リーンハルトの回帰
彼女に赦されない僕は、彼女と同じ場所に行けない。
それに気が付いたとき、僕はまだ自分に絶望する余地が残っていたことに驚いた。自分は最底辺にいると思っていたのに、そうではなかったらしい。
僕は、彼女にもう二度と逢えない。
たとえ僕が後を追ったとしても。
正しく生きたペトラは天国に昇っただろうから、罪を犯した僕は地獄に堕ちるのだろう。
考えてみれば当たり前だった。生前の罪が赦されるなら、地獄なんてものがあるはずがない。
罪人は、罪を犯した瞬間から、永遠に罪人であり続けるのだ。
他人を見下し、傷つけ、裏切り、搾取したこと。他者の立場になって物事を考えることをしなかったこと。自分のするべき義務を果たさず、自分が何をしても赦されると思い込んでいたこと。
そのしっぺ返しを最悪の形で受けるはめにはった挙げ句、自分が責められたくないからという理由で、最愛の妻から逃げたこと。
その全てが、僕の罪で、その全てが、赦されない。
それから、僕はただ領主の義務をこなすだけの存在になった。
赦されないにしても、これ以上罪を重ねる訳にはいかない。
それに、ペトラが守ろうとした貴族としての在り方や、平民の生活を蔑ろにするのはいけないと思ったからだ。
飲み込めない食べ物を無理やり喉に押し込んで、眠れない身体を無理やり酒で眠らせる日々。生きながらにして、死に続けた生活の始まりだった。
こんな生活に嫌気がさして、自分で自分の首に手をかけたことがあったが、そのまま自分自身を絞め殺すことはできなかった。どうしても、途中で息ができなくなる苦しみと恐怖に耐えられず、手を離してしまう。
そんなことを何度か繰り返して、改めて、あの日の彼女の絶望と覚悟と苦痛を思い知った。
そして、ますます自分自身に失望した。
これ程の苦痛と恐怖を伴う死を、彼女に与えたことに。
『······行かないと』
のろのろと支度し、部屋を出る。
今日は領地へ視察に行くことになっていた。
鏡を見る。そこにいるのは、生気を失い、やつれ果てた男。かつて口々に称賛された美貌はどこにもない。
いい気味だと、自嘲した。
このころにはもう、僕は誰よりも自分自身を憎むようになっていたから。
妻を殺したあの侍女よりも、妻を侮辱したあの男よりも、僕自身が憎くて仕方がなかった。
だから視察中に――ナイフで胸を突かれたときに、真っ先に感じたのは安堵だった。
これで、楽になれると。
遠くへ逃げていく襲撃者の足音と、「閣下!!」と地面に倒れた僕を必死で呼び掛ける従者の声がだんだんと小さくなっていく。
ぬるい体液が地面を赤く染め上げ、冷えていく様を眺めながら、自分が助からないことを確信した。
僕を殺すなんて、ディルガー公爵家の分家の仕業だろうか。子供がいない僕が死んだら、家督を継ぐのは確か僕の従兄弟のはずだ。あるいは、僕が好き勝手していたときの被害者が復讐に来たのだろうか。
どちらもあり得ることだ。だが、別にどちらでも構わなかった。そんなことに興味はないし、確かめることは叶わないのだから。
僕は、もう、終わらせて欲しかった。
義務感故に自害ができない僕に強烈な罰を与えて、僕の空虚な人生を終わらせてくれる存在を、僕は心の奥底で、ずっと待っていたのだ。
あの日から何度も考えている。
僕はどうすればよかったのか。どうすればペトラは死ななかったのか。僕はどこから間違えたのか。
······今なら、分かる。
最初から、全部、間違えていた。
僕が僕として存在していたことが間違いだった。
僕は、僕の人生において、罪しか犯さなかったのだ。
その中でも、最大の罪は、あの日、涙を流すペトラを寝室に一人にしたことだ。
······あの日、あのとき、お前は、傷ついたんだろう?
僕がお前と一緒に泣いてくれなかったから、悲しかったんだろう?
今なら、分かる。僕は、お前のことを愛していたのに、お前の子供に対してお前と同じ気持ちを持てていなかったんだ。
僕はお前の夫で······そして、あの子の父親だったのに······あの子の存在は唯一無二のものだったのに······僕がそれを理解していなかったことにお前は絶望したんだ。
唯一無二の存在を失い、否定されるということが、どれ程苦しいのか、お前が死んでようやく分かった。
あのとき、僕は、お前の側から離れるべきではなかった。一緒に泣けば良かった。僕たちの子供が殺されたことに一緒に悲しめば良かった。
それから、ちゃんと謝るべきだった。僕たちの子供が殺された原因は僕にあるのだと、ちゃんとお前に伝えれば良かった。
そうすれば、お前は、必要以上に自分を責めることがなかったはずだ。
あのとき、お前の抱え切れない悲しみと絶望を受け止める相手がいたなら、お前は、自分の首に手をかけるはめにはならなかったはずだ!!
