立ち上がって、三歩程前へ出てから病院の入口とは逆側の方を真っ直ぐに見つめる。

 そして、彼女はソレへ向かって言葉を投げた。

 

「まさか……こんなに早くあなたが出てくるとは思いませんでした」

 それは、彼女の柔らかい雰囲気からは想像もつかないほどに冷たい声だった。


 言葉が向けられたほうへ目をやると、そこには真っ白な”女性”が立っていた。いや、実際には女性なのかすらも定かではない。何せ、白く発光するシルエットがそこにあるだけなのだ。

 髪は腰にかかるほど長く、ワンピース姿のように見える。背丈は俺達とほとんど変わらないくらいで、風貌からして、大人……というよりは、どちらかというと幼げだ。

 

 ただ、その異質さにも目が慣れてくると、今度はそれ以上の光景が視界の隅へ飛び込んできた。

 まず、ホワイトノイズが止んでいた。先程まで病院の前へ響いていた静かな雨音が一切聞こえない。しかし、それは当然の事だった。そもそも”降っていない”のだ。もっと正確に言うなら……雨粒が、空気中で完全に動きを止めていた。

 

――貴女(あなた)のせいですよ? デブリスを全損したおかげで、私が直々に赴く他なかった。ただそれだけの事です

 

 見た目が異質なら声はそれ以上だ。やはり女性的に聞こえるが、その響きは酷く掠れ気味で、まるで古いスピーカーを通して聞いているようだった。

 白塗りで奥行きが感じられないせいで、何処を見ているのか、此方を向いているのか後ろ姿なのかも分からない。ただ、今背筋に走り始めた悪寒からして、恐らく今だけは俺のほうを見つめているように感じられた。


――やはり、貴方様はそちら側に付きましたか。……非常に残念です

 白塗りは穏やかな声でそう言うと、右手の人差し指を空中で奇妙に滑らせながら続ける。


――早速ですが、試してみるといたしましょう

 

 女の言葉に合わせ、イロハさんは表情を荒げて咄嗟に小太刀を抜き――正眼(せいがん)に構えて、次に素早く「――我、魂の罪を量りし者なり」と力強い声で唱える。


 刹那、衝撃と共に視界が激しく明滅した。気が付くと俺は椅子から転げ落ちていて、無意識のままに頭を抱えてうずくまっていた。

 白飛びした世界は次の瞬時には再び暗くなり、伏せた視界の隅に雷撃が飛散するのが見えた。

 恐る恐る顔を上げると、眼前には薄く赤みを帯びた膜が張られていて、それを避けるように地面が激しく(えぐ)れていた。

 

 この膜が守ってくれていなければ、恐らく俺は今頃……。

 

――報告通り、此方からの干渉は叶いませんか……。それにしても、”アーキ”の対流上では貴女を狙ったように偽装したつもりでしたが、標的がそこに居る彼だとよくお気づきになられましたね

 

「生憎と、私は特別目がいいんです」

 彼女は強い眼光を白塗りへ向けながら得意げに言った。

 

――なるほど? 先程貴女が唱えた奇妙な公文といい、もしや貴女は、”天部(てんぶ)”に(ゆかり)が?

 

「ご想像にお任せします」

 警戒を強めながら、彼女は簡素に答える。


――まったく……此処はまだ初期段階のディメンションですよ? 時代に対して不釣り合いにも程がある

 

 言いながら、白塗りは腕組みをしながら嘆息したように吐息を漏らす。

 

――早々にご退場頂きたい所ですが、此方の権限で対処出来ないとなると、やはり箱を潰して最初からやり直すしか……

 

 女は組み合わせた肘を――白飛びしていて細部は定かではないが――何れかの指でトントンと叩きながら、少しの間黙り込む。

 そんな中、イロハさんは途端に刃を下ろし、無防備にも警戒を解きながら口を開いた。

 

「私に、いい考えがあります」

 言って彼女は首の後ろへ小太刀を回し、刃で長い髪を下から簡単に纏め上げ――唐突に、頭上へバサリと斬り飛ばした。

 

 赤髪は首元から寸断され、鮮やかな紅い輝きを放ちながら飛散する。空中へ漂った髪は瞬く間に彼女の眼前へと吸い寄せられてゆき、次にはボールのように丸く固まった。

 

――一体、何のつもりでしょうか?

 不審に思ったのか、女の声色が少し低くなる。


「取引をしましょう。この髪はあなたに差し上げます」


 イロハさんは小太刀を鞘へ収めると、首筋にかかるかどうかまで短くなった髪を簡単に手で撫でつけ、目の前に浮いた髪のボールを白塗りのほうへと手で追い払った。


「その代わり、私達に一ヶ月程の猶予をください。 所謂”執行猶予”というやつです」


――……正気ですか? 髪とはいえ、そんな物を差し出せば、貴女は私共に対して降伏したも同然となりますが?

 更に低く細くなった声で、白塗りの女は再び確認を取る。


「構いません。対価としては充分でしょう?」と、イロハさんは表情一つ崩さずに淡々と答えた。


 それを聞いた白塗りは恐る恐る髪のボールへ手を伸ばすと、赤い玉を手の平に乗せ、そのままヌルリと体内へ吸収した。

 直後、ブツブツと嫌な音を立てながら、白一色のシルエットへ小刻みにノイズが走る。しかしそれも次第に緩やかになっていき、体表が純白へ戻った頃に再び腕を組み直して口を開いた。


――……なるほど。つまり、そこに居る彼には、まだ”価値”が眠っていると……?


「ご理解頂けたようで何よりです。加えて、私は……出来る事なら、あなたとも争いたくはありません」


――デブリスを一掃しておいて何を今更……

 嫌味の込もった言葉を吐きながらも、女は「ですが――」と付け加えて続けた。


――いいでしょう、取引成立です。これで貴女が私共の脅威となる事は無くなりました。対価として、貴女の滞在を一時的に承認します。同時に、そこで放心している彼に対しても、一ヶ月の間は危害を加えないと約束しましょう


 女の言葉に、ほんの少しだけ俺の緊張が和らいだ。

 しかし、そんな俺を崖から突き落とすように、女は「ただし――」と再び加え、更なる”条件”を提示した。


――その為には日百合さん、貴方からも”対価”を頂かなくてはなりません

 そう言って、白塗りは左腕を前へ翳し――そこへ、白髪を揺らす紅い瞳の彼女を連れ出した。

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