もしかしたら、ペトラを一人きりにさせず、僕が側にいたら、彼女が手にかけたのは僕かもしれない。
でも、それで良かったじゃないか。彼女が持つべきではない罪悪感で彼女自身を殺してしまうより、正しく諸悪の根源である僕が彼女に殺された方がずっと良かった。······そうであったら、良かったのに。
······身体の感覚がなくなってきた。さっきまで感じていた息もできない程の激痛も悪寒ももう感じない。それに、瞼が重くなってきた。
『貴方、歪んでいますよねぇ』
何でだろう。赤く染まった地面に重なって、ペトラの姿が見える。
懐かしい――僕らが本当の夫婦になって間もない頃の記憶だ。
『地頭は悪くないし、話が通じないって訳でも悪辣という訳でもない。それなのに、こんなになっちゃたのは、誰も貴方と向き合って、"正しいこと"を教えなかったからなんでしょうね』
違う。それは違う。ペトラ。
周りの人が僕に教えなかったんじゃない。僕が楽な方に逃げただけだ。
『貴方は悪い人だったけど······今でも若干口が悪いけど、でも、本当は良い人だって、今の私は知っていますから』
違う。僕は良い人なんかじゃない。
良い人はお前だ。お前以上の善人を僕は知らない。
お前はこんな人でなしの妻になってくれた。
『誰かに『側にいてくれ』と言われたのは、貴方が初めてなんです。······嬉しかった、本当に。だから私、一生貴方の側にいます。そして――貴方も一生私の側にいてください』
――――ああ、思い出した。
そうだ。そうだった。
最初から、彼女はそう言っていたじゃないか。
どうして、今の今まで、忘れていたんだろう。
目を閉じる。
もう何も感じない。何も見えない。何も聞こえない。
薄れゆく意識の中、ペトラに逢いたいと、それだけを思った。
見慣れた、しかし、どこか違和感のある天井が視界に映る。
僕はしばらくそれをぼんやりと眺めていたが、完全に意識が覚醒した瞬間、ばっと飛び上がった。
何だ、何が起こった?まさか、死に損なったというのか!?あの怪我で!?左胸を貫通したんだぞ!!
寝具をはだけて怪我を見遣る。
そこには、包帯はおろか、傷痕すら残っていない。
あり得ない、こんなの。
あれは間違いなく致命傷だったはずだ。たとえ奇跡的に助かったとしても、こんなに綺麗さっぱり傷痕一つ残らず完治するはずがない。
混乱していると、部家のドアをノックする音が聞こえた。
『入れ』
『失礼します』
入ってきたのは見慣れない若い従者だった。
『おい、あれから何日経った』
『はい?』
『だから、僕は何日意識を失っていたんだ』
混乱しているせいで若干語気が強くなってしまった。若い従者はおどおどしながら答える。
『若様は一晩しかお休みになっておりませんが······』
彼はとても困惑しているようだった。どうしてこんなことを質問されているのか分からない、と言いたげな表情で僕を見る。
『若様?』
『はい······あの、どうかされましたか?』
僕もここで違和感に気が付いた。
いつもより視線が低い。それに、自分の声が普段の声よりも高くなっている。
何か粗相をしてしまったかと怯える従者の顔をもう一度じっくりと見る。
見慣れない、とさっきは思ったが、こうして見るとどこかで会ったような気がする。だが、思い出せない。
『お前······名前は?』
『カスパル・カルセンです······昨日も言いましたが······』
カルセン······ディルガー公爵家の分家の一つである。そうだ、僕が学園に入学したときに付き人として用意されたのがカルセン家の三男だった。正直雑用係の一人なんて当時の僕は気にしてもいなかったし、彼はあるとき突然実家から勘当され、学園を中退したから今の今まで忘れていた。確か彼は学園を卒業した数年後、劇作家として成功していたはずである。劇を観に行ったことはなかったが、名前だけは風の噂で聞いていた。
彼は僕と同い年だから、壮年の青年になっているはずである。しかし、目の前にいるのは十代半ばの少年――僕のおぼろげな記憶の中にある姿のままだ。
辺りを見回す。そこは確かに僕の寝室だが、細部が微妙に異なっている。数年前に捨てたものが置いてあったり、数年前に買ったものが置いてなかったりしている。
この部屋模様は、確か、僕が学園に入学した頃の······。
そこまで考えて、自分の手を見た。
ペンだこも、割れた爪もない、血色のいい若い少年の手。
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
『······どういうことだ?』
『若様?』
僕は困惑するカスパルには目もくれず、自分の中に芽生えたあり得ない思いつきを確めるために自室にある鏡の前に立った。
プラチテブロンドの髪とペリドットの瞳を持つ、美少年がそこにいた。
少年だった頃の僕だ。
『嘘だろ······』
僕はよろよろと後ろに下がり、ベッドの上に倒れる。
これは、悪い夢?それとも、今までの記憶が、悪い夢だったのか?······いや、違う。夢なら夢だと分かるはずだ。僕の夢はいつも明晰夢なのだから。
つまり、これは、現実。
僕は、過去に戻ってきた。
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